大学入学4
朝一番で諏訪部研の実験に協力した、その日の放課後。大学の講義が終わると、颯谷は真っ直ぐ家には帰らず、車を走らせて千賀道場へ向かった。大学生になっても、道場へ通う頻度は落としていない。
道着に着替え、しかしすぐには鍛錬を始めない。彼はまず師範である茂信の姿を探した。今日の実験で、彼は内氣功がまだまだ未熟であることを数字で示されてしまった。そのことについて相談したかったのだ。
「あ、師範。ちょっと良いですか?」
「颯谷か。どうした?」
振り返った茂信に近づき、颯谷は今日の実験のことを話した。彼の話を聞くと、茂信は興味深そうに「ほう」と呟く。そしてこう言った。
「その実験、興味があるな。紹介してくれないか」
「あ~、はいはい。じゃあ諏訪部研の人に連絡しておきますね~。……で、本題なんですけど、内氣功の練度を高めるためにはどうしたら良いと思います?」
「ふむ……。基本的には流転法で氣の制御能力を鍛えるしかないだろうな。だが増幅率の低い箇所は分かっているんだろう? ならそこを意識してやってみれば良いんじゃないのか」
「あ~、実は筋肉の名前が良く分かんなくて……」
颯谷がそう白状すると、茂信は呆れたように苦笑を浮かべた。そして彼に「実験結果を見せてみろ」と告げる。颯谷がそれを見せると、ざっと目を通してから、茂信は「ここと、ここと、ここの筋肉だ」と言って颯谷に増幅率の低い箇所を教えた。
「さすがに詳しいですね」
「この業界で食っていくなら、これくらいは常識だぞ、まったく……。まあいい。とにかくそこを意識してやってみろ」
茂信に促され、颯谷は内氣功を活性化させた。教えてもらった筋肉を意識しつつ、身体の内側に氣を滾らせていく。すると確かに、いつもとは少し手応えが違うような気がする。彼は内心で一つ頷きながら茂信にこう尋ねた。
「えっと、どんな感じですか?」
「ふむ……。外から見る分には、今までとあまり変わりないように思えるな……」
茂信はいわゆる凝視法も使っているのだが、今までと比べてあまり大きな差は認められない。「身体の内側の事だから、見えにくいのかもしれない」と彼は言う。颯谷が顔をしかめる横で茂信は少し考え込み、それからさらにこう言った。
「ちょっと待っていろ。今、眼鏡の仙具を持ってくる」
そう言って茂信は一度席を外した。そして数分後、眼鏡ケースを手に戻ってくる。古めかしい眼鏡をかけると、彼は颯谷にこう言った。
「よし、颯谷。流転法をやってみてくれ」
「流転法? 内氣功じゃなくて?」
茂信が「そうだ」というので、颯谷は内心で首をかしげつつも站椿の構えをとって流転法を始めた。その様子を茂信は矯めつ眇めつ観察する。颯谷の周囲をぐるりと一周見て回ると、彼はおもむろにこう言った。
「上手にやっていると思っていたんだが、ふむ……。確かに増幅率が低い箇所は氣の流れが乱れているというか、滞っているな」
内心の興奮を抑えながら、茂信は努めて平静にそう述べる。次に彼は颯谷に内氣功を使わせてみるが、この場合も似たようなムラが視認できる。これは彼にとっても思いがけない発見だった。
眼鏡やモノクルなどの仙具が注目されるようになってから、すでに二年近くが経過している。幸運にも千賀道場には眼鏡の仙具が一つあり、それを使ってこれまでに様々な検証が行われた。
当然ながらその際には、内氣功や流転法の検証も行われている。ただその時にやったことと言えば視え方を確認したくらいで、それにどういう意味があるのかは検証されなかった。どういう問題があるのか分かっていなかったし、また他にもやりたい検証が多かったからだ。
それが今回、颯谷が持ち込んだ「内氣功を用いた筋力測定の結果」から、「内氣功による強化の割合が一定でない」という問題点が見えてきた。そしてそれ前提として改めて観察したとき、今までは気付けなかったムラや乱れを「ムラ」や「乱れ」として認識できたのである。
問題点とその原因が分かったのだから、そこから解決策を導くのはそれほど難しくはない。茂信は氣の流れにムラのある場所を指摘し、颯谷はそこを意識しながら流転法を行う。要するに、知らず知らずのうちについてしまったクセを矯正するのだ。
「意識はまず全身に向ける。そのうえでムラのある個所を重点的に意識する」
