中心部を目指して1
颯谷がそれに気付いたのは、ある朝のことだった。
「さっぶ……」
そう呟き、彼は目を覚ます。身体をさすって温め、そして次の瞬間、寝起きの気怠さが吹き飛び、さぁぁっと彼の顔から血の気が引いた。
寒い。つまり季節が巡ろうとしている。今までは夏だった。だがこれから秋になる。その次に来るのは冬だ。東北地方の冬がどれだけ厳しいのか、彼は身をもって知っている。
颯谷は自分の服装を見る。半袖のTシャツはもうすでにボロボロ。あちこちが破けてしまっている。くるぶし丈のズボンもドロドロだ。靴は無事だが、靴下はいくつも穴があいている。
どう考えても、寒さに耐えられる服装ではない。颯谷は想像する。もしも吹雪の中にこの格好で放り出されたら、と。凍えるだろう。いや凍えるだけでは済まない。死ぬだろう。凍死だ。モンスターではなく気候に殺される。しかもモンスターなら戦って抗うことができるが、気候が相手では抗うこともできない。
「どうする、どうする、どうする……!?」
いっそ恐怖すら覚えながら、颯谷はどうするべきかを考える。すぐに思いついた方針は大きく二つ。一つは冬が来る前に、いや寒くなる前に異界を征伐すること。そうすれば寒さに怯える必要はなくなる。
もう一つは何とかして冬を越えること。冬という脅威に対し、今のうちから何かしらの備えをしておくのだ。幸い、まだ時間はある。たぶん。なんの準備もできないということはないはずだ。
「…………、まずはメシにしよう……」
二つの方針についてアレコレ考えるのは後にして、颯谷はともかくその場から動き始めた。日差しを浴びていると、冷えていた身体も温まってくる。今日もまた暑くなるだろう。昨日まではそれがうとましかったのだが、今はまったく別に感じる。できるだけ長くこの暖かさが続いてくれ、とそう願わずにはいられなかった。
仙樹を探し、仙果を食べる。剛に教えてもらった知識ではないが、仙樹は雪の中でも仙果を実らせることを颯谷は知っている。ある異界の中でそういうシチュエーションがあったそうなのだ。
だから冬になっても、少なくとも食べる物には困らない。そのことは数少ないプラス要素と言っていいだろう。もっとも他の問題が多すぎ、かつ大きすぎる。食べ物があっても食べる側がくたばってしまっては意味がない。
「……さて、と。ちゃんと考えないとだな……」
仙果を食べてお腹を満たすと、颯谷はそう呟いて二つの方針について改めて考え始めた。理想的なのは寒くなる前にこの異界を征伐してしまうこと。だが果たして可能なのか。重要なのはそこだ。
彼はこの異界のコア、もしくは主がどこにいるのかさえ把握していない。征伐の目途がつく以前の問題だ。その状態で寒さが来る前に間に合うのか。少なくとも現時点では、無理と思ったほうが現実的だろう。
では「何とかして冬を越す」のはどうだろうか。それも、いかにも心許ない。だいたい「何とかして」とか言っている時点で具体性が何もない。いくつか思いつく案はあるが、それで足りるのかは分からない。確実なことはなにも言えないのだ。
「…………っ」
颯谷は眉間にシワを寄せた。思いついた二つの方針の、しかしそのどちらも確実性には欠ける。だが三つ目の方針は思いつかない。そして決断を先延ばしにしても良いことはない。不確実で心許ない選択肢しかなくても、行動方針を決めなければならない。そうでなければ、何もできずに死んでしまう。
「……中心部へ向かおう。で、その途中に寝床にできそうな場所を探す」
じっくりと考えてから、颯谷はそうすることにした。コアにしろヌシにしろ、中心部にある、もしくはいることが多いと分かっている。だが中心部やその近くにはより強力なモンスターも多い。だから今までは近づかないようにしていたのだが、こうなってしまっては仕方がない。
ただ、だからといって颯谷は早期の異界征伐を決めたわけではない。だから寝床を探すと言っているのだ。条件としては、雨風がしのげてたき火ができそうなところ。洞窟のような場所を想定しているが、そういう場所があれば少しは寒さもしのげるだろう。それでも真冬の寒さをしのげるとは思えないが。
ともかく、それでも動くしかない。歩き出そうとして、しかしすぐに颯谷の足が止まる。どっちが異界の中心部なのか、それさえもよく分からない。今のところ大鬼とエンカウントしたことはないので、この辺りはまだ中心部からは遠いと思うのだが。
