桐島、家を買う1
颯谷が私立東北西南大学のAO入試を目指すことを決めてから数週間が経ち、カレンダーは六月に突入している。そしてこのころ、彼は私生活においても大きな変化を経験しようとしていた。
「ソウ、ちと話がある」
「どうしたの、じいちゃん」
「隣の河合さん、いるじゃろ」
「ああ、河合のばぁちゃんね。どうしたの?」
「実は昨日なぁ、河合さんから家と土地を買ってくれないかと頼まれたんじゃわ」
玄道からそう言われ、颯谷は少し驚いた。河合さんというのは、桐島家のお隣さんである。隣と言っても少々離れており、冬などは訪ねるのに車を使う。冗談ではなく本当の話だ。もっともこれは河合家が離れているのではなく、むしろ桐島家が集落の外れに位置しているからなのだが、まあそれはそれとして。
河合家では現在、高齢の女性が一人で生活している。桐島家にも時たま漬物などをお裾分けしてくれる、親切な方だ。颯谷もこれまで何度もお世話になっている。その河合のばぁちゃんが、土地と家を手放そうとしているのだという。
「え、どうして……?」
「河合さんももう歳だからなぁ。ご家族もそろそろ一人暮らしは限界だと思ったらしい。それで息子さん夫婦が市内に家を建ててるんだが、そっちに同居しないかって話になったそうだ」
「そっか……」
「河合さんもなぁ、今ならまだ動けるからってことで、そういう意味でも潮時だと思ったって、そう言ってたぞ」
「…………」
玄道がそう言うと、颯谷は黙って頷いた。年齢からして、今後河合のばぁちゃんの運動能力は低下していくだろう。そうなれば生活のあらゆる面でサポートが必要になる。そうなる前に家族と同居するという選択は、決して的外れではないように思えた。
「で、息子さんと同居するなら、今のあの家は当然空くじゃろ? 古いし、誰も使う予定はないとかで、今はどう処分するかを話し合っているらしい。まあ、処分と言っても実際には解体だぁ。んで、解体するなら金がかかる」
「……だから、買ってくれって話?」
颯谷がそう尋ねると、玄道は少し困ったような顔をする。そしてこう答えた。
「河合さんもなぁ、不安なんだよ」
息子と同居することは、もう仕方がない。だが息子には当然、彼の家族がいる。彼女はそこに入っていくことになるのだ。しかも家の解体費用のことがある。彼女にそれだけの蓄えはない。となれば息子が出すことになる。それを特に彼の妻がどう思うのか。納得はしても、面白くはないだろう。彼女はそれが心配なのだ。
だがもし土地と家を売ることができれば、解体費用は丸ごと浮くことになる。その分の経済的な負担を、息子夫婦に負わせなくて済むのだ。それどころか土地と家を売ったお金が入ることになる。そのお金をいわば手土産にすれば、息子の妻との関係もギクシャクしなくて済むのではないか。彼女はそう考えたのだ。
「100万でも200万でもなぁ、持っていけばまあ、嫌がられずに済むんじゃないかと、まあそういうことだわな」
やや言いにくそうにしながら、玄道はそう語る。それを聞いて、颯谷は何とも言えない気分になった。実際、これはかなり河合家にとって都合の良い話だ。土地と家の処分に関しては、そもそも先に不動産屋に相談しているはず。そこで買い取ってもらえないとなったからこそ、解体という選択肢を考慮していたわけだし、また桐島家に話が来たのだ。
言葉を飾らずに言うのなら、「負動産を買い取ってくれ」と言われたに等しい。しかも玄道にそれだけの資力はない。であればその負動産を買い取るのは颯谷だ。いや、颯谷がお金を持っていると知っているからこそ、この話が来たのだ。お隣さんとはいえ、他人に自分の財布をアテにされたようで、さすがに気分は良くない。
ただその一方で。河合のばぁちゃんの心配も颯谷は理解できた。金と感情が入り混じった問題は酷く拗れることがある。彼はそれをよく知っている。この先、そういう問題を抱えながら生きていかなければならないとしたら、それは確かにひどく憂鬱だろう。
「……具体的に幾ら、って話はしたの?」
「土地と家、合わせて200万くらい、だそうだ」
「200万くらいかぁ……」
そう呟いて颯谷は考え込んだ。「200万円くらい」という話だから、多めに見積もって300万ほどか。そして300万という数字だけを見るなら、今の彼にとっては決して高額とは感じない額である。
だから「払えるか、払えないか」で言えば、余裕で「払える」。とはいえ、「じゃあ買うか」とはならない。「必要か、必要でないか」という視点で考えてみることも大切だ。そして数分考えてから、彼は玄道にこう答えた。
「……条件が、ある。ちゃんと専門家に頼んで、契約書を作ってもらって、手続きが必要ならそういうもの全部やってくれるなら、買っても良いよ」
