初スコア
「まさか、迷った……?」
散々な結果になった初戦。三体の小鬼から逃げ延びたその先は、颯谷の知らない場所だった。見慣れない風景に、彼の顔から血の気が引く。
なりふり構わず走ったとはいえ、所詮は人の足。そんなに遠くまで来たわけではないだろう。恐らくだが、まだ祖父である玄道の持ち山の中のはず。
だがここがどこなのか分からない。加えて必死だったせいで、どんな場所を通ってきたのかもよく覚えていない。たとえ「そんなに遠くではない」としても、颯谷はもとの場所に戻れる気がしなかった。
「どうする……? どうしよう、どうしよう……!?」
恐怖と焦りが思考力を奪う。頭の中が混乱し、足下さえグルグルと回り始めたように感じられた。そんななかで颯谷の目があるモノを見つける。それは赤黒い実が鈴なりに実った房。仙果だ。
仙果を見つけて彼の目の焦点が急速にそこへ合う。彼はフラフラと歩き出すと、手を伸ばして仙果の房を採った。そしてその実を食べる。そうやって仙果を食べていると、彼はまた五年前、駿河剛に教わったことを思い出した。
『いいか、坊主。異界の中に入ったら、まず最初に仙樹と仙果を探すんだ。仙果さえ食っていればとりあえず死なない。後の事はそれからだ』
「……ここからだ。ここからだ……!」
鼻水をすすりながら仙果を食べ、颯谷はそう自分に言い聞かせる。一度ボコボコにされたくらいなんだ。道に迷ったくらいなんだ。オレはまだ生きているんだ。生きている限り諦めない!
「そうだよ……。どうせ出られないんだ。ここがどこだって変わりゃしない」
重要なのは現在地の位置情報ではない。仙果だ。仙果さえ食べていればとりあえず死なない。そして仙果は探せばすぐに見つかるし、取り合う他人もいない。つまり食うモノには困らない。彼の思考はヤケクソ気味だったが、それでも彼の目はなんとか力を取り戻した。
仙果を一房食べ終えると、颯谷は「さて」と呟いて腕を組む。これからどうするのか。最終目標は異界の征伐だが、そのためには氣の量を増やさなければならない。つまりレベル上げだ。日常的にゲームで遊んでいる彼だから、その概念は理解しやすい。だが先ほど、三体の小鬼にボロ負けしたばかり。
「なら、最初は一体から、だな」
それしかないだろう。颯谷は一つ頷いた。さっきだって、奇襲自体は成功したのだ。あのまま攻撃を続けていたら、一体くらいは倒せていたに違いない。惨敗したものの、それくらいの手応えは得ている。
「一体ずつ、一体ずつだ……」
急く自分に、颯谷はそう言い聞かせる。一体ずつ倒し、レベルを上げ、氣の量を増やしていく。そうやって自分を強くしていかないと、大鬼やガーディアン、ヌシの討伐なんて夢のまた夢。当然、異界の征伐も、だ。
颯谷は辺りを見渡し、また一本木の枝を拾う。それを適当な長さに折ってから、彼はまた歩き始めた。一体だけの小鬼を探すためだ。周囲の気配を探りながら、彼は山中を歩く。小さな物音にも反応してしまい、ひどく神経を消耗していくように感じた。
(くそ、見つからない……)
どれくらい時間が経っただろうか。何時間も歩いているような気がするし、まだ一時間も歩いていないような気もする。常に気を張りながら山中を歩いているせいで、時間の感覚もなんだかあやふやだった。
小鬼だけでなく、モンスター自体がなかなか見つからない。今の状態で例えば中鬼や大鬼と遭遇したら、無事に逃げられるかも分からない。だからエンカウント率が低いのはむしろ良いことなのだろう。だが目的の小鬼まで見つからないと、レベル上げもできない。
(そう言えば、タケさんも言ってったっけか……)
五年前、剛が言っていたことを思い出す。なんでも、基本的に異界の中では中心へむかうほどエンカウント率が上がるのだという。逆に言えば、端っこの方ではエンカウント率は低いと言うことになる。
いま自分が閉じ込められている異界の大きさなんて、颯谷にはよく分からない。だが最初の時点で、異界のフィールドが地面と接するその境界部分に彼はいたのだ。つまりもっとも端っこだ。そこから多少移動したといえ、異界全体から見れば、彼がいるのはまだ端っこの部分なのだろう。
モンスターを求めて中心部へ行こうとは、颯谷も思わない。そもそもどちらが中心部方向なのかもよく分からない。だがレベル上げをしたいのにモンスターが出てこないのも困る。颯谷はまるで出口のない迷路を進んでいるような気分になりながら山中を歩いた。