「……登るか」
少し考え込んでから、颯谷はそう呟いた。ここには地図もコンパスもない。なら自分の目で見て確認するしかない。見晴らしの良い場所から異界の境界を確認することができれば、中心部の方角くらいは分かるだろう。
それで颯谷は山の斜面を登り始めた。登りやすい場所もあれば急斜面もあるが、量が増えた氣を身体強化に回して颯谷は頂上を目指す。別に頂上でなくても良いのだが、ともかく見晴らしの良い場所を探す。途中でモンスターを倒したりもしながら、彼は体感一時間くらいで見晴らしの良い場所へ出た。
「おお、よく見える……」
その眺めに颯谷はちょっとだけ感動した。ただ見晴らしは良いが同時に閉塞感も覚える。眼前、視界の最も奥に広がるのは、群青色の壁。それが空までずっと続いている。改めてここは異界という檻の中なのだと、颯谷は実感した。
「……アレが、ウチの裏山か」
近くにあるはずの彼の家は、しかし見えない。それでも群青色の壁の向こう、見慣れた家の姿を彼は幻視した。帰りたい。その思いがこみ上げる。その感傷を無視して、颯谷は無理やり思考を切り替えた。
「……端がコッチってことは、中心部はアッチか」
本当にまだ辺境にいたんだな、と颯谷は小さく呟いた。彼は反対側を見るが、異界の中心部は見えない。見るためには尾根を越える必要がある。道は険しそうだが、方向が分かっただけ良しとすることにした。
(それにしても……)
それにしても、いま彼がいる場所から裏山の山頂まで、直線距離だと3キロ、いや5キロくらいだろうか。正確な数字など分かるはずもないが、なんとなくそれぐらいに思える。ということはこの異界の大きさは、と考え颯谷は頭を左右に振った。それを考えるのは中心部の方向を実際に見てみてからで良いだろう。
もう一度裏山の方を見てから、それを振り払うように颯谷はそちらへ背を向けて歩き始めた。尾根に上がるルートは険しかったが、そこは身体強化で何とかする。途中、中鬼に遭遇したが、蹴飛ばしたら滑落したのでそのまま見送った。倒せたのかは分からない。レベル上げに繋がったのかも。
尾根に上がっても、そこからの見晴らしはあまり良くなかった。それで颯谷は尾根伝いに山頂方向へ歩き出す。お世辞にも歩きやすい道ではなかったが、傾斜が緩やかなのできつさはあまり感じない。そうやって30分も歩いただろうか。颯谷は見晴らしの良い場所へ出た。
「これが異界かぁ……!」
颯谷は感嘆の声をもらした。先ほどよりもさらに見晴らしが良い。そこからは異界のほぼ全容を見ることができた。
ここから見ると、異界がドーム状であることがよく分かる。空、いや天井は意外と低いように見える。異界の大きさは直径でだいたい20キロから25キロくらいだろうか。目測なので正確なのかは分からないが。
山地の一部が切り取られたような形になっていて、中心部はちょうど谷というか窪地になっている。あの辺りにコアがあるか、もしくはヌシがいる可能性が高い。つまり異界征伐のためには、あそこまで行くことになる。
「それにしても……」
それにしても、「異界にはなかったはずのモノが突然現われることがある」というが、ここから見る限りそういうモノは見受けられない。湧き水のような小さなものは幾つも見つけたのだが、湖や山が増えるような大きなものは今回はないのかもしれない。
過去には「鬼ヶ島があった」なんて話も聞く。「浮遊島みたいなのがあったら面白かったんだけどな」と颯谷は少し残念そうに呟いた。実際にあったとして、ともすればそこへ行かなければならないかもしれないということは、彼の頭には浮かばなかった。
「……おっ」
視線を動かしていると、颯谷は中心部へ行くためにうってつけのモノを見つけて小さく声を出した。道である。それもアスファルトで舗装された道路だ。その道が中心部のすぐ近くまで通っている。そこには何やら灰色の、開けた場所もあって目印になりそうだ。
道無き山道よりも舗装された道の方が歩きやすいのは分かりきっている。颯谷はひとまずその道へ出るのを目指すことにした。ただ山の斜面を降り始めると、すぐに視界を木々に遮られて道は見えなくなる。颯谷は「多分コッチでいいはず」と少し不安に成りながら歩を進めた。
途中、仙樹を見つけて仙果を食べる。仙樹だけでなく洞窟のような場所も探しているのだが、今のところ良さそうな場所はまだ見つかっていない。とはいえ前述した通り寒くなる前に異界を征伐できればそれが一番良いわけで、彼の思考もそちらへ偏り気味だった。
