リップクリーム・サラド
サラダボウルには小さな看護婦がついた市販のリップクリームがたくさんと、上から色合いのために散らされた5枚の厚い唇が盛られていた。「このサラダは僕が食べるものだから、別に君が本気にするようなことではないよ。」言われると君はそのおぞましいサラダから目を逸らすべく窓の外へ向け、そこにあった意味不明な河童の置物と目がぶつかるとひどく気まずい空気を味わっていた。店に着いたときにはあの河童は出迎えの役割を担い、来店する客たちの方へ顔を見せていたはずが、なぜ自分がこの席についてからは店内を覗きだしたのか。それに対面に座っている僕は普段のきっちりした様子からは想像もつかないその偏食を隠す様子もなく、むしろ披露しているようですらある。君は心底帰りたくなっていた。気持ちの悪いレストランだ。ウェイターの被ったコック帽が先の方で割れて耳の長いバニーのようで、皿を運ぶ足取りのたび垂れた耳が上下に揺れているのだ。さっきなどドリンクバーから戻る子供が持つコップのジュースにちょっぴり触れていた。忙しいウェイターはそのことに気がつかず、置いて行かれたその子供は一瞬、その場に立ち止まってジュースを見つめるとすぐに家族の席へ戻って行った。あの子が良い子だったからよかったものの、今度はいつ自分の料理にあれが入るのだろうと考えると全然気が気ではなかった。それ以前に、まだ君の料理は運ばれてこなかった。だからだろうか。僕がボウルに顔を埋めてリップクリーム・サラドを完食するまでのあいだに君は目の前から居なくなってしまっていた。するといつも美味しく感じているはずの唇の血と、まだ皮部分が繋がっているというだけの歯ごたえがなんだか妙に気持ち悪く思えてくる。僕は君のことを探しに向かうため、まだ来ていない料理も含めて勘定を支払っていると、彼女から一件、メッセージが届いたのだった。
『あなたと一緒にいると全部見られている気がして気持ち悪いです』
これについては僕も同感だった。僕自身もまた、僕として過ごしていると全てを僕に見られているような気がして、頭が痒くなることなんて日常だった。だが今はそんな個人的なことは置いておいて、急いで彼女に返信を送る。
『ほんとうにすみませんでした』
『今どこにいますか』
この2つの文章には返信がくることも既読がつくことも、一生なかった。
僕が勘定を終えると、厨房の方からあのバニーコック帽をつけたウェイターが「おつかれです」と言って仕事から上がるところだった。僕はウェイターが店を出るのに続いてドアをくぐる。外が来たときの夕方からすっかり夜になっていた。そして目の前でウェイターが急に逆立ちを始めたかと思うと、彼は手を使うのではなく、帽子の割れた二本耳によって支えられ、そのまま何事もなく逆立ちで帰ってしまった。そんな奇怪な出来事を目撃した僕は、もちろん驚きもしたがそれ以上に、今ここに立っている自分の情けなさが強く胸に刺さるのだった。でもだからといって、こういうブルーな気分のときにダイナミックな発散へ挑むほど、普段から何かを積み上げている訳でもない。だから今夜は、右の道へ出るところを反対の左へ、こうして帰り道をちょっと遠回りするくらいが僕にできる限界なのだった。




