大学入学1
私立東北西南大学理学部自然科学学科。この春、颯谷はそこへ進学する。ただ彼には入学式の前に乗り越えなければならない壁があった。ネクタイの結び方がよく分からなかったのである。
「また下が短すぎる……」
結び方自体はネットで調べた。動画も見たし、実のところ結ぶだけならできている。ただなんというか、バランスが悪い。見栄えが悪い。要するにカッコ良くない。それが気に入らなくて、颯谷はまたネクタイをほどいた。
スーツは木蓮のセレクトだし、ネクタイも彼女がプレゼントしてくれた物。どうせなら見栄え良く着こなしたい。颯谷は眉間にシワを寄せながら、納得できる出来栄えになるまで何度もネクタイを結び直すのだった。
§ § §
大学の入学式では、特別印象に残ることはなかった。ただ、新入生がみんな制服ではなくスーツを着ているというのは、ちょっと新鮮だ。もう高校生ではなくなったのだということを一番強く感じたのは、もしかしたらその時だったかもしれない。
「写真を撮りましょう!」
入学の後、木蓮と合流すると、彼女は写真を撮りたがった。特に拒否する理由もないので、颯谷は彼女と写真を撮ったり撮られたりした。木蓮は母親である薫子が、颯谷は祖父の玄道がそれぞれ入学式に来ていたのだが、二人にも一緒に写真に入ってもらう。結局、それが入学式の思い出になった。
さて入学式が終わっても、翌日からすぐに講義が始まるわけではない。実際の講義が始まるまでには少し時間があり、学生たちはそれまでに履修科目を決めるのだ。ではどんな科目を取るのかというと、まず学科ごとに必修科目が決まっている。これは必ず取らなければならない。また必修ではないものの取っておいたほうが良い科目もあり、そういうモノもだいたい取る。ただそれですべてのコマが埋まるわけではない。
ところで私立東北西南大学は総合大学である。つまり理学部の他にも学部が存在する。木蓮が通う法学部はもちろんとして、人文学部、医学部、経済学部、工学部などがある。そしてこれらの学部では他学部にも開放されている講義があり、時間が空いている場所にはそういう講義を入れることができるのである。
つまり颯谷と木蓮のように、通う学部が違っても、同じ講義を取ることは可能なのだ。それで早速二人は自分たちの時間割をつき合わせてみたのだが、週に一コマだけ空きが重なることが分かり、そこで「同じ講義を取りたいね」という話になった。
「やっぱり、テストのない講義は人気ですね……」
「みんな、考えることは同じか……」
図書館のパソコンで学内の履修登録システムにアクセスしながら、木蓮と颯谷は小声でそう言葉を交わした。入学してすぐに卒業のことを考えるのもアレだが、卒業のためには必須単位の他にも幾つかの単位を取得する必要がある。そのため、言ってみれば楽に単位が取れる科目に人が集まるのはある意味当然だった。
「あ、コレなんてどうでしょう。一限目でテストもありますけど、募集人数は多目で入り込む余地が大きいと思います」
「『古代中国と皇帝の誕生』……。春秋戦国時代から始皇帝が現れるまでをざっくりとやる感じか。良いんじゃない」
講義の説明に目を通してから、颯谷はそう答えた。正直この分野については、彼は今までほとんど触れたことがない。「春秋戦国時代って三国志のこと?」ってレベルである。ただだからこそ、新しいことを学ぶのは楽しいかもしれない。
意見が一致したので、二人はそれぞれの時間割にその講義を登録する。募集人数よりも希望者が多い場合には抽選になるので、実際にこの講義を受けられるのかはまだ分からない。ただまだ上限には達していないようなので、多分大丈夫だろうと颯谷は思った。
「じゃあ、この日は迎えに行くよ。あ、いや、一時限目が重なっているのは週二日だから、その日は迎えに行くよ」
颯谷は木蓮にそう申し出た。彼は車で通学するつもりでいる。ただ大学に確認したところ、学部生は大学の駐車場を使えないとのこと。バイクなら大丈夫らしいのだが、雨の日も雪の日もあることを考えるとやはり車が良い。それで彼は大学の近くにある月極駐車場を借りたのだ。
自動車通学のいいところは、時間の融通が利くことだ。電車を使うとどうしてもダイヤに縛られる。そして田舎の鉄道はダイヤがスカスカなのだ。特にその弊害が大きいのが一時限目で、そこに間に合わせようとすると講義開始の一時間前に駅に着くような電車しかない。朝は早いのに無駄な時間が多い、というわけだ。だが車を使えばそんなことはなくなる。
