マシロと子犬
颯谷が風邪をひいた、その次の日。残念ながら体調も天候も回復しなかった。体調はともかく、この日も雨風なのを見て、颯谷は悲愴に顔をゆがめる。この天気では今日も薪集めはできそうにない。
次に彼が確認したのは、洞窟の中に残る薪の備蓄。当たり前だが、昨日と比べて減っている。今日の分はまだ足りるだろう。だがもし明日も天気が悪かったら?
いや天気が回復しても周囲はずぶ濡れのはず。木切れを集めても薪として使えるかはわからない。それに今後はこういう天気の日も増えるだろう。
冬支度は間に合うのか。これで冬を越せるのか。昨日は戦闘の分野で大きな成果があったが、それで得た自信も急速にしぼんでいく。颯谷の中で言いようのない恐怖が募った。
「ぅぅっ………、ゴホッゴホッ!」
颯谷はうめき声を漏らし、次いで咳き込んだ。咳が収まると、彼は険しい顔をしたまま考え込む。今日は一体どうするべきなのか。
頭に浮かんだ案は大きく二つ。一つは昨日と同じくなるべく身体を休めるプラン。たぶん常識的に考えた場合の正解はこちらなのだろう。
颯谷だって、明日晴れる確証があるなら、もしくは風邪が治る保証があるなら、そうする。だが明日晴れるかは分からないし、風邪が治る保証もない。それが現実だ。
ではもう一つのプラン、雨風のなか、体調不良をおして冬支度をするべきか。だがそれでさらに具合が悪くなったらどうする。身動きが取れなくなってしまったら、冬支度どころの話ではない。
「くぅぅ……」
泣きそうな声をあげながら、颯谷は頭を抱えた。「目の前の死か、それとも少し先の死か、どちらか選べ」と言われているような感じがする。どうせ死ぬのなら何をしたって無駄ではないか。そんな気さえした。
「……っ、死にたくない、死にたくない、生き残るんだ……」
頭痛に顔をしかめながら、颯谷は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。必ずこの異界を征伐して外へ出る。そう誓った日の決意を思い出す。悪天候がなんだ、風邪がなんだ、冬がなんだ。その程度のことでいちいち死んでいられるか!
「ふう、ふう、ふう……!」
颯谷は自分を奮い立たせる。何とかメンタルを立て直したところで、彼はまた最初の問題に立ち返った。つまり、今日は何をするべきか。
「…………」
しばし考え込んだ後、颯谷は昨日と同じ方針でいくことにした。つまりなるべく身体を休めるプランだ。ただ、食料を得るためには雨風のなかへ飛び出さなければならないのも昨日と変わらない。
しっかりと身体を休ませることができているのかは疑問で、そのことはそのまま彼の体調にも表れていた。つまり昨日と比べて具合が良くなっているかは、はっきり言って自覚がない。
「まあ、悪化していないだけ良しとするさ……」
やや弱い口調でそう呟き、颯谷は立ち上がった。これから朝食だ。仙樹の枝を手に持つと、彼は向かうべき仙樹の位置を頭に浮かべる。一つ深呼吸をしてから、彼は雨風のなかへ飛び出した。
§ § §
朝、目を覚ますとまずカーテンを開ける。この瞬間が一番恐ろしい。「異界の色が群青色ではなくなっていたら」とそう考えると、寝起きの心臓はいつも嫌な音を立てる。
「……っ、はあぁ……」
一瞬躊躇ってから、玄道は一気にカーテンを開ける。異界は今日も群青色。それを確認して、彼は大きく息を吐いた。
「ソウ……、寒くねぇかぁ……?」
返事などないと知りながら、群青色の異界へそう問いかける。颯谷が異界に取り残されたのは夏のお盆前。それが今では秋も深まり、木々は紅葉し、雪がちらつく季節になった。
もう少ししたら、山々は帽子をかぶったように雪に覆われるだろう。そうなったら里へ雪が積もるのも間近だ。気温は一段と下がるだろうし、日が差す時間も短くなる。
颯谷は大丈夫だろうか。夏の服装のままで凍えているのではないか。この頃はそんな心配ばかりしている。
