剣道
週明けの月曜日。この日は木蓮が部活に出るとかで、放課後の勉強会はない。そんなわけで颯谷も早々に帰宅し、着替えてバイクで道場へ向かった。
道場に到着すると、他の門下生から声をかけられたり、挨拶をしたりしながらいつもの場所へ。まず行うのは站椿の姿勢でやる流転法。氣の制御能力を鍛える、基礎的な鍛錬だ。家でも毎日やっているが、やはり道場でやるのが一番集中できるような気がする。
(増えたな……)
流転法をやりながら、颯谷は改めてそう感じた。体重ではない。氣の量である。二度目の異界征伐を終え、彼は自分の氣の量が増えたことを感じていた。
体感としては一割ほどだろうか。それより多い気もするが、二割には届いていないように感じる。要因としては、やはり土偶を倒しまくったからだろう。さすがは守護者と言ったところか。
(やっぱりあそこでレベリングすれば良かったんじゃねぇの?)
流転法をやりながら、颯谷は心の中でそう呟いた。ガーディアンが無限湧きする異界なんてそうそうないだろう。見方によっては氣の量を底上げする絶好のチャンスだったはずで、そんな異界をさっさと征伐してしまったのはちょっともったいなかったかもしれない。
とはいえ、あの状況で颯谷がさっさとケリを付けなかったら、死者の数はもっと増えていただろう。それにレベリング感覚であの土偶の大群と戦えるのは、それこそ颯谷くらいのもの。他の者たちは、やってやれないことはないだろうが、もっと覚悟が必要になる。そういう事柄も合わせて考えれば、レベリングなんてやってる場合ではなかったと言っていい。
(ま、もう終わったことだし、別にどうでもいいけど)
颯谷は心の中でそう呟いて流転法に意識を集中する。氣の量が増えたのは基本的には歓迎するべきことだ。ただそのせいで氣の制御はまた難易度が増している。次の異界征伐までにまた技量をそこへ追い付かせておかなければならない。だがその征伐でまた氣の量が増えれば、また技量は追い付かなくなるだろう。征伐に関わり続ける限り、基礎鍛錬に終わりはないのだ。
およそ一時間、颯谷は壁に向かい、站椿の姿勢を維持しながら流転法をやり続けた。集中力を保つのが難しくなってきたところで、彼は一つ大きく息を吐いて両腕を下げた。道着の袖で流れてくる汗をぬぐう。その程度で汗は止まらなくて、彼はすぐにタオルに手を伸ばした。
「お疲れ、颯谷」
「あ、お疲れ様です、澤辺さん」
タオルで汗をぬぐう颯谷に声をかけたのは、遊撃隊としてパーティーを組んでいた澤辺和彦だった。見れば和彦もしっかりと汗をかいている。こちらも鍛錬の合間の一休みらしい。
「組み手ですか?」
「いや、そっちと同じ流転法。おかげさまでずいぶん氣の量が増えたからな。おかげで鍛え直さないとになった」
「それはそれは。何よりです」
颯谷が大仰にそう答えると、和彦は肩をすくめて苦笑する。今回の征伐で和彦の氣の量が大きく増えたのは颯谷がパワーレベリングをしたから。これは同じパーティーメンバーの加藤真也も同じで、彼も最近は流転法で制御能力を鍛え直している最中だった。
そのせいか和彦と真也はこのところ、顔を合わせるたびに「こんなに真面目に流転法をやるのはいつぶりだ?」と、半分愚痴交じりに話している。もちろん氣の量が増えたことは喜ばしいが、大仰な颯谷の仕草を見ていると、なんだか元凶に煽られているような気もしてくるのだった。
「そう言えば澤辺さん。一つ聞きたいことがあるんですけど」
「ん、なんだ?」
「ほら、氣鎧っていうんでしたっけ、あの身体に氣を纏うヤツ。あれって、氣の層が衣服の上にも来ますよね? あれって、衣服にも氣が通っている状態ってことになるんですか?」
「ふむ、どう思う?」
「……ならないと思います。衣服自体は脆いままなので」
少し考えてから颯谷はそう答えた。実際、今回の征伐に着ていった迷彩服は、土偶の激しい衝撃波と真空刃の飽和攻撃にさらされたせいで、あちこちが千切れたり穴が開いたりしてしまっている。もし迷彩服に氣が通っていたなら、こうはならなかったはずだ。そして和彦もこう答えた。
「そうだな。結論から言えば、通っていないってことになる」