木蓮は運転免許証を取得していないし、仮に取得しても大学へは電車通学のつもりだと聞いている。ただそれだとやはり、特に一時限目は不都合が大きい。彼女としても送ってもらえるのはありがたいらしく、木蓮は嬉しそうにこう答えた。
「本当ですか。ぜひお願いします。あ、じゃあ毎週その日はわたしがお弁当を作りますね!」
「え、いいの? ありがと。っていうか、木蓮はずっとお弁当にするつもり?」
「いえ、学食と半々くらいにしようかと思っています。せっかくですし、いろいろと学食も食べてみたいですから」
木蓮は少し恥ずかしげにそう答えた。颯谷も大きく頷いて理解を示す。そもそも彼は学食メインで行くつもりだ。なぜならその方が楽だから。弁当は作らないと決めているわけではないが、結局楽な方へ流されてしまいそうな気が今からしていた。
さてそんな話をしながら、二人はそれぞれの時間割を埋めていく。毎日均一というわけではなく、忙しい日もあれば楽な日もある。高校までは毎日ぎっしりと授業の予定が組まれていたから、例えば二時限目から講義の予定になっている日など、今までになかったことでひどく新鮮に感じた。
時間割の登録を終え、颯谷と木蓮は図書館を後にする。二人が次に向かったのは購買。時間割が確定するのはおよそ一週間後だが、必修科目などはもう決まったものと考えてよい。そういう講義で使うテキストが指定されているので、それを買いに行くのだ。
ただ購買で直接、紙のテキストを買うわけではない。電子テキストも提供されているので、それをダウンロードするためのタブレット端末を買いに行くのだ。もちろんタブレット端末は決して安くないし、電子テキストはスマホでも見られる。そもそも紙のテキストだって使用禁止というわけではない。
ただ利便性を考えるなら、紙より断然電子テキストだろう。そしてその場合、画面が大きい方が見やすいだろうし、かといってノートパソコンでは持ち運びに不便だ。それで二人はタブレット端末を使うことにしたのである。
わざわざ購買で買うことにしたのは、そこなら学割が利くから。学生支援の一環だという。だったら端末ごと支給してくれないかと思うのだが、それをするとコストがかかりすぎるのだろう。端末はあくまでも自己負担という形になっている。そして購買へ向かうその途中、颯谷は木蓮にこう話しかけた。
「一昔前は卒業する先輩から格安で教科書を譲ってもらえることもあったって聞くけど、電子テキストじゃあさすがに中古は無理だよねぇ」
「そうですね。でも中古が手に入るなら、その分は電子テキストを買わないという手もあると思います。颯谷さんは、そういう伝手はないんですか? ほら、例の……」
「ああ、諏訪部研? 頼めば一冊か二冊はありそうだけど。でもまあ、そこまでしなくていいかな。ここは教授に印税投げとくとして、木蓮はどう?」
「わたしもそういう伝手はありませんね……。それに中古本にはピンキリがあるような気がして……」
「ピンキリって?」
「汚れていないかとか、破れていないかは当然として、あとは落書きや書き込みでしょうか? 為になる書き込みなら大歓迎なんですが……」
そう言って苦笑を浮かべ、木蓮は言葉を濁した。その理由は颯谷も何となく分かる。彼自身、紙の教科書を使ったことはあるが、大したことを書いた覚えがない。
「ザビエルがアフロになってたら授業どころじゃない、か。木蓮はそんなことしないだろうしねぇ」
「あ、いえ、その、リーゼントにしたことはあります……」
「リーゼント……!?」
「ほ、本当はちょんまげにしようと思ったんですよ! それが何だか上手くいかなくて、気付いたらリーゼントに……」
ワタワタしながら言い訳という名の自白を行う木蓮。それを聞きながら颯谷は小さく笑った。「授業はちゃんと受けましょう」的なことを言うのは簡単だ。だがアフロになったザビエル氏は盛大な異議申し立てをするだろう。それで「今度見せて」とだけお願いして、彼はこの話題を切り上げた。
さて購買に到着すると、二人はまず二階で予定通りタブレット端末を購入した。カバーやフィルムなどアクセサリーの類もおかれているが、種類が少なくコレといったモノがなかったので、後日自分で揃えることにする。
タブレット端末を受け取ると、颯谷的にはこれでもう購買に用はなかったのだが、木蓮が一階の書店に寄りたいというので一階へ。そこで彼女は法学部向けのスペースから数冊の分厚い参考書を選んで購入した。
「紙で買うんだ……。電子版で良くない?」
