鉄室実験1
「何とか第一志望、大丈夫そうです」
全国共通テストを終え、自己採点を行った結果、木蓮は安堵した様子でそう言った。それを聞いて颯谷も自分の事のように喜ぶ。いや、もしかしたら自分の合格よりも嬉しいかもしれない。そんな彼にコロコロと笑いながら木蓮はこう言った。
「あはは、気が早いですよ。次は個別試験です」
「あ、そっか。でもちょっとくらい息抜きしてもいいでしょ」
そう言って颯谷は木蓮を外食に誘った。車を使えるので、多少遠くても大丈夫だ。こういう時、車の免許を取っておいて良かったと思う。行きたいお店があるかと尋ねると、木蓮はパッと顔を輝かせてこう答えた。
「行ってみたいお店があるんです。漁師飯が美味しいらしいんですよ!」
「漁師飯かぁ……」
「颯谷さんは、イヤですか?」
「いんや、大歓迎。ただ、木蓮らしいなって思っただけ」
颯谷がそう答えると、木蓮は不思議そうに小首をかしげた。ちなみに件のお店では新鮮な魚介類をふんだんに使った海鮮丼を注文。二人とも大満足だった。
さて二月の半ば。木蓮は個別試験に向けた追い込みの時期だが、すでに合格が決まっている颯谷は比較的ヒマだ。だからというわけではないが、とある日、彼は私立東北西南大学理学部自然科学学科の諏訪部研を訪れていた。
氣功計測用スクロールを諏訪部研に貸し出したのが十月の頭。それからおよそ四か月半が経ち、実験もいろいろと進んでいる。スクロールが使えたという話はずいぶん前に聞いていたのだが、最近になって「桐島君の計測もしてみたいので時間があるときにぜひ」と言われたのだ。途中経過なども聞きたいと思い、彼は再び諏訪部研を訪ねたのである。
諏訪部研に来たらまずするべきこと、それは諏訪部の淹れてくれたコーヒーを楽しむことだ。ミルが回るたびに香るコーヒーの香りを鼻で楽しみ、それから苦みの中にほんのりと甘さの残るブラックコーヒーを舌で味わう。そんな時間を過ごしていると、颯谷は自分がちょっと大人になったように感じた。
「あ~、温まるぅ……」
「いや、お前さん、つい最近北海道で冷え対策のセミナーをやったって話じゃん」
コーヒーを飲んでしみじみとした声を出す颯谷、伊田がそう言って呆れた視線を向ける。だが颯谷としては言わせて欲しい。それでも寒いものは寒いのだ、と。彼が唇を尖らせてそう抗弁していると、穏やかな口調で諏訪部がこう割り込んだ。
「北海道西部異界も無事に征伐されて何よりです。内部は暖かかったそうですが、セミナーが役に立ったというような話は何かありましたか?」
「あ~、道場の後輩が征伐隊に入ってたんですけど、やっぱり征伐後は一気に冬になったみたいで。その時に使った、って言ってましたね」
「ああ、なるほど」
そう呟き、諏訪部は真剣な顔で小さく頷いた。北海道西部異界が征伐された時、悪いことに外では吹雪いていた。ホワイトアウトするほどではなかったが、しかし強風で、だからこそ体感温度は気温よりもさらに低くなった。
この時、颯谷の後輩である笠原泰樹は、征伐隊の本陣で待機していた。そのおかげで彼はすぐに防寒具を着込むことができたが、しかしそれでもまだ寒い。温身法と外纏法を使って寒さに耐えたという。
ただそれ以上に拙い状況だったのが、主討伐のために中心部へ赴いた攻略隊だ。彼らも防寒具を持って行きはしたが、装備の関係上十分とは言い難い。また負傷者がいる可能性は高く、素早い回収が望まれた。
だが吹雪である。国防軍もヘリを飛ばすのは難しい。本陣から回収部隊を出すことになった。ただ車両で行ける範囲は限られているし、スノーモービルが使えるほど雪はまだ積もっていない。最終的に回収部隊は人力で、つまり歩いて攻略隊と合流し、彼らを回収して本陣へ帰還したのだった。
「その時にずいぶん役立ったみたいです。『セミナーを受けておいて良かった』って言っていたと、後輩から聞きました」
ちなみに役立てたのは回収部隊だけでなく、攻略隊も同じだ。回収部隊と合流するまでの間、彼らもまた寒さに耐えなければならず、その時に温身法と外纏法が役立ったのだ。特に、意識のない負傷者が数人いて、彼らの体温維持を優先したため防寒具が足りなくなった。防寒具を使えなかった者は温身法と外纏法がなければ凍死していたかもしれない、と聞いている。
