吹雪
ズキリ、という頭痛で颯谷は朝目を覚ました。洞窟の中は薄暗いが真っ暗ではない。どうやらもう日は昇っているらしい。冬は日の入りが早く、そして日の出が遅いことを考えると、結構長い時間眠ることができたようだ。
「雪が降って、それだけはありがたいかな……」
「クゥゥン?」
「ああ、マシロのおかげって部分もある」
腕に抱いていたマシロにそう声をかけ、颯谷は彼女の身体を優しく撫でた。冬の雪山で防寒具など着ていない彼が凍死せずにすんでいるのは、温身法と外纏法を併用し、さらに生きたカイロであるマシロを抱いているからだ。マシロの子供たちも傍に寄ってきている。マシロたちのほうも颯谷から熱をもらっているはずで、一人と一匹は正しく共生関係だった。
それはそうと、夜に睡眠を妨げられなくなったのは、降り積もった雪が怪異の行動を阻害するからである。要するに、昼間に露払いをしておけば、夜間にモンスターが洞窟の近くまでくることはほぼなくなったのである。
このことには、もしかしたら雪に氣が含まれていることも関係しているのかもしれない。モンスターがどうやって颯谷のことを感知しているのかというと、視覚や聴覚のほかにたぶん氣も関係していると思うのだ。だから氣が混じった雪のせいでその探知能力が阻害されているというのはあり得るのではないか。彼はそんなふうに思っている。
まあそれはただの憶測だが、睡眠時間をきっちりと確保できるようになったのはありがたい。ただ夜眠ることには恐怖も付きまとう。いろいろ対策はしているが、気温が大きく下がって凍死してしまうのではないか。その可能性がないとは言い切れない。異界のなかでの生存がつねに綱渡りであることは、何も変わってはいなかった。
「よしっ」
颯谷はそう呟いてから立ち上がった。これから朝食である。昨日、洞窟に運び込んだ仙果はすべて食べてしまった。加えて薪の確保もしなければならない。今日も一日頑張りますか、とつぶやいてから颯谷は外へ出た。
外は雪がしんしんと降っていた。大きなボタ雪だ。これはまた積雪量が増えるかもしれない。ただ風はないので、比較的動きやすい天候だろう。颯谷はそう考え、月歩を使って雪原を駆け始めた。
まず向かうのはある仙樹のところ。三日前に仙果を食い尽くしたのだが、枝は落としていないのでそろそろ復活しているはず。途中で見つけた怪異を蹴散らしつつ、颯谷は目的地へ急いだ。
目的の仙樹のところへ到着すると、彼はすぐに仙果を食べ始める。黙々と食べていると、ふと摂取エネルギーと消費エネルギーの関係についてのことが彼の頭に浮かんだ。
季節は真冬。当然、とても寒い。その寒さに耐えるべく、温身法も外纏法も出力を上げざるを得なくなっている。つまりその分だけ消費エネルギーは増えているはずなのだ。
ではそれに比例して摂取エネルギー、食べる仙果の量も増えているのか。颯谷は小さく首を傾げた。食べる量は確かに増えていると思うが、消費の増加分には追い付いていないように思える。かといって備蓄エネルギー(脂肪)が減っているようにも思えない。
ということは、仙果一粒あたりから得られるエネルギー量が増えている、と思われる。それも単純なカロリーではなく、氣功的なエネルギーだ。仙樹がソレをどうやって吸収しているのかは分からない。だがやはり異界の内側にはそういうモノが豊富にあるのだろう。
「ってことは、それを直接吸収できれば、わざわざ仙果を食べる必要もなくなる……?」
そこまで考え、颯谷は「まるで仙人だな」と呟いて苦笑を浮かべた。そもそも彼はその「異界内部に満ちているはずの氣功的なエネルギー」を認識できていない。雪に含まれているソレが近いとは思うのだが、雪を食って身体を冷やしていては本末転倒だろう。