そんなわけでややおざなり気味に周囲の様子を確認しながら、颯谷は山の斜面を降っていく。途中、モンスターに遭遇したのは3回で、全部で小鬼が計7体の中鬼が一体。彼は全て危なげなく討伐した。
そうやって歩いていると、ようやく視界の先が開けてきた。さらに歩いて行くと、アスファルトの道路が見えてくる。颯谷の位置からはやや高さがあり勾配も急だったが、彼は迂回せず駆け足になってその斜面を駆け下りた。
「よしっ」
道路の上に立つと、颯谷は笑みを浮かべて大きく頷いた。当たり前だが、足下が平らだ。とても立ちやすい。人間の生活圏に帰ってこられたような気がして、彼は無性に嬉しかった。
「ってか、車でこの道を通っていた人とかいるかな……?」
期待の滲む声で颯谷はそう呟いた。道があるなら、そういう可能性はゼロではないだろう。ただあまり都合の良い期待をしないよう、彼は自分に言い聞かせた。
「えぇっと、コッチだな」
周囲を確認し、颯谷は左右のうち左の方向へ歩き始めた。道路の傾斜を見る限り、どうやら上っているらしい。さっき山の上から見た景色でも、そちらの方向が異界の中心部近くまで続いていた。
さてこの道だが、田舎の山道らしく決して広くはない。たぶん車で走っていて、対向車が来たらすれ違うのも一苦労だろう。颯谷のその推測を裏付けるかのように、道の所々にすれ違うためのスペースが設けられている。
ただ狭い道とは言え、人一人が歩くには十分すぎる。颯谷は楽々と進んだ。途中、何度かモンスターと遭遇したが、やはり足下が平らだと格段に戦いやすい。
ただ見晴らしが良いので奇襲がしにくい。そしてそれはつまり、向こうからもよく見えることを意味している。
「げ……」
進行方向にモンスターの一団を見つけ、颯谷は思わずイヤな顔をした。小鬼だけなら、いまさら彼もそんな顔はしない。だがそこには中鬼が混じっている。今までなら避けてきたパターンだ。しかしもう気付かれてしまった。
「グォォォオオオ!!」
中鬼の咆吼が響き渡る。小鬼たちも騒いでいるようだが、そちらは良く聞こえない。幸いまだ距離があったので、颯谷は一旦立ち止まって相手の反応を窺う。そんな彼を見てどう思ったのか、モンスターたちは彼めがけて猛然と走り出した。
一斉に駆け出したのは小鬼も中鬼も同じ。だが体格、つまり歩幅の差なのか、走る速度は中鬼のほうが圧倒的に速い。すると両者の距離は徐々に開くことになる。それを見て颯谷はゆっくりと後ろへ下がり始めた。
中鬼が迫ってくる。颯谷は手刀を構えてなお後ずさる。中鬼はついに彼を間合いに捉え、大きく腕を振り上げて殴りかかった。怖い。だが彼は目をそらさない。その瞬間、彼は一気に駆け出した。そして中鬼の太ももを手刀で切りつける。さらにそのまま脇をすり抜けた。
(よしっ)
颯谷は心の中でグッと拳を握った。だが喝采を上げるにはまだ早い。彼は中鬼を置き去りにして、後から追ってくる小鬼たちのほうへ向かった。小鬼は全部で3体。飛びかかってきた最初の1体の腕を掴んで捕まえ、そのまま振り回して2体目にぶつける。団子になった2体は後回しにして、颯谷は3体目の小鬼を手刀で袈裟斬りにした。
「ギィ……!?」
短い絶息は、しかし颯谷には聞こえない。彼の視線は残りの2体に向いている。起き上がってきたうちの片方を、彼は蹴り飛ばしてもう一度転がした。そしてもう片方をまた手刀で仕留める。
「グォォォオオオ!!」
後ろから響く中鬼の咆吼。それが颯谷を焦らせる。だが彼は振り返らず、先に最後の小鬼を仕留めた。そしてほぼ同時に転がるようにしてその場から飛び退く。間髪入れず、その場所に中鬼の拳が突き刺さった。
アスファルトがひび割れる。それを見て、「こんなヤツと戦っていたのか」と今更ながら颯谷は背筋を寒くした。だが「今までも倒してきた」と自分を励ます。そして手刀を構えながらさっき斬りつけた足の側へ回り込んだ。
中鬼が颯谷を捕まえようとする。だが負傷した足に力が入らなかったのかバランスを崩す。その隙を見逃さず、彼は貫手を形成。中鬼のみぞおちの辺りを斜めに貫いた。中鬼はそのまま倒れ込み、そして黒い灰のようになって消える。モンスターがいなくなったのを見届けてから、颯谷は安堵の息を吐くのだった。
中鬼さん「舗装された道を歩く。これこそ文明人!」