大鬼再び
隠形、いや迷彩を使って気配を隠しながら、颯谷は姿勢を低くして林へ向かって駆けだした。あの巨大な大鬼と戦うなら、開けた場所より林の中のほうが良いだろう。大鬼にとって林の中は、自分の身長と同じ高さの杭が乱立しているようなものなのだから。
ただ大鬼も動いている。雪のせいで影響があるかもしれないが、そもそも一歩が大きい。その大きな一歩でずんずんと歩いていく。それでもなんとか、颯谷は林の端のあたりで大鬼に接近できた。
迷彩、つまり自分の気配を周囲に紛れさせる技術のおかげか、大鬼はまだ颯谷に気付いていない。彼が仙樹の長棒を肩に担ぐようにして構え、そこへ氣を流し込んでいく。そして大きく跳躍して両手で長棒を振りぬき、全力で伸閃を放った。
「はあああああっ!」
狙うのは巨木の幹のような大鬼の脚、その脛。大鬼の骨格は巨大とはいえ人間とほぼ同じ。ということは構造上の弱点も人間とほぼ同じと思っていいだろう。なら脛への一撃は利くはずだ、たぶん。
「グゥォォオオオ!?」
伸閃が直撃すると、大鬼は悲鳴を上げてよろけた。ただ切れてはいない。氣は刃状で放ったはずなのだが、切れなかった。骨が硬いのはともかく、皮膚も切れていないというのは想定外に悪い結果だ。だが今更引けない。
(よろけたってことは、ダメージはあったんだろ!?)
自分にそう言い聞かせ、颯谷はさらに距離を詰めた。さすがに一撃もらうと大鬼も颯谷に気付く。彼は正面からは突っ込まず、大鬼の側面へ回り込もうとする。それを追うように大鬼は腕を振り回した。
大鬼の腕が雪を派手にまき散らす。颯谷は紙一重でそれを避けた。ただ急ブレーキをかけたのだが、月歩でそれをやったせいで、止まらず逆に後ろへ飛んでしまう。月歩の制御が甘かったのだ。彼は背中から雪の中に突っ込んでしまった。
「くそっ……」
雪の中でもがきつつ、颯谷は急いで立ち上がる。彼が顔を上げると、大鬼が彼を見下ろしていて、さらに持ち上げた片足の影が彼にかかる。ゾクリとする、背中に氷刃を差し込まれたような感覚。考えるより早く、颯谷は全力で月歩を発動。弾き飛ばされるようにしてその場から飛びのいた。
「ガァ!」
大鬼が足を踏み下ろす。次の瞬間に響くのは、重くて大きな衝撃音。まるでハンマーで地面を強打したような、いやそれよりもっと強い衝撃音が林の中に響く。まともに受けていたらペチャンコになっていただろう。颯谷は恐怖で胃を締め付けられるように感じた。
(怖い怖い怖い怖い怖い、でも……!)
恐怖をこらえて、颯谷は前に出た。大きく一歩踏み出した状態の大鬼の、その側面へと回り込んで伸閃を放つ。あたったのは太もものあたりか。やはり切れない。そして大鬼の視線が颯谷に向く。大鬼の踏み付けを、彼は加速して回避する。そして軸足のほうを、今度は直接切りつけた。
「あああああっ!」
悲鳴のような雄たけびを上げながら、一閃。すると今度は少し切れた。それほど深くもない、皮膚が少し切れただけのような傷。だがそれでも攻撃が通じた。そのことが挫けかかっていた彼の士気を立て直す。
「はあああああっ!」
颯谷はがむしゃらに攻めた。何度も切りつけて大鬼の脚に傷を増やしていく。だがどれも浅い。機動力を奪うような、決定的なダメージは与えられない。
一方、大鬼は足元にまとわりつく彼が迷惑そう。何度も踏みつけようとする。頭上から鉄板が落ちてくるようなその攻撃を、颯谷は頭が痛くなるほど集中して避け続けた。
そして、ふと気づく。大鬼が何度も踏みつけをしたので、大鬼の周囲の雪がすっかりと踏み固められている。固められたその雪は、颯谷の体重をしっかりと支えてくれた。
(チャンス……!)