『最低気温が10℃、いえ15℃くらいですかね、これを下回ること、それが一つのラインだと思います』
そう言っていたのはあるテレビ番組のコメンテーター。低体温症だのなんだのと言っていたが、要するに気温が下がればそれだけで生存は難しくなる。テレビでそう言っていたのを見たとき、玄道は孫の死のカウントダウンを突き付けられた気がした。
実際、玄道もさすがにもうダメだと思っていた。この寒空の下、山中にただ一人取り残された子供が、しかもあんな軽装で生きていくのは難しい。認めるのは苦しかったが、それは常識的な考えだ。むしろ誰もがそう思っていただろう。
だが彼の孫はしぶとかった。最低気温が一桁になるような季節になっても、異界は群青色のまま。そのことについて自称専門家のコメンテーターはこんなふうに語っていた。
『おそらく異界の中の気候は外とリンクしていないのでしょう。完全に独立していて、中は常夏か最低でも常春、つまり常に温かい気候なのだと思います。珍しいケースではありますが前例もありますし、それしか考えられません』
それを聞いて、玄道は「そうなのか」と思った。確かにそう考えれば納得はしやすい。だが同時に「本当に?」とも思う。コメンテーターの言っていることが本当なのか間違っているのか、確かめることはできない。できることはただ「そうであってくれ」と願うことだけ。そしてそれもどこまで意味があるのか。無力な自分が歯がゆかった。
歯がゆいといえば、最近では世間の関心が低下してきたように感じる。全国版のニュースはもちろん、地元のニュースでさえ取り上げられない日が増えてきた。それもある意味では仕方がないのだろう。異界は群青色のまま沈黙している。つまり直接的な被害はまだなにも出ていないのだ。そんな中で緊張感と関心を保ち続けるのは確かに難しいだろう。
それどころか、最近では進展のない状況に人々は苛立ちを覚え始めているのではないか。玄道はそう感じることがある。そういう人たちの多くは異界のために避難生活を余儀なくされており、彼らは一日も早く元の生活を取り戻したいと思っている。
そのためには異界が征伐されなければならない。だが彼らは、というより世間の人たちすべては颯谷がたった一人で異界を征伐できるとは思っていない。つまり異界を征伐するためには、改めて征伐隊を送り込む必要がある。
だが異界が群青色のままではそれもかなわない。征伐隊を送り込むには、異界が白くならなければならないからだ。そしてその変化は異界の中が無人でなければ起こらない。
つまり避難している人たちにとって自分たちが元の生活に戻るための第一歩、それは颯谷の死なのだ。あまりにも不謹慎でそれを大っぴらに口にする者はいない。だが「早く元の生活に戻りたい」という避難者の声を聴くたび、玄道は辛くなる。
『いつまで我慢すればいいのさ?』
『生活再建の目途が立たないんだけど』
『こっちにもいろいろ都合があるのにさぁ』
『意地汚く生にしがみついてないで、さっさと死んでくれればいいのに』
そう言われているように感じてしまうのだ。それはもしかしたら玄道の被害妄想かもしれない。だがそういうことを全く考えない者はいないのではないか。それがたまらなくつらい。
「ソウ……、頑張れよぉ、がんばれよぉ……!」
だから玄道は、自分だけは心から孫の味方でいようと決めている。時には弱気になる。やっぱり無理なんじゃないかと、今までに何度も思った。しかしそれでも。孫の死を願うなんてことは絶対にしない。
元の生活に戻れなくてもいい。財産のすべてを失ってもいい。この避難先のアパートが終の棲家になってもいい。
ただ一つ、異界が明日も群青色であること。それだけが玄道の願いである。
§ § §
ついに、雪が降った。紅葉と雪のコントラストは美しい。防寒具を着込んで温かくしていれば、きっと。残念ながら夏服のままの颯谷に、その美しさを楽しむ余裕はない。冷気の中、彼は険しい顔をしながら硬い声で「ついに……」とつぶやいた。ついに冬が来たのだ。
