第2話 怖い怖い人間さん
(に、人間……さんだ! 大人の男の人だ!)
全身の毛が無意識のうちに逆立つ。放電直前の雷雲のような、問答無用の暴力が人の姿をして、目の前に立っていた。
* * *
ミーヤは人間をこんなにも間近で見たのは初めてだった。
ミーヤの住む森はとても豊かだけれど、その向こうには天を突くほどの険しい山脈が聳えていて、前人未到の地だ。旅人や商人が通ることはない。
森の恵みを目当てにする人や狩人は時々見かけたが、ミーヤは遠くから眺めるだけで、近寄ったことがなかった。
(人間さんは、わたしを食べない……はず! だって身が少ないし、きっとすごく苦い。毛皮だってちょびっとしか取れないし……)
ただし、珍味の可能性はある。あるいは、貴重な薬などの材料になるかも知れない。
(やっぱり怖いよぉ!)
自然な感じを装って、そのままコロコロと転がって少し離れた。
(わたしはただの抜け毛の塊です! 生き物じゃありません!)
風に吹かれて転がる抜け毛を、全身で表現した。
しばらく物言わぬ抜け毛を演じていると、『ち、ち、ち……』と舌を鳴らす音が聞こえた。
(何回も舌打ちしてる……生き物だってバレちゃった? プチって踏み潰されちゃう!)
いっそ気絶してしまいたいと思いながら待ったが、いつまで経っても衝撃が来ない。
恐る恐る細く目を開けると、その人はしゃがみ込んで大きな手を差し出していた。
ちょいちょいと中指を誘うように揺らしている。
(わたし……呼ばれてる?)
プチッと足で踏み潰すのではなく、グシャッと手で握り潰したいのだろうか? 絶望で目の前が真っ暗になり、諦めて動き出す。
何しろミーヤはチョンチョンと跳ねるしか能のない、小さな最弱毛玉なのだ。
こんな恐ろしい存在に、逆らうような気概も、逃げ回って追い詰められる恐怖に立ち向かう勇気もありはしない。
コロコロと近寄ると、その人間の、それはそれは美しい青い瞳がピクリと震えてわずかに緩んだ。
* * *
ミーヤは一瞬、恐怖を忘れて見惚れた。
(あっ、一番星の、青だ……)
ミーヤが知っている青の中で、いっとう好きな青。ほんの僅かに夕焼けの残る群青色の空に、一番最初に輝きはじめる……その青。
(きれいだなぁ……)
次の瞬間、人間の大きな手が、グワっとミーヤの目の前に迫った。
ミーヤは心臓が跳ね上がるほど驚いて、そのままコロンと気絶してしまった。
気がつくと、ミーヤはずっと挟まっていた木の袂に寝かされていた。身体の上にはツルツルした絹のハンカチが掛けてあり、その上から葉っぱがミーヤを隠すように被せられている。
そして頭の脇には、綺麗な色紙が置いてあった。その上には小さく切ったピンク色の肉の塊が三つ。
ミーヤはキョロキョロと辺りを見回し、気配を探った。森は先ほどの騒ぎが嘘のように静まり返っている。
(お供えもの……?)
人間さんは、ミーヤが死んでしまったと思って、供養してくれたのだろうか?
ギュルル、ギュルルル
ミーヤのお腹が盛大な音を立てた。
(これ、ハムだ……! しかも高級ハム!)
よだれが滝のように流れ出る。何しろ、この二日間で眠くなるキノコしか口にしていないのだ。
(いいよね? 死んでないけど、もらっていいよね?)
遠慮がちに辺りを見回してはいるが、ミーヤの琥珀色の目は完全に『いただきまぁす!』と言っている。
ガブリと噛み締めると、モキュッと弾力がある。そしてジュワッと肉汁が染みでてくる。モキュッ、ジュワッ、モキュッ、ジュワッ。
(お、おいしいっ! おいしい〜!)
口の中が幸せだ。
鼻に抜ける燻した甘い匂いと、程よい塩気が後を引く。パクリ、そしてまたパクリ。あっという間に完食した。
(おいしかったー! ハムなんて食べたの久しぶり!)
あれ? 久しぶり?
ミーヤは野生の毛玉。高級ハムなんて、見たこともない……、初めて食べた、じゃないの?
ミーヤは「ふう〜」っと満足げに大きく息を吐くと、色紙をパクリと咥えた。
そして自分の呟いた(心の中で)意味など考えずに、上機嫌でハンカチの上を転がりはじめる。
絹のハンカチはツルツルしている為、シュッとよく滑った。
やがてハンカチは、パチパチと音を立ててミーヤの毛皮に貼り付いた。
(えへへ、秘技ペッタンコ!)
なぜか得意そうなミーヤ。
ミーヤは毛皮を擦ると、パチッと音を立てたり、枯れ葉や鳥の羽毛がくっつくことを知っている。巣を作る時や寝床を作る材料を集める時に、とても便利な技なのだ。
ミーヤは色紙を咥え、ハンカチを静電気で貼り付けてフンフンと鼻歌を口ずさみながら、チョンチョンと巣穴へと帰った。
* * *
絹のハンカチと色紙は、その日からミーヤの宝物になった。
そして……人間さんの呼び方は『ハムの人』に決まった。
ミーヤは確か青い瞳に見惚れていたのに。なぜ『一番星の人』ではなく『ハムの人』なのか。
それはミーヤが一番星を眺めながら、空っぽのお腹を抱えて眠った夜をいくつも越えてきたから。
『生きることは食べること』なのだと、身をもって知っているいるから。
決して、食いしん坊だからではない。……たぶん。
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本日は、一挙15話投稿の毛玉祭です。本日最終便は23時50分を予定しています。毎時間、即読みするもよし、最後にまとめて読むもよし!
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《次回予告》
謎の人間が残していった高級ハム。
その味を知ってしまった毛玉の運命は……?
次話『第3話 ハムの人』
毛玉、餌付けされる。