まあ実際のところで言えば、リップサービスは混じっているのだろう。温身法は似たような技を大多数が元から使えたし、外纏法とて理屈が分かれば難しくはない。月歩改は多少使ったらしいが、月歩は結局使わなかったという話だし、「あのセミナーのおかげで生存率が大幅に上がった」ということはたぶんない。
だがそれでも。ほんの少しでも役に立ったのなら、そしてそのことを感謝してもらえるのなら、「あのセミナーをやって良かった」と颯谷は思っている。数万円だが日当も出たし。いやまあ、お金の問題ではないのだが。
「それにしても、桐島にも後輩がいたのか」
「そりゃいますよ。……年上ですけど」
颯谷がそう言うと、伊田は一瞬驚いてからゲラゲラと声を上げて笑った。さて、話にオチがついたところでマグカップも空になった。そろそろ本題である。颯谷はまず諏訪部のほうに視線を向けてこう言った。
「スクロール、使えたって話ですけど、具体的にはどうやったんですか?」
「ああ、はい。だいたいは桐島君のアイディア通りですよ。例の実験装置、我々は鉄室と呼んでいるんですが、その中で氣を放出するんです。ただ量が足りなかったのか一人分だとスクロールは反応しなくて、三人でやってもらって使えることを確認しました」
「スクロールを使う奴も入れれば四人だからな。おかげで狭いのなんのって」
伊田は愚痴るようにそう言った。確か鉄室の床面積は一畳ほどだったはず。そこに四人も詰め込めば、それは狭く感じるだろう。伊田の言葉にうなずきながら、颯谷は気になったことをこう尋ねる。
「あの、今更ですけど、モンスターが出現したりとかは……」
「今のところはないな。ただこれが確率論的な話なのか、それとも厳密に言って異界の環境とは異なるからなのかは、まだちょっと判別できない」
「私個人の意見としては、モンスターの発生にはヌシを含めたコアの存在こそが重要に思えますけれどもね」
諏訪部がそういうのを聞き、ふと颯谷の脳裏に浮かんだのはコアの欠片のこと。氣を充満させた鉄室にコアの欠片を持ち込んだら、怪異が出現したりするのだろうか。試してみたい気もするが危険な気もする。ただどのみち、今日はコアの欠片を持ってきていないので、やるにしても実験はまた別の機会だ。
「それで実験の話ですが、まずしなければならなかったのは、氣功計測用スクロールが一体何を計測しているのか、それをはっきりさせることです」
「何って、氣の量、じゃないんですか?」
「はい、そうです。ですが氣の量でも『最大保有量』と『現在の残量』では全く意味合いが違ってきます」
「あ、そうか……。そうですね……」
諏訪部の言葉に颯谷は大きく頷いた。氣の「最大保有量」と「現在の残量」とは、例えるなら「ペットボトルの容量」と「ペットボトルに入った水の量」だ。何も手を付けていない状態なら両者は同量になるが、一口でも水を飲めば後者の方が少なくなる。
「何度か実験を繰り返した結果、あのスクロールが示しているのは『最大保有量』であることが分かりました」
つまり氣を消耗した状態でも氣功計測用スクロールに現れる紋様の規模は変わらなかったということだ。なお、鉄室の中には机とデジカメも用意されていて、実験ではスクロールに現れた紋様を写真にとって記録している。
「静岡県東部異界の総括報告書でも指摘されていましたが、スクロールの紋様は対数的な増え方をしているようです。今やっているのは、数値化したそれを他の実験データと付き合わせてグラフ化することですね」
「数値化って、スクロールの紋様を、ですか?」
「はい。画像処理のソフトを使って全体の何割が紋様で埋まっているかを計測しています」
「ああ、なるほど……」
颯谷は納得してそう呟いた。確かにそれなら数値化できるだろう。またスクロールの紙面の大きさは決まっているのだから、割合が出れば面積も求めることができる。まあ、そこまでやる必要はないのだろうが。
「他の実験データって何をやってるんですか?」
「いろいろやっていますよ。握力はもちろんとして、ベンチプレスとか、レッグプレスとか。持久力ならランニングマシンとかですね」
ちなみにこれが鉄室の中に入るのが三人ではなく四人な理由だ。氣功計測用スクロールが示しているのは「氣の最大保有量」、言い換えれば「器の大きさ」であるから、どれだけ氣を消耗していても計測される数値は変わらない。よってこの実験だけを考えるなら、四人ではなく三人で十分なのだ。
