第3話 ハムの人
木漏れ日の射す深い森の獣道を、注意深く横切る。目的の餌場へと続くこの道を、ミーヤは目印にはするが使うことはない。
大きな生きものに遭ってしまう確率が高いからだ。
肉食の動物はもちろんとして、ミーヤを食べようとしない草食の動物でも、踏み潰されたり蹴られたりする危険がある。大きな動物は、足元には意外に無神経だったりする。
『危険な場所には近づかない』
『何はなくとも一目散に逃げる』
ほんのヨチヨチ子毛玉の頃から、ミーヤはそれを絶対的な生存戦略として生きてきたのだ。
ところが――。
ミーヤは今、昨日挟まっていた大きな木を目指して、チョンチョンと跳ねていた。あんなにも怖い目に遭った場所だというのに。
昨日食べたハムは、ほっぺたがキュウッと痛くなるほど素敵な味だった。ミーヤはまん丸い自分の身体のどこが頬なのか、その時初めて自覚した。
ミーヤは素敵な味を何度も反芻しながら眠った。ハムは胃の中で溶けて、小さな身体へ行き渡り、もりもり元気が湧いて来た。
毒が仕込まれている可能性も少しだけ心配だったけれど、朝になっても苦しくなったり、お腹が痛くなったりしなかった。
だからつい……探せば、まだハムのカケラがひとつくらい落ちてるかも知れないと……そう思ってしまったのだ。
* * *
森は静かだった。木の上からは鳥の囀り、足元からは虫の声。
ミーヤはキョロキョロと辺りを警戒したが、危険の気配は感じなかった。
大きな木の根元にチョンチョンと近づき、そっと覗き込む。こんな場所に二日も挟まっていたと思うと、身悶えしたい気分になった。
(あ……れ?)
昨日ミーヤが挟まっていた、ちょうどその場所に、色紙が置いてあった。
昨日の色紙は目の覚めるような赤だった。それが緋毛氈を連想させて、ミーヤは『お供えもの』だと思ったのだが、今日の色紙は優しい黄緑色だった。
色紙の上には胡桃の実が三つ。フンフンと嗅ぐと、甘い蜂蜜の匂いがした。
(リスさんがいつも食べてる木の実だ……。殻がすっごく硬くて、わたしの歯じゃ勝てないし、ほじるの大変だった!)
どうやらミーヤは齧歯類ではないようだ。何度かリスの食べ忘れを見つけたが、殻の中にみっちり詰まった実を食べるのは、毛玉には難易度が高かったのだ。
ミーヤはもう一度用心深く周囲の気配を探り、安全を確認すると、胡桃の実に齧り付いた。
カリッ、と噛んだ瞬間、薄くまとった甘い衣がパリッと割れた。
次にくるのは、ローストした胡桃の香ばしい匂い。噛むほどに、こっくりした油と蜂蜜の優しい甘さが口の中いっぱいに広がった。
ミーヤはその場でピョンと跳ねた。
(おいしい、おいし〜い!)