「はい」
「ゆっくりでいい。丁寧にやること。それが重要だ。弱点を全体の水準へ無理に引き上げるのではなく、まずは全体の水準を下げて、そこから徐々に底上げしていけ」
茂信の言葉に颯谷は頷く。彼は真剣に流転法に取り組んだ。こんなに真剣にやるのは、入門したての頃以来かもしれない。しばらくすると、彼は背中にじっとりと汗をかき、額にも玉のような汗が浮かぶ。稽古を続けながら、颯谷はもう一つ気になっていたことを茂信にこう尋ねた。
「ところで師範。ちょっと聞いて良いですか?」
「なんだ?」
「内氣功の使い方なんですけど、一点集中! って感じのやり方はあるんですか?」
「……あると言えばある。だがウチを含めた多くの流派で推奨していない」
やや険しい顔をしながら、茂信はそう答えた。なんだか答えたくないようにも見えたが、そんな彼に颯谷はさらにこう尋ねる。
「それは、どうしてですか?」
「一点集中ということは、逆に言えば他はカバーしないということだ。すると内氣功でカバーされていない場所が反動でダメージを受ける」
「あ~……」
「それから動きのバランスも狂う。まあ、ダンベルを持ち上げるくらいならそれでもいい。だがそもそも内氣功を使う目的はなんだ? 異界でモンスターと戦うことだ。そして戦闘は全身運動。全身を連携させて動くんだ。その中で一点だけ強化したらどうなるかは、ちょっと考えれば分かるだろう?」
だから多くの流派では全身を等しく強化する内氣功の使い方が基本となっている、と茂信は説明する。そして「結局のところそれが全てだ」と付け加えた。そうでなければ危険、ということなのだ。
「じゃあ、一点集中みたいなやり方は禁じ手ですか?」
「禁じ手というほどではないが……。さっきも言ったが推奨はしていない、という扱いだ。道場の対人稽古で使っていたらさすがに厳しく注意するが、それくらいだな。ただ頼まれたら、相手によっては指導することもある」
「え、なんでですか?」
颯谷は思いっきり首を傾げた。さっきまで話していたことと矛盾するように思えたからだ。そんな彼に茂信はこう説明する。
「防御のためだな。防御に関して言えば、一点集中して防がないとマズい場合って言うのは、ないわけじゃない」
「でも、やっぱり反動でダメージを受けたりとかは……」
「それはある。あるが、防げなかったらもっと酷いことになる。筋を痛めただとか、骨が折れただとかはあるかもしれない。だが、死ぬよりはマシだろう?」
「それはまあ、確かにそうですね……」
つまりコラテラルダメージということだな、と颯谷は理解した。反動によるダメージを前提にして、それでも使ったほうがマシな状況、ということだ。
(そう言えば……)
思い返してみれば、颯谷も内氣功を一点集中させて防御に使ったことがある。最初の異界で、あの巨大な大鬼に殴り飛ばされたときだ。
あの時、彼は交差させた両腕に氣を集め、それによって巨大な大鬼の攻撃に耐えた。あの時は咄嗟の判断だったが、そうしなければあの攻撃で彼の身体ははじけ飛んでいただろう。
いま振り返ってみても、確かにあの場面は内氣功の一点集中が必要だった。そして長く現役でいればいるほど、そういう場面は増えるに違いない。彼のその考えを肯定するように、茂信はさらにこう続けた。
「それにある程度の期間現役でやっていれば、思いつくモノではあるんだ、こういうのはな。きっかけはどうあれ我流で使い始める者もいるし、だったら指導して一緒にリスクも説明したほうが良い」
「でもだったら、全員にちゃんと指導したほうが良くないですか?」
「博打みたいな防御法に時間を割く前に、まずはこうして内氣功の練度を高めるべき。そうは思わないか」
「……優先順位の問題ってことですか」
「まあ、そうだな。それに緊急時の技だと言い含めても、知れば使いたくなるのが人間の性ってやつだ。それこそ攻撃に転用する奴だって出てくるだろうな」
だから基本的には教えない方針なのだ、と茂信は言う。一方、颯谷は内心でドキリとする。彼自身、このアイディアを思いついた時、まず考えたのは「攻撃力が上がるかも」ということだった。そんな彼の内心を見透かしたかのように、茂信はさらにこう続ける。