ただ実験は計測だけでは終わらない。諏訪部が言うように筋力や持久力の計測も行い、その際には氣功能力、特に内氣功を使用する。この時、氣が消耗していればそれは当然データに反映されることになる。それではあまり意味がないのだ。それで氣の消耗を避けるべく、鉄室の中に入るのは三人ではなく四人なのだ。
閑話休題。自分の氣の量はどれほどなのか。それが気にならない氣功能力者はいない。それで諏訪部研には「ぜひ実験に協力させてほしい」と望む能力者らが列をなしている。一時期は休日なしで朝から晩までデータ取りをしていたほどだ。今も、一時期ほどではなくなったとはいえ、希望者の順番待ちは続いている。諏訪部と学生たちにとっては、まさに嬉しい悲鳴が出る状況だった。
「鉄室は回転が速いからまだ良いんですけどねぇ。筋力の計測とかは結構時間がかかりますから。そのうちトレーニングルーム拡張のための費用を一部負担しろとか言われるんじゃないですか?」
「その時はまた挨拶回りですね」
諏訪部は苦笑気味にそう答えた。実験に先立って諏訪部が集めた寄付は、しかしもうほとんど残っていない。まとまったお金が必要になるなら、また資金集めからやらなければならないだろう。
「まあ、そちらは必要になったらまた考えるとして、そろそろ桐島君の計測に移りましょう。伊田君、お願いしますね」
「分かりました。久石と宮本、手伝ってくれ」
「オッケー」
「いいぞ」
伊田が声をかけると、二人の学生が立ち上がった。ちなみに久石は女子学生で、宮本は男子学生だ。研究室で保管している氣功計測用スクロールを手に取ってから、四人は連れ立って理学部棟の一階へ向かう。エレベーターの中で二人にこう尋ねた。
「久石さんと宮本さんは、二人とも氣功能力者なんですか?」
「そうよ。わたしはいわゆる一般家庭の生まれなんだけど、中学生の時に異界顕現災害に巻き込まれてね。その時に仙果を食べたの。道場にも通ったし、能力者としてのキャリアなら、この三人の中で一番長いわよ」
明るい声でそう答えたのは久石という女子学生だった。ちなみに下の名前は「美穂」。伊田と同じ修士の一年(もうすぐ二年)だという。
「で、こっちが……」
「宮本陸だ。親父が関東の流門で師範代をやっている。能力者として覚醒したのは、征伐隊に志願して、だな」
「関東の出身なのに、大学はわざわざこっちに来たんですか?」
「ああ。まあ、武者修行を兼ねて、というヤツだな」
そういうパターンもあるのか、と颯谷は思った。ということは宮本が東北に来たのは武者修行をしたい道場があったからであって、志望大学がこちらにあったからではないのかもしれない。
「しかも自腹なんだぜ、コイツ。厳しいよなぁ」
「私から言わせてもらえば、現役の能力者こそ一般の金銭感覚を身に着けるべきね。そういう意味でも一人暮らしなんていい経験じゃない。というか宮本君はもう二度征伐を終えているんだから、お金は十分にあるでしょう」
「え~、1000万くらいあってもすぐに消えるだろ」
「どんだけ金遣いが荒いのよ」
「いやいや、装備だよ、装備。なあ、桐島君」
「はい。仙甲シリーズでも一式揃えれば1000万円は超えますし」
颯谷がそう答えると、宮本も大きく頷いた。実感の籠った表情だ。武者修行で東北に来て、お金に苦労しているのかもしれない。そして「ほれ見ろ」という顔をしている伊田を見て、久石はやや唖然としながらこう呟いた。
「うそ、わたし少数派……?」
「ま、装備品はまず親に頼るけどねぇ」
伊田が飄々とした口調でそう混ぜっ返す。宮本も視線をそらしているから、きっとご同類だ。そんな同級生二人の様子を見て、久石は大きくため息を吐くのだった。
さてそんな話をしながら四人が向かったのは、理工学部棟一階のとある実験室。中に入ると、まず目についたのは大きなシャッター。開けるとすぐに外で、つまりは搬入口なのだという。
「ここは大掛かりな設備を使うための部屋なんだ」
伊田がそう教えてくれる。改めて見渡すと、なるほど確かに天井が高くて大きな機材が幾つも並んでいる。そしてその中に諏訪部研の鉄室もあった。
久石「あ、颯谷くん。後で温身法教えて」
颯谷「えぇ……?」
久石「教えて」(圧
颯谷「はい……」