しばらく前にひいた風邪は、まだ治っていない。回復したり悪化したりを繰り返しながら、ずるずると長引いている。ある日は喉が痛く、ある日はそこに咳が加わり、ある日は少し良くなったかと思えば、次の日には頭が痛くなる。そんなことの繰り返しだった。
なんだかもう慢性病の様相を呈していて、颯谷は体調が良かったころを忘れてしまったかのように感じている。体調が悪くて、それでも動かなければならないのが普通になってしまった。
雪が降ったからなのか、落葉は一気に進んだ。木々はすぐに冬支度が済む。颯谷はそれを少し羨ましく思った。腹いせに落葉が早かった木を一本切り倒してやろうかと思ったが、すぐに手間がかかるだけで意味がないと気づいてやめた。
颯谷のやることは雪が降ってもあまり変わらない。モンスターを倒しながら、ひたすら薪を集める。この頃では濡れていても気にしなくなった。というより、濡れていない枝はない。ひとまず集めて、保管しながら乾燥を待ち、それから使う。そんな感じだった。
冬支度といえば、颯谷は洞窟の中に落ち葉を大量に運び込んだ。寝床として使うためである。洞窟の中では火を使っており、延焼が怖いのでどうしようかと思ったのだが、結局寒さには勝てなかった。石を並べて区画を区切り、それでなんとか落ち葉が火に触れないようにしている。
ただ落ち葉よりも温かいのは例の白い野犬である。一人と一匹は最近、引っ付いていることが多くなった。理由は双方ともに「寒いから」。このモフモフのカイロのおかげで、颯谷は何とか寒さをしのげていた。
触れ合っている時間が長くなれば、その分だけ情が移る。颯谷は自分の分の仙果を分けてやり、白い野犬のほうも今ではまったく彼を警戒する様子がない。そしてそんなふうに一人と一匹の距離が縮まってくると、いつまでも「白い野犬」呼びではやや不都合があるように思われた。
『お前は……、よし、真白だ』
颯谷はそう野犬に名前を付けた。由来はそのまま白いから。当初はマシロも首をかしげるだけだったが、やがてそれが自分の名前であると理解し、名前を呼べば寄ってくるようになった。
(それにしても……)
それにしてもマシロとのこの関係はなんと呼べば良いのだろう。ある夜、彼女の白い毛皮で温まりながら、颯谷はふとそんなことを考えた。パートナーと呼ぶにはドライだし、ただの同居人というにはもう少しウェットな気もする。
(生き残るための共生、かな……)
それが一番、近いような気がした。お互いの体温さえ貴重なこの環境で、一人と一匹は身を寄せ合うことで生存の可能性を見出したのだ。ギブアンドテイクと言ってしまうと、やっぱりちょっとドライに感じるが。
今では洞窟にいる時間のほとんどを、マシロを抱きながら過ごしている。それはもちろん寒さ対策なのだが、同時に孤独対策でもあった。腕の中に感じる体温は、颯谷の孤独を和らげてくれる。最近では寒さとモンスターに加え、この孤独も厄介な敵だった。
(寒いと、気分まで落ち込む……)
ある夜、心の中でそう呟き、颯谷はマシロの身体に顔をうずめる。マシロは少し迷惑そうな顔をしたが、おとなしく抱っこされたまま。颯谷も涙だけはなんとかこらえた。
「お前、くさいな……」
颯谷は苦笑しながらそう呟く。マシロは「クゥゥ」と小さくないた。「あんたもでしょ」と言われた気がした。
そしてさらにこの五日後、マシロが出産した。生まれた子犬は全部で六匹。颯谷が外へ出ていた時に生まれたので、彼はその瞬間に立ち会ってはいない。それで帰ってきたときに子犬が産まれていて、彼はとても驚いた。
「そっかぁ……。生まれたんだ……」
この地獄みたいな異界のなかでも新たな命は生まれる。そのことに颯谷はちょっと感動したのだった。
コメンテーター「中の様子が分からないのに、何を話せっちゅうねん」