「でもそれもおかしくないですか? 通っていないのに抵抗を感じるわけでもないっていうのは……」
「そうだなぁ、不思議だよなぁ。もうちょっと早く疑問に思っても良かったよなぁ」
「んぐ……。で、実際どうなんですか?」
「ちっとは自分で考えろ、と言いたいところだが。俺も教えてもらったクチだからな。要するに透過しているんだ」
「透過……?」
「通り抜けているってことだな。通しているわけじゃないが、氣功を使ううえで邪魔にもならないってこと」
「なるほど……。それで……」
和彦の説明を聞いて颯谷は納得した。そんな彼に和彦はさらにこんなことを話す。
「仮にだけど、氣功を完全に遮断してくれる素材があれば、それは仙具とは別の意味でかなり有用だろうね」
「ですね。隠形や迷彩を使わなくても気配を隠せるってことですから。……ないんですか、そういう素材は?」
「厚さが10センチ以上の鉄板なら、氣功を完全に遮断できることが分かっているけどね」
「……とても実用的ではないですね」
「シェルターを作るには良いかもしれない」
そう言って和彦は肩をすくめた。雑談を終えて二人はそれぞれ鍛錬に戻ろうとしたが、そのタイミングで道場に一人の少女が顔を出す。ショートカットで、芯の強そうな眼をした少女だ。彼女は颯谷を見つけてパッと顔を輝かせた。
「あ、颯谷さんだ。久しぶり」
「司か。うん、久しぶり」
声をかけてきた少女に対し、颯谷も軽く手を上げて応じた。少女の名前は千賀司。千賀道場の主、茂信の娘である。歳は颯谷の一つ下なので、今は中学三年生だ。彼女は道場の娘らしく小さいころから竹刀を振っていて、今ではなんと三段の腕前。巷では天才と呼ばれる、剣道少女だった。
ちなみに、颯谷は「司」と呼び捨てにしているが、これは彼女の要望だ。最初、「お嬢」と呼んだらマジのトーンで「やめて」と言われ、次に「司ちゃん」と呼んだところ「“ちゃん”ってキャラじゃないから」とそちらも拒否されてしまったのだ。
ではどう呼ぼうかと颯谷も困ってしまったのだが、本人が「呼び捨てでいい」と言ったので、以来呼び捨てにしている。なお歳の差がある門下生からちゃん付けで呼ばれるのは、「もうあきらめた」とのことらしい。
まあそれはそれとして。千賀道場では普段、能力者と非能力者は別々に稽古をしている。颯谷は能力者であり、一方の司は非能力者。それで二人が一緒に稽古をすることは普通ならないはずだった。ただそんな二人を引き合わせたのは、他でもない師範の茂信その人である。
『桐島、剣道をやってみる気はあるか?』
茂信が颯谷にそう尋ねたのは、彼が高校に進学してすぐのころだった。素振りや型稽古が様になってきたのを見て、そう尋ねたのである。
能力者は剣道をやるべきか否か。この問題は、実は根深い論争の種になっている。最終的には「こし餡・つぶ餡論争」のように「個人の判断で決めてくれ」ということになるのだが、論争になるということは双方にそれなりの理があるということ。ここではそのさわりを紹介しておきたい。
まずそもそも論として、剣道は非殺傷のスポーツである。竹刀を振り回して相手を叩き潰すことを目的としているわけではない。いわばポイントの取り合いであり、そのために必要なのは正確で素早い打撃。威力ではないのだ。
つまり剣道の剣は速い。が、軽い。威力や重さを捨てて速度に特化している、と言い換えてもいい。スポーツなら、竹刀ならそれでいいだろう。だが怪異相手に竹刀で戦うことなんてないし、剣道のつもりで真剣を振り回すのはかえって危険だ。そして剣道のつもりでモンスターと戦うのはさらに危険である。
『剣道は実戦的ではない』
反対派の主張を要約すると、つまりそういうことになる。剣道が生まれた背景を考えればそれは当然のことで、だったらわざわざ剣道をやる必要はないというのが彼らの主張だった。
ただその一方で、「じゃあ普段から真剣を、あるいは木刀を使って立ち合い稽古をするのか」という話になるのも当然だろう。しかもそれを能力者がやるのだ。寸止めできずに大けがを負わせることは十分にあり得る。