チョンチョンと色紙の周りを跳ねて一周する。やめてミーヤ、また嵌っちゃったらどうするの。
ミーヤもそこは気がついたらしく、ピタリと止まり、しばらく考え込んでから胡桃ごと色紙を咥えた。残りは巣穴でゆっくりチビチビ食べるつもりなのだ。
ミーヤはまたフンフンと鼻歌を口ずさみながら、森の奥へと消えていった。
ミーヤの後ろ姿が、すっかり見えなくなった頃……。少し離れた茂みがガサリと揺れた。
大きな影が立ち上がる。
「うむ……」
その影が、どこか満足そうな呟きを漏らした途端……。危険な気配が立ち上がる。付近の木で休んでいた小鳥が一羽、硬直してポトリと落ちた。
「おっと、驚かせてすまんな」
影は大きな一歩で小鳥に近づき、そっと拾い、木の根元に置いて去って行った。ミーヤの鼻歌を真似て、小さく口ずさみながら。
バリトンボイスのその歌は、ミーヤの適当なフンフンとは違い、妙に格調高い響きを持っていた。
* * *
そんなことが繰り返されて二週間が過ぎた。食べ物が置かれているのは毎日ではなかったが、三日続けての空振りは一度もなかった。
置かれている食べ物は毎回変わり、ドライフルーツや焼き菓子だったり、小ぶりのクロワッサンだったこともある。もちろんハムの日も。
色紙も毎回違う色だ。
柔らかな薄紅梅、夜明け前の空のような青藍、若葉のような萌葱色、高貴な紅紫。
いつの間にかミーヤの巣穴は、すっかり華やかになった。ハムの人は意外にロマンチストなのかも知れない。
そんなある日。
朝から森には冷たい雨が降っていた。
(……今日は、行けないや……)
水たまりに落ちたら溺れるし、濡れた地面は滑りやすい。何より冷たい雨に濡れて体調を崩すことは、野生の毛玉には致命的なのだ。
ミーヤは巣穴でコロコロと転がっていた。昨日の小さなチョコレートはもう、全てミーヤの胃の中だ。
(昨日のお菓子もおいしかったなぁ。でも……なんでだろう?)
雨で暇だったので、考えごとをしてみる。
(太らせてから食べるつもりなのかな?)
ミーヤは自分で言うのもなんだけれど、あまり美味しそうなタイプの生き物ではない。過食部分も少ないし、なんだか苦そうだよねって思う。
(おいしそうになったら危険なのかも……。よし、あんまり太らないようにしよう!)
斜め上の結論に達したミーヤは、その日はチョンチョン跳ねて過ごした。筋肉で筋張った感じを目指そうと思ったのだ。
だが最近のミーヤはよく食べ、よく眠っている。程よく弾力の増した、噛みごたえのある毛玉に仕上がってしまう心配が否めない。
ミーヤは夕方にはパタリと寝てしまった。遊び疲れた夏休み中の子供のようである。
その晩は、ハムの乗った色紙が雨で流されてしまう夢を見て、少しうなされていた。
翌朝――。
早寝したせいか、暗いうちから目が覚めた。
(よし、今日は、ハムの人より先に行こう!)
ミーヤは夜明けを待って、雨上がりの森へと飛び出した。
* * *
いつもの大きな木が見える、少し離れた茂みで待機する。ミーヤは『ハムの人』の様子を観察しようと思ったのだ。
『なぜ、食べ物を置いていくのか』
『ミーヤを捕まえたり、食べたりするつもりなのか』
今日こそ、それを確認しようと思った。
おひさまが森の木の上に差し掛かった頃、ハムの人が現れた。
少し居眠りをしていたミーヤは、ビリビリと毛先が震えて逆立つのを感じて、(ぴゃっ!)と小さく跳ねて目を覚ました。
それは、ミーヤの天敵である狼ですら尻尾を丸める威圧感だ。だが同時に、絶品ごはん到着の合図でもある。
(来た! ハムの人だ!)
ハムの人は長い足でゆっくり歩いて近づいて来る。近づくたびに、空気がピリッと震える。でもその足取りは、風のない日の湖面を滑る影のようだった。
髪の毛の色は真っ黒だ。眉間には深い皺が寄っていて、切れ長の目も鋭い。そして瞳は『一番星の青』。
手足が長く、しなやかな猫科の肉食獣のようだ。ミーヤはゴキュっと唾を呑み込んだ。
(やっぱり、すごく強そう……。捕まったら、絶対に逃げられない)
危機感が募る。これはもう、関わり合いにならない方がいいのかも知れない。
ハムの人は木の根元にしゃがみ込むと、上着のポケットから小さな包みを取り出して……。
まるで壊れ物を扱うように、そっと色紙の上に置いた。
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《次回予告》
ハムの匂いにフラフラと誘われる毛玉。生存本能と食欲がせめぎ合う。
次話『第4話 怖くない……?』
毛玉、ついに大胆行動。