「水の音……?」
そうやって山中を歩いていると、颯谷の耳がこれまでとは違う音を捉えた。水が流れるような音だ。颯谷は一度足を止めて音のする方角を探る。そして進行方向に対して右に曲がって水の流れを探した。
「あった……!」
見つけたのは岩の割れ目から流れ出す湧き水。触ってみるととても冷たくて気持ちがいい。颯谷が玄道から教えてもらった場所とは違うが、そことよく似ている。というより、飲みやすい高さだったり、下に綺麗な水が溜まっていたり、水場としてあまりにも整いすぎているようにさえ感じられた。
「これか……、タケさんが言ってたのは……」
湧き水で手や顔、腕を洗いながら、颯谷はそう呟いた。異界の内部ではそれまでなかったモノがいきなり存在するようになったりする。その一つが、こういう水場だ。水は生きていくのに欠かせない。仙樹(仙果)と合せて、異界内での生存のための重要なファクターと言えるだろう。
冷たい湧き水を、颯谷は手で汲んで飲む。一口飲んで、喉が渇いていたことを彼は思い出した。彼は何度も水を飲む。身体に水分が行き渡り、摩耗した神経も潤いを取り戻していくかのようだった。
「ふう……」
十分に水を飲むと、颯谷は手の甲で口元を拭う。それから彼はちょっと飲み過ぎたことに気付いた。お腹がちょっと重い。このまま動き回るのは苦しそうだったので、颯谷は少し休憩していくことにした。
その際、彼はちょっと考えてから、水場から少し離れた木の根元に座り込んだ。もしかしたらこの水場にモンスターが来るのではないかと思ったのだ。いや、モンスターが水を飲むのかは分からない。だが例えばクマなどの野生動物が来ることも考えられる。それで水場のすぐ近くで休むのは避けたのだ。
一度腰を下ろすと、颯谷はなんだか一気に疲れたように感じた。異界に閉じ込められてから、ずっと動きっぱなしだった。アドレナリンが出ていたからなのか、今まではあまり疲れを感じなかったが、どうやら動いた分の疲れは溜まっていたらしい。身体がズンと重くなったように感じた。
「じいちゃん……、心配してるよなぁ……」
考えてしまうのは、異界の外のこと。玄道はもうすぐ近くに異界が顕現したことに気付いているだろうし、颯谷が裏山に入っていったことも知っている。きっとひどく心配しているに違いない。
影響は玄道だけに留まらない。突然異界が顕現して、外では大騒ぎになっているだろう。警察や国防軍もすでに動いているに違いない。ニュース速報も流れているかもしれない。そして避難ももう始まっているだろう。
異界が顕現すると、すぐに一定範囲内の住民に対して避難命令が出される。氾濫を警戒してのことだ。その後、地形や交通事情、過去の事例などを考慮し、改めて避難地域が決定される。このとき家に戻れる人もいれば、新たに避難しなければならなくなる人もいる。
颯谷と玄道の家は、異界の中には入っていない。颯谷もそのことは良かったと思っている。だがすぐ近くだから、間違いなく避難対象だ。もしかしたら玄道ももうすでに避難しているかも知れない。
「にしても、スタンピードかぁ……。起こるとしたら、オレが死んだ後ってことなんだよなぁ……」
力なく、半笑いになりながら、颯谷はそう呟いた。避難などが必要であることは、彼も理解している。そういう国の方針が間違っているとは思わないし、ニュースでそういう場面を見ても疑問や違和感を覚えることはなかった。
だがこうして自分が異界の中に取り残されると、そういう対応が全て自分の死を前提にしているように思えてくる。被害妄想の入った考え方だとは思うが、「どうせ死ぬ」と世間に思われているようで、腹立たしいやら悲しいやら。
「絶対、生き残ってやる……」
その決意をまた新たにする。今はまだ決意だけで、自信も実力も何もない。だが自信も実力も、いずれ手に入れる。できる事を増やしていって、最後にはこの異界を征伐してやるのだ。
さてそんなことを考えていると、疲れのせいなのかまぶたが重くなってくる。颯谷はうつらうつらし始めた。やがて意識がすーっと遠のき、彼は浅い眠りに落ちる。どれだけ寝ていたのか、彼はバシャバシャという水の音で目を覚ました。
(ん……、水……?)