リスクを承知で、颯谷は足を止めた。そして氣を練り上げる。大鬼がまた片足を持ち上げると、月歩を駆使して爆発的に加速。大鬼の身体を支えるもう一方の脚を狙って勢いよく仙樹の長棒を突いた。
「ガァァァアア!?」
大鬼が悲鳴を上げた。しかし颯谷は険しい顔で舌打ちする。彼が放った突きは、しかし思ったよりも刺さらなかった。彼はすぐにその場を飛びのく。大鬼は怒号を上げながらその場を踏みつけたり足で蹴り上げたりした。
その激しい暴れ方に、颯谷はたまらず距離を取った。相手は巨大な大鬼。かすっただけでも大ダメージになりかねない。
逃げる颯谷を、大鬼が目を怒らせて追う。彼は林の木々の間を縫うようにして逃げた。大鬼は彼を追うが、林の木々がそれを邪魔する。林の中で戦うのは正しかった。だがここで颯谷は一つミスを犯した。
「っ、やば……!」
木々が途切れて視界が開ける。颯谷は走りながら「あっ」という顔をした。方向を確かめないで走ったせいで、林から出てしまったのだ。だが林のなかへ戻ろうにも、後ろからは大鬼が追ってくる。
仕方なく、颯谷はそのまま走った。林を抜けると、大鬼も速度を上げる。そして大きな地響きを立てながら颯谷を追った。だがなかなか追いつけないのを見て、大鬼は片足を大きく降り抜く。そうやって大量の雪を飛ばしたのだ。
「ぶほっ」
雪の塊が背中にあたり、颯谷はつんのめって前方へ転んだ。ダメージとしては小さい。だが足が止まってしまった。立ち上がるのにも少し手間取り、顔を上げたときに見たのは組んだ両手の拳を高々と振り上げる大鬼の姿。颯谷は頭から血の気が引くのを感じつつ、それでもその場から飛びのいた。
まるで地震のような衝撃。だが颯谷は何とか直撃は避けた。そしてピンチの後にはチャンスが来る。大鬼としてもこれは渾身の一撃だったらしく、立ち上がる動作は緩慢だ。笑いそうになる膝に喝を入れながら、仙樹の長棒を構えて颯谷は仕掛ける。
「あああああっ!」
とにかく伸閃を放つ。大鬼は膝をついたまま片腕を掲げてそれを防いだ。はたから見れば大鬼は防戦一方。それが颯谷に戦況を勘違いさせる。押している、やり込めていると思い込んで、彼の意識は徐々に攻撃へ偏っていく。
「はあああああっ!」
颯谷は大きく跳躍して、仙樹の長棒を大きく振り上げた。その瞬間、大鬼の赤い双眸が彼を捉える。その視線は確かに彼を貫いた。頭に上っていた血が一気に引く。攻撃に偏っていた意識は、一瞬にして防御へ振り切れた。
颯谷は外纏法を可能な限り厚くした。身体を縮め、腕を顔の前で交差させて防御を固める。そしてそれで正解だった。次の瞬間、大鬼は音響兵器のような雄たけびを上げながら、握りしめた拳を振りぬいたのである。
「ガァァァアアア!!」
まるで車に轢かれたかのような衝撃。全身の骨が砕けたのではないかとさえ思う、そんな衝撃だ。いっそ空中で良かったというべきだろう。仮に踏んばっていたとしたら、本当に彼の身体はバラバラだったに違いない。
さらに彼にとって幸運だったのは、今が冬で、殴り飛ばされたその先が分厚く雪が積もった山の斜面であったこと。彼はまるで弾丸のような速度でそこに激突したが、分厚い雪の層がクッションになったのだ。さらにそのまま埋もれたのも良かった。大鬼は彼を見失ったのである。
「…………っ」
大鬼に殴り飛ばされ雪に埋もれた颯谷は、しかし意識は失っていなかった。彼は迷彩を使い、自分の氣功の気配を周囲の雪に紛れさせる。そのまま息を潜めていると、彼が死んだと思ったのか、大鬼は身をひるがえして林の中へ戻っていった。
大鬼が颯谷に背を向けても、彼はしばらく息を殺し続けた。そして大鬼の大きな背中が林の木々に紛れて見えなくなってから、ようやく安堵の息を吐く。同時に緊張が解けたことで全身が痛み始めた。その痛みをこらえながら、彼はともかく雪を押しのけて外へ這い出た。