「電子版も買いますけど、これは紙もあった方が良いかと思いまして。……それに今日なら車ですから」
「ああ、なるほど」
少し恥ずかしそうにする木蓮に、颯谷はむしろ笑顔を見せて頷いた。今日は彼の運転する車に木蓮を乗せてきている。荷物が重くなっても、電車と比べて歩く距離はずっと短い。この機会に買っておこう、とそう思ったのだろう。
レジで会計を済ませると、木蓮は購入した書籍を持参した紙袋に入れる。颯谷がその紙袋を持ってあげると、彼女は「ありがとうございます」と言ってはにかんだ。それから二人は次にカフェ風の学食へ向かった。
颯谷はガトーショコラとコーヒーを、木蓮はパンケーキと紅茶をそれぞれ注文。受け取った商品をプレートに乗せ、それから二人は学食内を見渡して空席を探す。四人掛けのテーブルが空いていたので、二人はそこにはす向かいになって座った。
お互いにケーキを半分ほど食べてから、二人は先ほど買ったタブレット端末を取り出した。そして学内のWi-Fiに接続して初期設定を開始する。それが終わると、今度は学内システムにアクセスし、講義で使用する電子テキストを購入した。
(思ったより……)
思ったよりずっと簡単だった。それが颯谷の感想である。もっとも説明のための紙のプリントが入学式に配られていて、それを見ながらその通りにやっただけなのだが。ただ、これは完全に余談なのだが、政府も推し進めるDX化の最後の砦が紙のプリントというのは、なんだか本末転倒な気もしないではないのだった。
電子テキストを購入し終えると、颯谷はタブレット端末をスリープ状態にして脇に置き、食べかけのガトーショコラに再び取り掛かった。木蓮の方も終わったらしく、彼女はパンケーキの上のホイップクリームをフォークで掬って口へ運んでいる。そして幸せそうに顔を蕩けさせた。
「正直、ちょっと侮っていました」
「ここのケーキ?」
「はい。オープンキャンパスで食べたときも思ったんですけど、レベルが高いですよね、ここ。しかも学生向けだけあって結構安いですし。こんなに良いカフェが大学内にあったら、気を付けないと太ってしまいます……!」
そう言って木蓮が本気で悩まし気な声を出すので、颯谷は思わず笑ってしまった。そんな彼を木蓮が小さく睨む。颯谷は軽く肩をすくめてこう謝った。
「ごめん、ごめん。でも構内が広くて結構歩くから、そう簡単には太らないんじゃないの? 木蓮は頭も使うだろうし」
「そうでしょうか……? いえ、油断は禁物ですっ」
そう呟いて自分を戒めてから、木蓮はパンケーキを切り分けて口へ運ぶ。そしてまた顔を蕩けさせた。
ケーキを食べ終え、それから少し雑談を楽しむと、二人は大学を出て颯谷の車のところへ向かった。荷物を後部座席に積み込み、木蓮を助手席に乗せてから、颯谷は車を発進させる。車を走らせて少しすると、木蓮が口を開いてこう言った。
「この前、叔父様と少し話したんですけど、諏訪部研の研究にとても驚いていました」
「ああ、あの鉄室を使った実験?」
「はい。叔父様もはっきりとは言っていませんでしたけど、駿河家でも同じ設備を作るのかもしれません」
木蓮がそう言うのを聞いて、颯谷は前を見ながら一つ頷いた。昨年度末、諏訪部研は鉄室を使った実験の途中経過を公表した。学生の発表という形ではあったが、控えめに言って世界初の実験であり、そのデータは驚きを持って迎えられた。今、界隈はその話題で持ち切りだという。
そして実験内容が公表されたことで、颯谷もその内容を各所で話すことができるようになった。千賀道場でも話したし、剛にも話したというわけだ。ただ彼も実験の詳しい内容を知っているわけではない。「詳しいことは諏訪部研に聞いてください」と丸投げし、諏訪部研ではレポートをweb公開することで対応した。
ただ、諏訪部研が公開したデータは確かに画期的だったが、世の中の武門や流門がそれ以上に注目したのは鉄室そのものだった。日本に異界が現れてすでに百年以上。歴史ある武門や流門には、使い道の分からない仙具が数多く保管されている。鉄室を使えばその中から有用な仙具を再発見できるのではないか。そう期待しているのだ。
幸い、鉄室は非常に単純な設備だ。作るのはさほど難しくない。日本中、いやともすれば世界中で鉄室が量産され、仙具の検証が行われる。もしかしたらそんな日が来るかもしれない。「酸欠には気を付けてくれよ」と颯谷は思うのだった。
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