「それと、これは師範として言っておくが、颯谷は人並外れて氣の量が多いんだ。つまり一点集中したときの強化率は跳ね上がることになるし、その分反動も大きい。絶対にやるなとは言わないが、君の場合は普通に内氣功を使っていればそれで十分に強いから、リスキーなまねはしない方が良い」
「了解です」
颯谷は大人しくそう答えた。どのみち、まずは茂信が言う通り内氣功の練度を上げることが優先だ。かなりできるようになったと思っていた流転法も、実はムラや乱れがあることが判明してしまった。そしてこの二つは密接に関連している。
(鍛え直し、だな)
内心でそう呟き、颯谷はまた鍛錬のほうに意識を集中させた。
さて、それからしばらくは平穏な日々が続いた。諏訪部研での計測はその後二回行い、ひとまず実験への協力はそれで終わった。使った筋トレ器具の名前も教えてもらい、それを参考にしつつ、後日自宅のトレーニングルームに機材を入れるつもりである。
もっとも諏訪部研への出入りは続いている。諏訪部に頼まれ、また別の実験に協力したり参加したりしているからだ。その度にコーヒーもご馳走になっていて、そちらも目的の一つだったりする。実験も鍛錬の参考になるものが多く、双方が納得できる関係が築かれていた。
そんな颯谷であるが、実のところ諏訪部研よりも顔を出している場所がある。学内の氣功能力者が集まるコミュニティである、「氣功能力者俱楽部」だ。これはサークルなのだが、大学側に届出をして部屋を一つ借りていて、彼はそこへはちょくちょく顔を出していた。
私立東北西南大学には総合研究棟と呼ばれる建屋がある。学内で最も大きな、すり鉢状の講堂がある建物で、またどの学部の学生でも聴講できる講義が開催されることが多い。それで颯谷にとっても比較的馴染みのある場所だ。
氣功能力者俱楽部があるのは、その総合研究棟の三階である。サークルに所属しているのは全部で47名ということだが、颯谷はまだ全員と顔を合わせたことがない。新入生歓迎会の時も30名弱だったので、かなり緩いサークルであることは間違いなかった。
「そもそも、何もしないしね」
「ねー」
そう言ってソファーでだらけているのは二人の女子学生。二人とも過去の異界顕現災害で仙果を食べて氣功能力に覚醒したが、その後は道場に通うこともなく一般人として過ごしてきた。このサークルに入るまでは氣功能力者とほぼほぼ関りのなかった二人である。
そんな二人が氣功能力者俱楽部に入った当初の理由は、「お金持ちが多そう」とか「ここで人脈を作っておくと就活に有利そう」という、個人的かつ俗っぽいもの。ただしそういう当初の目的はすでに達成困難になっている。ここでそこまでウェットな関係を築こうという者が少なかったのだ。
それでも彼女たちが度々ここへ来るのは、歴代の先輩たちが残していったマンガや小説などが多数あるから。ついでに言うと菓子類も豊富だ。しかも結構良いヤツが。武門出身の学生が貰ったはよいが食べきれないモノを持ってきたりするからだ。またOBが差し入れに持ってくることも多い。
そして白状してしまうと、颯谷がちょくちょく顔を出している理由も、この菓子類だったりする。普段、自分ではなかなか買わない類の菓子がたくさんあり、それをつまみながらレポートという名の宿題をやるのが、ここでの彼の過ごし方になっていた。まあ、時間的にはマンガを読んでいるほうが長いのだが。
(それに……)
それに、こうして大学内に腰を落ち着けられる場所があるというのは、大学生生活を送るうえでなかなか無視できない。最近、彼は特にそう感じている。クラスというものがないので、どことなく居場所がないように感じてしまうのだ。
居場所というなら、諏訪部研に入り浸ることもできる。ただ諏訪部研だと話題が氣功能力関連のことに偏りがちだ。またあそこだと颯谷はあくまでもお客さんの立場。どうしても遠慮してしまう。気兼ねなくダラダラと時間を潰せる場所として、氣功能力者俱楽部のサークル部屋はいろいろ都合が良かったのである。
そして時間は流れ、六月。そろそろ東北地方も梅雨入りかという時期に異界が現れた。場所は青森県の東部。小さな漁港が異界に呑まれたという。テレビのニュース速報でそれを知り、颯谷は赤紙の到来を予感するのだった。
茂信「しかし随分マニアックな筋肉の計測もしているな……」