そもそも氣功的なエネルギーの補充はそれでいいとしても、生きていくために必要な栄養素はそれだけでは賄えないだろう。生きていくためにはやはり仙果を食べる必要がある。霞だけ食って生きていく仙人にはなれそうにもないな、と颯谷は肩をすくめるのだった。
さて、満足するまで仙果を食べると、颯谷は次に薪を洞窟へ運び始めた。ただ備蓄してある薪も残りが少なくなってきている。雪が降ったせいで位置が分からなくなった備蓄場所もあり、彼は新たに木の枝を落として洞窟に運び入れたりもした。
「お、雪が止んだ」
一仕事を終えたタイミングで、ちょうど雪が止む。少し風が出てきたが、颯谷はこれをチャンスと捉えた。天気が悪いと躊躇してしまう、少し遠くの仙樹のところへ向かおう。そこから仙果を確保してくれば、洞窟の近くのモノは一回分温存できる。よし、と呟いてから彼は月歩で駆けだした。
はじめは順調だった。雪が降っていないので見通しも良い。戦闘が二回あり、合計で中鬼三体に小鬼五体を倒したが、どちらも余裕を持って勝てた。やはり雪が相手の動きを阻害してくれると戦いやすい。最近では冬の間に積極的にモンスターを狩って、レベル上げをするべきではないかとさえ思っている。
だが山の天気は変わりやすい。順調だったのも束の間。また雪が降り始めたかと思うと風も強くなり、天候はたちまち吹雪になった。それもただの吹雪ではない。猛烈な吹雪だ。
雪はほぼ水平に吹き付け、積もっていた雪も巻き上げられて視界を白く染め上げる。颯谷はいま自分がどこにいるのかもよく分からなくなってしまった。さらに切りつけるような強風が彼の体温を奪っていく。
「ホワイトアウト……!」
この現象を示す単語が頭の中に浮かぶ。だがその知識も、事ここに至れば何の役にも立たない。自分の足跡はすでに消えてしまっていて戻ることもできず、颯谷は顔から血の気が引くように感じた。この状況でどうしたら良いのか分からない。
だが立ち止まったら本当に動けなくなりそうで、彼はひとまず月歩で駆けた。一般的に言って、対応としてそれが正しかったのかは分からない。だが結果として、動いたことで道が開けた。ほぼ真っ白な視界の中、チラリと赤黒いモノが見えたのだ。
(仙果だ!)
彼はそう直感した。そして赤黒いモノが見えた方向へ急いだ。ホワイトアウトした視界のなか、一本の仙樹が見えてくる。その仙樹は向かおうとしていた仙樹ではない。だが見覚えがあった。
ただともかく、颯谷は仙果へ手を伸ばしてまずはそれを食べ始める。そして温身法と外纏法の出力をさらに上げた。そうしないと凍えてしまいそうだったのだ。
「さてと、どうすっかなぁ……」
仙樹の幹を風よけにしつつ、太い枝に腰かけて颯谷はそう呟いた。こうしないと、ほんとうに雪に埋まってしまいそうなのだ。吹雪は一向に収まる気配がない。彼は途方に暮れた。
「洞窟は、たぶんアッチだよな」
幸い、この仙樹には見覚えがある。その記憶を頼りに、彼は周囲の地図を頭に思い浮かべた。そして洞窟のある方向へ視線を向ける。雪と風のせいでほぼ何も見えない。今飛び出したら、今度こそ本当に遭難してしまいそうだった。
視覚に頼るほかに、氣の気配を探ることで周囲の様子を認識できないかとも思ったのだが、そちらも上手くいかない。たぶん雪に氣が含まれているせいなのだろうが、まるで周囲一帯にモヤがかかっているように感じられてしまうのだ。
ジャミングされているようなもので、こちらもホワイトアウト状態と言っていい。視覚的にも氣功的にも、周囲の様子は何も分からない。自分でできることが何もなくて、颯谷は途方に暮れた。
「待つ、か……。いや、待つしかないんだけど……」
颯谷は表情を険しくしながらそう呟いた。風か雪か、せめてそのどちらかが収まるまでここで待つ。それが常識的な判断だろう。だがいつまで待てばいい?