剣道は確かに実戦的ではない。しかしだからこそ稽古にはちょうどいい。実戦的ではないとはいえ、実戦に近い形で稽古ができるのは大きなメリット。それに剣道の技術の中には実戦で通用するものもいくつかある。
『稽古として割り切って考えれば、十分に有用』
肯定派の主張はだいたいこんな感じだ。そういう事情を、颯谷は茂信から説明してもらった。颯谷は少し考え、そして「やってみます」と答えたのだ。もっとも、そのあと防具を買わされたのは想定外だったが。
そんなこんなで色々ありつつ剣道をやる準備は整ったわけだが、当たり前の話として一人で立ち合い稽古はできない。そこで対戦相手として茂信が連れてきたのが、彼の娘の司だったわけである。
『氣功能力だけは絶対に使わないように』
立ち合い稽古前、茂信は怖い顔をして颯谷にそう申しつけた。そんな顔をするなら少なくとも最初の相手は自分ですればいいようなものだが、そこへあえて司を連れてきた理由について颯谷はあまり深く考えないことにしている。
ともかくこうして颯谷は司と試合形式で稽古をしたわけだが、結果はボロ負けだった。最初の一回など、彼は一歩も動けずに面打ちをくらった。秒殺である。あまりにあっけなさ過ぎて司のほうが唖然としていたくらいである。そして彼女も気づいたのだ。「あ、コイツ思った以上に素人だ」と。
それ以来、司は颯谷に剣道を教えてくれている。もっとも彼女は「お小遣いアップのため」と言っていたので、茂信がそれをやらせているのだろう。学校の部活でも下級生に色々教える立場だという司は結構指導慣れしていて、颯谷は彼女に教わりながら少しずつ剣道の腕を上げていった。
『その、颯谷さんはイヤじゃないの? 年下の、それも女の子から教わるなんて』
『いや別に。そんなことないけど』
やや深刻な顔をする司に、颯谷はそう答えた。彼女が二度、同じ質問をすることはなかった。代わりにビシバシと教えてくれる。木蓮もそうだが、最近の女の子はみんなスパルタなんだろうかと、颯谷としては訝しがらざるを得ない。
司から教えてもらった剣道が先の異界征伐で役に立ったのか、正直に言って颯谷にその実感はない。ハニワにしろ土偶にしろ、斬り合いなんてしなかったからだ。しかしだからといって無駄だとは思っていない。その実感はむしろ高まっている。彼にとっては道場へ通う理由が一つ増えたと言っていい。言っていい、のだが……。
「本当に久しぶり。なんでずっと来なかったの?」
「高校生の本分は勉強だ。休んでいた間の分と、毎日進んでいく分と。追い付くのは大変なんだぞ」
「う~ん、まあ言いたいことは分かるけど」
「司こそ、良いのか? 受験だろ」
「スポーツ推薦が決まっているからね。むしろあたしにとってはコッチが本分」
そう言って司は手に持った竹刀を軽く掲げて見せた。そしてにやりと笑うと、その竹刀を颯谷に突き付けてこう言った。
「よし。来なかった間に錆びついていないか、見てあげよう」
「錆びついてたら?」
「叩き直す」
「はは、じゃあよろしく」
颯谷はそう言って一度席を外した。道場に置きっぱなしにしてある防具を身に着けて戻ってくると、司も準備万端で彼を待っていた。
二人はまず試合形式でも稽古をした。最初は秒殺されてしまったが、今は対戦時間もずいぶん伸びた。構図としては、攻める司に受ける颯谷。最初のころは司も攻めさせる姿勢を見せていたのだが、颯谷がどうやら防御の技術を学びたがっているようだと気付いてからは積極的に攻めるようになった。
司は燕のように身軽で、軽やかに動く。その動きを追い続けるのは大変だ。彼女が振るう竹刀は素早くて、面を、胴を、籠手を狙ってくる。その一つ一つを颯谷は受け、流し、避ける。そして一瞬の隙を見逃さずに打ち込むのだ。
「って、ありゃ……!?」
「胴ぉぉぉぉ!」
颯谷が竹刀を振り上げたその隙を、むしろ司が容赦なく突いた。結局、この日だけで颯谷は連敗記録を三つ伸ばした。
試合形式の稽古が終わると、次に司が技術的な指導をしてくれる。やはり錆びついてしまっていたらしく、颯谷はきっちり叩き直されたのだった。
颯谷「千賀道場はもともと古武術の道場では?」
司「剣道もやらないと、一般の門下生が来ないから」