「本当か!?」
「うん。でさ、じいちゃん。買った後の事なんだけどさ、この家、建て直さない?」
颯谷は玄道にそう提案した。河合邸が古いという話は先ほどしたが、桐島邸もそれと同じか、もしくはそれ以上に古い。不動産屋に査定を頼んでも、恐らく値段はつかないだろう。そういう家だから、最初の征伐報奨金が振り込まれた時点で、建て替えやリフォームについて考えてはいたのだ。
ではなぜ今までやらなかったのかというと、忙しかったからだし、また面倒くさかったからだ。最初の異界征伐から生還した後は、一年間の勉強の遅れを取り戻して高校へ進学するために忙しかった。そしてその後も征伐イベントがコンスタントに生えるなどして、結構忙しかったのだ。
また建て替えやリフォームが緊急に必要、という状況ではなかった。古いことは古いが、まだ十分に住める家なのだ。建付けが悪かったり、すきま風が吹いたり、雨漏りの跡があったり、修理した方がいい箇所はいくつもあったりするが、まだ使えるのだ。要するに優先順位が低かったのである。
現在颯谷は高校三年生である。本来なら進学のための準備に忙しい。だが私立東北西南大学のAO入試で、合格はほぼほぼ決まったようなモノ。勉強は続けるが、つまり今なら余裕がある。そういうタイミングで隣(というには少し距離があるが)の家を買わないかという話が来た。彼はこれを「渡りに船かも」と思ったのだ。
建て替えるにしろ大掛かりなリフォームをするにしろ、やるのであれば一時的に引っ越す必要がある。もっともこの家に住んでいるのは颯谷と玄道の二人だけなので、アパートでも借りればその問題は解決する。だが一時的に移るべきは人間だけではない。
家の中の荷物もどこかへ移さなければならない。そして桐島邸は田舎の一軒家だけあって結構広い。荷物も相応に多く、アパートを一室借りるだけでは到底足りそうにない。また家だけでなく納屋もある。もちろん何割かは処分することになるのだろう。だがそれでも大量の荷物をどこに一時保管するのか。それは考えなければならない。
そこで河合邸だ。河合邸なら二人が一時的に引っ越し、また多量の荷物を保管しておくのに十分な広さがある。また隣であるから、生活圏や生活リズムが大きく変わることはない。マシロたちのことも、毎日裏山へ連れて行ってやれるだろう。そう考えると、河合邸の買い取りは案外悪くないように思えたのだ。
(まあ、もちろん……)
もちろん、もっとお金のかからない方法はあるだろう。買い取るのではなく借りるという方法なら、費用は抑えられるはずだ。そもそもこの家を建て替えた後、河合邸の使い道については、颯谷も何の予定もない。そういう意味では無駄な買い物にも思える。
だが例えば工房や道場など、何かしらの設備が欲しくなったとき、家の近くに手ごろな土地があると都合が良いかもしれない。そんなふうにも思うのだ。幸い、河合邸とそのさらにお隣の間には畑がある。多少土地が荒れてしまっても、迷惑にはならないだろう。
「確かにこの家も古いし、時期的には建て替えも良いかも知れねぇが……。それこそ河合さんのところに建てれば、面倒が少ないんでねぇか?」
「う~ん、あ、いや、裏山が近い方が、オレ的にいろいろ都合がいい、かなぁ」
玄道の指摘に颯谷はそう答えた。「裏山が近い」ことより「集落から少し離れている」方が都合が良い、と言った方がより正確だろう。狐火を使った実験や鍛錬などは、なるべく人目につかないところでやりたい。それにマシロたちもこれまで通り、気ままに裏山へ遊びに行けるだろう。
「ふぅむ……。まあ、ソウがその方が良いって言うなら、そうするかぁ」
玄道が颯谷にそう答えた。それから二人はもう少し話し合う。そして河合邸の買い取りと自宅の建て替えを決めた。ただこれで本決まりというわけではない。玄道から返事をしてもらい、後日河合のばぁちゃんと彼女の息子さんと会って話すことになった。
とはいえ会って話すのは玄道一人。颯谷は後で結果だけ聞いた。玄道によると、息子さんは颯谷が提示した条件を全て呑んだという。ただ具体的な金額については、それこそ専門家の人に間に入ってもらってから、ということになった。
「まあ200万から大きくは動かさないと言っていたから、400万だの500万だのにはならんだろ」
玄道からそう言われ、颯谷はひとまず頷いた。また具体的な契約もまだである。専門家の人に契約書を作ってもらうためだ。ただ河合のばぁちゃんの引っ越しはその前にしてしまうことになった。
「ばぁちゃん、元気で」
「うん、ソウちゃんもありがとうなぁ。元気でなぁ」