雨風が三日続いたこともある。どこからも助けは来ないのだ。何もせずに時間だけが経てば、それは結局座して死を待つことにならないだろうか。
「……っ」
耳に届くのはうるさい風の音ばかり。それが颯谷の焦燥をかり立てる。飛び出してしまいたい。こうしてじっとしているだけでもエネルギーを消費していくのだ。それなら動いた方が生存率は上がるのではないか。そんな考えが頭に浮かぶ。
「まだだ……。まだ……」
颯谷は自棄になりそうになるのをグッと堪えた。ここにはまだ仙果がある。つまりエネルギーの補充は容易だ。だからここで天気の回復を待った方が、生存率は上がるはず。彼は自分にそう言い聞かせた。
そこからは辛い時間だった。早く晴れろと念じつつ、一向に回復しない荒れ模様を眺め続ける。これが一体いつまで続くのか。一秒一分が長く感じる。山の天気は変わりやすいのではなかったのか。徐々に減っていく仙果が、さらに彼を焦らせた。
こういう時間は、何かを考えることもできない。ジリジリと募る焦りのせいで、思考が上手くまとまらないのだ。そのせいで時間を無駄にしているように感じられ、さらに焦る。悪循環だと分かっているのだが、颯谷にもどうしようもなかった。
(晴れろ晴れろ晴れろ晴れろ晴れろ……!)
吹雪を睨みながら、颯谷はまるで呪うようにそう念じる。だが願いはむなしく吹雪に吹かれるだけ。どれだけ時間が経っただろう。やがて念じることにも疲れたころ、ふと風と雪の勢いが弱くなる。彼はただちに反応した。
「っ!!」
颯谷は素早く周囲に視線を走らせる。またすぐに風や雪が強くなりそうな気配はない。たぶん。彼は仙果を何本かの枝ごと確保すると、それを肩に担いで駆けだした。月歩を駆使して懸命にかける。彼が雪を踏みつけるたび、まるで爆発したかのように連続して足元が爆ぜた。
今ばかりは、モンスターを見つけても無視する。もたもたしていたらまた天気が変わってしまうかもしれない。その恐怖に急き立てられるようにして、彼は洞窟へ急いだ。途中、また雪が強くなる。呼吸は苦しい。だが顔を歪ませて奥歯を食いしばり、彼は必死に足を動かした。
洞窟が見えてきたとき、彼は心底ホッとした。そこへ飛び込み、ようやく安堵の息を吐く。傍に寄ってきたマシロを、彼はぎゅっと抱きしめた。しばらくそうやっていると、気持ちと呼吸が落ち着いてくる。颯谷はマシロを放すと、子犬たちを撫でてから、彼女に持ってきたばかりの仙果を与えた。
「さて、どうしようか……」
仙果を食べるマシロを一撫でしてから、颯谷は立ち上がってそう呟いた。暗くなるにはまだ時間がある。できるならもう少し、仙果を確保しておきたい。喉元過ぎて熱さを忘れたわけではない。単純に、今ある分では足りないのだ。
当初向かう予定だった仙樹は、結果として手つかずのまま。距離的にも、いま行って帰ってきた仙樹より近い。全力で走り、戦闘もすべて回避すれば、それほど時間はかからないのではないだろうか。
「本当ならホワイトアウト対策を何かすればいいんだろうけど……」
残念ながら何も思いつかない。パッと行ってサッと用事を済ませ、余計なことはせずにとんぼ返りする。やるとすればそれしかないわけだが、その間にまた天気が急変しない保証はどこにもない。だがこうしている間にも、刻一刻と日暮れは近づいてきている。
「もう少し近くの仙樹にするか……」
行くべきか、行かざるべきか。なかなか決断できなかった颯谷は、そう妥協案を出した。距離が近ければ時間もかからない。我ながら優柔不断な気もするが、ホワイトアウトの中に取り残されるのも、空腹のなか身体が冷えていくのも、どちらも恐ろしい。結局、それしか選択肢がなかったのだ。
「コイツは、いいか」
そう呟いて、仙樹の長棒を洞窟の壁に立てかけた。戦闘はすべて回避するつもりなので、コレを持っていくのはかえって荷物になる。短棒だけ、ベルトに挟んで行けばいいだろう。最後にマシロの頭を撫でてから、颯谷はまた外へ飛び出した。
行きは良かったのだが、帰りに雪と風が強くなる。颯谷は「ヤバいっ」と思って必死に足を動かした。幸い、吹雪いたもののホワイトアウト状態になることはなく、彼は無事に洞窟へ帰りつくことができた。
「マシロォォ、冬ってやだなぁ……」
帰ってくるなり、マシロに縋り付いて愚痴をこぼす。颯谷の腕の中、マシロはやや迷惑そうに顔をそむけるのだった。ちなみに子犬たちはキョトンとしていた。
マシロ「やはりインドアが正義!」