颯谷は薄く目を開け、それからハッとして起き上がると、身体ごと木の陰に隠れるようにして水場の方を伺う。そこには水場で音を立てて騒ぐ一体の小鬼の姿が。それを見て彼は「チャンスだ」と思った。
颯谷は唾を飲み込み、そばに置いておいた木の棒を握る。そして呼吸を整え、氣を身体に巡らせた。彼は慎重に小鬼へ近づく。ゆっくりと棒を振りかぶると、そのタイミングでふと小鬼が背後を振り返った。
「ギギィ!?」
「……っ!」
小鬼が驚くのと同時に颯谷は距離を詰める。そして小鬼の頭目掛けて木の棒を振り下ろした。だが僅かに外れ、木の棒は小鬼の肩を打つ。だがその一撃はなかなか強力で、小鬼はその場にうずくまった。
やった、とは思わない。同じ失敗を繰り返すわけにはいかないのだ。颯谷は強張った顔をしながらもう一度木の棒を振り上げ、そして振り下ろす。彼は何度も何度も木の棒で小鬼を叩いた。
小鬼も反撃しようとするが、それを察知して颯谷は木の棒を突く。威力はないがコンパクトな攻撃で、小鬼は体勢を崩してよろめいた。そこへまた、彼は力任せに木の棒を叩き込む。やがて小鬼は動かなくなり、その身体が黒い灰のようになって崩れる。それを見て颯谷はようやく棒を振り回すのを止めた。
「はぁ、はぁ、はぁ……! やった……、やったぞ……!」
緊張の糸が切れ、颯谷は木の棒を投げ出してその場に座り込む。そして歓声を上げた。見上げた空は相変わらず群青色のフィールドに覆われている。さっきまではそれを見る度に不安がこみ上げてきたが、今だけは晴れやかな気分だ。
なにしろこの異界に取り残されてから、ようやく手に入れた成果らしい成果である。しかも間違いなく自力で得た成果だ。颯谷は拳を握りしめた。
異界征伐という目標からすれば、まだスタートラインに立っただけかもしれない。それでもスタートラインに立つことはできた。自分にその資格があったことが、いや自分がその資格を得たことが、颯谷はたまらなく誇らしい。
「よし。じゃあ、このままここで……」
待ち伏せの成功に味をしめ、いや手応えを感じ、颯谷はいそいそと木の陰に戻ってまた身を隠した。そして息を殺し、次の獲物を待つ。ときどき仙果を食べるためにその場を離れたりしたものの、この日、彼はさらに二体の小鬼を倒した。
作戦は大成功、といえるのか。比較対象がないので、颯谷にもよく分からない。だが彼自身はこの結果に結構満足していた。そして三体目の小鬼を倒したとき、彼はふとあることに気がついた。
――――日が傾いてきている。
そのことに気付いて颯谷はさっと血の気が引いた。異界の中では必ずしも外と同じように昼夜や季節が巡るわけではない。だがそういうサイクルが外と同期しているケースも多い。そしてどうやら今回はそういうパターンらしい。
いや、正直に白状するなら、今この時まで颯谷は夜が来ることをまったく考えていなかった。小鬼の待ち伏せに夢中だったのだ。そして気付いた時にはもう夕方。ヤバい、と颯谷は焦った。
夜の山は暗い。実際に夜の山で過ごしたことはないが、光源が何もなければどうなるのかは颯谷にも想像できる。真っ暗だ。夜、照明を消した部屋のように。それを想像して、また彼のなかで恐怖がわき起こってくる。
「どうする……? 明かり、明かりを確保しとかないと……!」
颯谷はすぐに動き始めた。火を付ける方法には一応アテがある。だからあとは薪だ。颯谷は薪にできそうな木の枝を探し回った。一晩でどれくらいの量が必要になるのかはさっぱり分からない。それでとにかく集められるだけ集めた。
辺りが薄暗くなってきたところで、颯谷は薪集めを止めた。それから、にわか知識を頼りに石を並べて円を作る。どうしてこれが必要なのかは分からない。だがテレビではこうやっていた気がする。そしてその円のなかで薪を組んだ。細い枝など、火のつきやすそうなものを中心に集める。辺りはもうかなり暗い。彼は「ふう」と息を吐いて集中力を高めた。
薪に両手をかざし、彼は目を閉じて氣を身体に巡らせる。そしてその氣を両手に集めた。イメージするのは火。小さくても明々と燃える火を頭の中で思い浮かべる。すると彼の両手の間に小さな火種が生まれた。
氣の使い方は大きく分けて二つある。身体の内側で使うやり方と、身体の外側で使うやり方だ。前者を内氣功といい、後者を外氣功という。この火種は外氣功によるもので、これも剛から教わったものだ。
火種が薪に移って炎が燃え始める。それを見て颯谷は心の底から安堵の息を吐いた。日が完全に沈んだのはその少し後だった。
颯谷「絶賛迷子中。でもかまわん!」