五月の末、最後にそう言葉を交わし、河合のばぁちゃんは息子が運転する車に乗り込んだ。荷物はキャリーバッグが一つだけ。今日はとりあえずどうしても必要な荷物だけ持って引っ越し、残りの荷物は後日整理を兼ねてまた取りに来るのだという。そして六月末を目途に家の中の整理を終わらせ、それから契約を交わして家の鍵を引き渡すという段取りになった。
河合の親子を乗せた車が遠ざかっていく。颯谷が玄道に引き取られてからずっと、河合のばぁちゃんはお隣さんだった。あくまでも「お隣さん」だから、いろいろお世話になったとはいえ、そこまで深く関わってきたわけではない。だがそれでも。彼女のいる日常が、颯谷の日常だった。
涙が込み上げてきたりはしない。寂しいわけではないし、まして悲しいわけでもない。ただ当たり前だった日常は、この瞬間確かに変わってしまった。そのことを理解してしまうと、颯谷はなんだか心の中に少しだけ隙間風が吹いたような気がした。
さてそんなふうに別れたわけだが、翌週には颯谷は河合のばぁちゃんと再会した。彼女は家の片付けに来ていたのだ。「物が多くて大変だ」と彼女は笑う。「腰に気を付けて」と颯谷は声をかけた。
そんな、まるで他人事のような颯谷だったが、家の中の荷物の整理や片付けは彼にとって他人事ではない。六月末か七月の頭までには契約は完了する予定になっており、その後は一時的な引っ越しと家の建て替えが計画されている。彼だってその時までに家の中の整理と片付けは済ませておかなければならない。
そしてその「整理するべき荷物」の中には颯谷の両親の遺品も含まれていた。一階の一室にまとめられたそれらの物品の量は、しかしそれほど多くはない。母はともかく、父はこの家で生まれ育ったはずなのだが、家を出る際に一度大掛かりに片づけたのだろう。
異界顕現災害で両親が亡くなった後、二人が持っていた物品は親族に分けられた。いわゆる形見分けだ。玄道もいくつかを受け取っていて、それを納めた段ボール箱が、使わない部屋の押し入れの中に置いてあった。
段ボール箱の大きさは一抱えほど。「ふう」と息を吐いてから、颯谷はその段ボール箱を開いた。まず入っていたのは数本のネクタイ。赤やブラウン系の色が多いように思える。父の好みだったのだろうか。颯谷はふとそう思った。
次に目に入ったのは数冊の文庫本。SFや短編集など、作家やジャンルはバラバラだった。玄道がわざわざこれを選んだということは、これも父のお気に入りだったのだろうか。いや、案外多数あった中から目についたモノを取っただけなのかもしれない。
そして最後、段ボール箱の一番下には、二冊の写真アルバムが入っていた。颯谷はそれを取り出すと、そっと中を開いてみた。アルバムの中に並べられているのは家族の写真。異界顕現災害に巻き込まれる前の、三人が揃っていたころの写真だ。
(そう言えば……)
そう言えば、父はデジカメで撮った写真を「ああでもない、こうでもない」と言いながら選び、自分でプリントアウトするのが趣味だった。そんなわけだから、家には何冊もアルバムがあったはずだ。ここにあるのは二冊だけだから、他のアルバムは別の親族が持って行ったのかもしれない。
そっと、アルバムの写真に指を添わせる。写真の中の両親の顔は、写真を撮った当時のまま。「そう言えばこんな顔だった」と颯谷は心の中で呟いた。あの時の悪夢は、最近はあまり見ない。見たとしても両親の顔は光が差したようにおぼろげで、彼は久しぶりに両親の顔をはっきりと見た気がした。
しばらくの間、颯谷は無言のままアルバムをめくり続けた。彼は一冊目のアルバムを見終えると二冊目に手を伸ばし、しかし開くことなくその手を引っ込めた。そして取り出した遺品を段ボール箱の中へ元通りにして入れる。さらにその段ボール箱も、また押し入れの中へ片付けた。
(こいつはこのまま持って行こう)
颯谷は心の中でそう呟く。新築した家でコレをどうするのかはまだ分からない。ただコレを整理するにはもう少し時間が必要だ。そう思いながら、彼は押し入れの戸を閉めた。
今回、河合邸が負動産と判断されたことに首をかしげる方もいるかもしれません。
「作中では、有力な武門や流門の周囲は土地が高くなるという設定だったはず」と。
今話について少し説明すると、「桐島家はまだ有力武門とは言えない」と不動産屋が判断したことになります。そもそも不便な場所ですから、将来的にどこかへ引っ越すかもしれない。それこそ、お金は十分にあるわけですし。
そんなわけで不動産屋的には食指が動かなかった、というわけです。もちろん「将来的に値上がりすかも」と考える不動産屋もどこかにいることでしょう。ですが河合家が相談した不動産屋はそうではなかった、とご理解ください。