雪の斜面に立ち、改めて周囲を見渡す。ひとまずモンスターの姿はなくて、颯谷はもう一度安堵の息を吐いた。なんとか、生き残った。死なずに済んだ。だが気分は苦い。これは敗北の味だ。
こみ上げてくる悔しさに、しかし今は蓋をする。彼は平常心を意識しながら、まずは自分の身体を確かめた。両手両足、ちゃんとある。片目がつぶれたりしていないし、骨も折れていない。五体満足だ。
「血は、出てないよな……」
全身をペタペタ触りながら、颯谷はそう呟いた。胴や手足に血が出ている箇所はない。顔や背中を触っても、少なくとも手が届く範囲にぬるりとした血の触感はなかった。そのことにまず、彼は胸をなでおろす。
ただそれでも、全身が痛い。そのうえで、大鬼の拳を直接受け止めた両腕がやはり一番痛い。見ると派手に内出血している。腕がこんなに内出血したのは、体育の授業でバレーのレシーブをひたすら練習したとき以来だ。まああれは腕の内側だったが。
さらに山の斜面に叩きつけられた背中も痛い。雪の分厚い層がクッションになったはずだし、そもそも背中は防御力が高いという話なのだが、ズキズキと鈍痛がする。腕と同じように内出血しているのかは、ちょっと確認のしようがない。
ともかく、よくこの程度ですんで良かった、と思うべきだろう。一歩間違えば死んでいてもおかしくなかった。だが勘違いしてはいけない。生き残ったのは実力のおかげではなく、ただ単に幸運が重なったからである。颯谷もそれを自覚していて、それが彼をさらに惨めにした。
ただ一つだけ。咄嗟に外纏法を分厚くできたのは良かった。全身が痛いが、それでもこうして五体満足でいられるのは、きっとそのおかげである。アレが間に合わなかったなら、今頃生きていたとしても血反吐はいて這いつくばっていたに違いない。
外纏法を分厚くするだけの氣の量があったのはここまでちゃんとレベル上げをしてきた成果だし、あの一瞬で分厚くできたのはそれだけの制御力を身に着けたことの証拠。今までやってきたことは、決して無駄ではなかった。今まで積み重ねてきたモノが、彼自身を救ったのである。それは間違いない。ただそうだとしても、彼の心は全然晴れなかった。
歯を食いしばり、仙樹の長棒を強く握りしめて、颯谷は悔しさを押し殺す。ここはまだ危険な場所だし、今日はまだやることがある。渦巻く諸々の感情は、すべて腹の中に押し込めた。
「ちくしょう……」
それでも漏れる一言。それでもその一言だけで彼はメンタルを立て直す。立て直さなければ本当に死にかねないと分かっているからだ。それくらいには彼も異界に順応している。順応せざるを得なかった、ともいうが。
その日、それから彼は努めて淡々と、感情を動かさないように過ごした。そうしないと腹に抑え込んだ諸々を吐き出してしまいそうだったのだ。見つけたモンスターを作業のように狩り、黙々と仙果を食べ、機械的に仙果のついた枝を洞窟へ運ぶ。
洞窟に戻るとユキとアラレがじゃれ付いてくるが、今は遊んでやる気になれない。短く頭を撫でてから、彼はまたすぐに洞窟の外へ出た。身体を動かしているほうが気分は楽だった。
とはいえ、ずっと動き回っているわけにもいかない。日が傾いてきたところで、颯谷は洞窟に戻った。そして暗くなる前にたき火を熾す。薪の束を積み上げて洞窟の入り口を荒く塞ぐと、彼は「ふう」と息を吐いた。
ゆらめく炎を見ながら確保しておいた仙果を食べる。腰を落ち着けてしまうと、抑えていたモノがあふれ出てくる。負けた。手も足も出なかった。やってきたことは無駄ではなかったかもしれないが、全然足りていなかった。その現実をまざまざと突き付けられた。
「ちくしょう……、ちくしょう……!」
鼻をすすりながら、颯谷は身体を震わせてそう呟いた。慰めているつもりなのか、マシロがそばに寄ってきて身体を触れさせる。颯谷はマシロを抱きしめて悔しさに耐えた。
マシロ「アニマルセラピーに自信あり」