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須磨の記

作者: あまだれ24


馬屋のオバが88年の生涯を須磨の海で終えた翌年、綾は同じ須磨の漁師の家に生まれた。


漁師の多い海辺に住む綾は、近所の老人たちから何かにつけて、綾は馬屋のオバの若い時分に生き写しだと聞かされた。


血の繋がりは無いのに、顔立ちはもとより、お前でなく「おまぁ」と相手を偉そうに呼ぶ癖までそっくりだった。


綾の産まれる前に他界したオバのことなど記憶にあるはずがない。なのに皆が口々に懐かしむ口調で喋るからだろう、いつの間にか綾の中に見たこともないオバの思い出ができあがっていた。


オバは老人たちの言うように、旱魃から皆を救うため三日三晩に渡る雨乞いをやり抜いた。飲まず食わずのその荒行が88になる老体から静かに死以外のものを洗い流したことは、想像に難くない。


三日目の昼にはまじないの骨を二つ叩き合わせると、須磨の埠頭から白波めがけ老いた腕で投げ込み、また祈祷を始めた。淡路を望む水平線に真っ赤な夕日が溶けるように沈み始めた時、やがてポツポツと雨が降り出した。小雨が次第に重みを増し豪雨に変わる頃、見守っていた群衆が歓喜の中ふと我に返ると、オバは波打ち際にうずくまったまま息絶えていた。


そういった場面がふとした拍子に綾の目の前を映画のスクリーンみたく駆けて行く。歓喜に湧くその群衆の中に、綾もまた紛れ込んでいるのだった。


もっとも、今年19になる綾が20年前に生を終えたオバと同じ時間を生きたはずがなかった。


綾は7人いる弟妹の世話をするために毎朝4時半に起きた。母は一昨年他界しているので、漁協で働く父と学校に通う弟妹の弁当も綾が支度する。綾はそれを大変だとは思わなかったが、冬の朝は床を出るのが辛かった。辛い事といえばそれぐらいだったものの、夜明け前の底冷えする寒さの中、まだ暖かそうに寝る弟妹に羨ましさを覚えなかった日はなかった。


まだ薄暗い台所で裸電球をひとつ点けて、寝ている人を起こさないよう気をつけながら、鼻歌も我慢して静かに朝飯と弁当を用意していた時。ふと窓の外に目をやると、路地の家々の間から細く見える須磨の海岸に、踊る火の柱のようなものが見えた。


「なんや」と綾は不思議に思った。


漁師の家はもう起きているはずだが、あんな動きの火はまだ見たことがなかった。時計を見るとあと5分で父を起こす時間だ。浜の妙な明かりが気になった綾は、行って帰ってくるだけなら3分もかからないと考え、そっとサンダルをつっかけて勝手口を後ろ手に閉めた。


外は信じられないほど寒かったが綾の胸はわくわくしていた。母が死んで以来、同じ毎日の繰り返しだったからだ。


路地を抜けるとすぐ砂浜だった。


やはり、見間違いではなかった。今は浜の20メートルほど西のあたり、埠頭のあるあたりを赤色と橙色が目まぐるしく移り変わる不思議な火の柱が、夜明け前の波打ち際を踊っていた。


綾がその言い様のない美しさに見とれていると、いつの間にいたのだろう、傍らに知らない男が立っていた。


ぎょっとした綾が半ば引きつった表情で「おまぁ誰や」と声を出した刹那、路地の方から「火事や、火事や!」と叫ぶ声が聞こえてきた。


ハッと我に返った綾が振り向くと、ちょうど家のあるあたりから、真っ赤な炎の柱が浜風に揺らめきながら燃えるのが目に入った。火は密集する長屋の屋根瓦を明々と照らしながら楽しそうに踊っている。


綾は呆然と夜明けの空に舞う火の粉を眺めながら、来た時と同じように、いつの間にか傍らの男が消えているのを気配で知った。


あれはきっとわたしの家だろう。


綾は冷静にそう考えた。すぐ帰るからと味噌汁を作るために沸かしていた鍋の火をつけっぱなしにしてきたのだ。


どこからともなく消防車の甲高いサイレンが聴こえてきた。


家の焼ける焦げ臭いにおいが浜に立ちこめる中、綾は思い出したように夜明けとは反対方向の西の浜をチラッと見た。まだあの人間大の火の柱は愉快そうに踊り狂っている。


「わたしも混ぜてもらおう」


そう思い、綾は、踊る火柱に向かって須磨の浜を跳ねるように駆けて行った。


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