練習! オンボロ飛行機、全開飛行をす!
私が抱いた心配は杞憂に終わった。クローイが操る飛行機は、破局を示唆する挙動を見せなかった。
飛行機はクローイの思うがままに動いている。宙返りをはじめとする、派手なアクロバット飛行をしても、調子は良さそうだった。彼女がドリルのようにクルクルとロールを続けても、その回転軸にブレは見られない。
私は、クローイが操る機体を双眼鏡で追ってみた。肉眼で見たとき同様、飛行機は安定していた。このころになると、さすがの私もポジティブになっていた。
「な? 言ったろ? 俺らは完璧な仕事をしたってよ」
「うん。そうみたいだね」
私は微笑んだのちに、双眼鏡を下ろした。あれならば大丈夫だ。不具合が原因で墜落しないだろう。
「おじいちゃん。コントロールタワーに行ってくるよ」
「おう。発光信号だな?」
「うん。挙動試験はおしまい、レースの練習飛行に移って、ってクローイに伝えてくる」
私はガレージをあとにした。スタンドの背後に建つコントロールタワーへと向かう。
コントロールタワーは鉄骨を組み合わせた、とても簡単な造りをしていた。その姿は、町外れにある送電塔によく似ている。異なる点は鉄骨塔の天辺に、木造の屋舎があることくらいであろう。
コントロールタワーは素朴な造り故に、エレベーターをはじめとする文明の利器を備えていない。鉄塔の内側にある梯子を使わなければ、管制官が詰めかける屋舎にたどり着けないのだ。
この梯子は、長さが三十二フィート以上もあるせいで、登るのに難儀することで有名だった。途中でうっかり足下を見てしまい、足が竦んで動けなくなる人も居るという。よくもまあ、こんな欠陥設計が放っておかれているものだ。尊い人命が消費されるまでは、この梯子はずっとこのままだろう。
当然、私は安全なコントロールタワーの礎になるつもりはない。私は慎重に、けれども足元を見ないようにしながら梯子を登っていった。
途中、風に煽られてヒヤリとした場面もあったけれど、私は管制室までたどり着いた。
屋舎もなかなかシンプルな造りだった。床も屋根も、コールタールがたっぷりと塗られた木材が使われている。唯一の例外が壁で、大きなガラスが、木材の代わりに用いられていた。
管制室に一歩足を踏み入れると、タバコと汗が混ざった、むっとしたにおいが、私を出迎えた。このにおいだけでわかった。管制室は男の職場であるらしい。
私の直感は誤っていなかった。管制室には男の人が三人居た。女性はやはり居ない。彼らはタバコをぷかぷかと吸いながら、ガラスの外側をじいと見つめていた。
仕事に集中しているからか。それともぼんやりとしているだけなのか。その判別は着かなかったけれど、彼らは私の来訪に気がついていなかった。
「あの。すみません。ターナー工房ですけれど」
彼らは私にようやく気がついた。三つの視線が私に突き刺さる。
「ん? ターナー? ああ。さっき上がった、古い飛行機の?」
そう言った一人は、クローイが飛び回っている方角に面していた男だった。伸ばしたヒゲの中に光るものがあるあたり、彼は三人の中で一番の年上であるようだ。
「ええ。そうです。その飛行機です。実は発光信号を送って欲しくて」
「ん。了解した。内容は?」
「テスト終了。問題があれば着陸。なければレースコースを回れ、と」
「わかった。伝えよう。しかし、レース?」
拳銃型の投光器を手に取った管制官が片眉を上げた。
「ええ。大レースに参加するのです。それでコースの下見を、と」
「ふうん? なるほど?」
管制官の顔に刻まれた胡乱な皺が、一層深くなった。次いで彼は、ガラスの向こうをちらと見る。その視線の先では、クローイがバレルロールを試みていた。
「まさかとは思うけれど」
彼の視線が私に戻った。
「あの飛行機で出るの?」
「いけませんか?」
「ああ、うん。いけないわけではないけれど……そうか。うん、なんと言ったらいいか、わからないけれど、頑張って」
歯切れの悪い台詞を残しつつ、管制官はガラスに向き直り、投光器をかちゃかちゃと操作し始めた。
あんな古い飛行機でレースに出たとしても、良い結果は望めない。最下位か、あるいはブービーが関の山だろう――歯切れの悪い台詞に隠された彼の本心は、きっとこれだ。
私も同感だ。クローイが勝てるなんて、これっぽっちも思っていない。彼女はたしかに良い腕をしている。あの機動の鋭さを見れば、それは明らかだ。
だが、レースはパイロットの腕だけで勝てるものではない。どんなに凄腕のパイロットだとしても、操る機体がお粗末では話にならないのだ。
クローイの飛行機はけっして悪い機体ではない。運動性能を見る限り、現代の平均的な飛行機に匹敵するだろう。作られた当初は、ずば抜けた性能の飛行機だったはずだ。
だが、それはあくまでかつての話だ。くどいようだけれども現代の基準で見たら、あの飛行機は平均の域を出ない。最新鋭の飛行機が集うレースの場において、凡庸な性能ってやつは致命的なハンデでしかなかった。
故にクローイに勝ち目はない。それは誰が見ても明らかなのだ。よろず楽観的なおじいちゃんでさえも、クローイが勝利するなんて考えていない。彼女の勝利を心から信じているのは、この世界でたった一人だけだろう。クローイ本人だけだ。
彼女がどうしてここまで自信満々なのか。私は、それがちっともわからなかった。
観測できるすべての情報は、彼女の惨敗を示唆している。なのにどうして、彼女は自らの勝利を疑いもしないのか。
もしかして、彼女には秘策があるのだろうか? あるいはあの飛行機には、私たちが解析できなかった秘密があるのだろうか? それとも――。
ちかり、ちかり。ガラスの向こう側から、白色光が飛んできた。発光信号だ。光源はクローイの飛行機だった。彼女はアクロバット飛行をやめて、水平飛行に移っていた。
「返答。来たぜ。了解、だってさ」
「ありがとうございます。あの。一つお願いしてもいいでしょうか?」
「なに?」
「タイムを測りたいのですが……その。この場で測ってもいいでしょうか?」
私は、ガレージから持ち出したストップウオッチを、管制官の鼻先に突き出した。彼のピント調節機能は、少し衰えているのだろう。管制官は顔をのけぞらし、ストップウォッチとの距離をとった。
私が、なにを突き出したのかを理解したのか。彼は二度、三度頷いたのちに、どうぞと言って、顔を大きなガラスへと向けた。
大レースのコントロールラインは、このコントロールタワーを基準に滑走路を横切る形で引かれる。もっとも正確なタイムが取れる位置が、まさにここなわけだ。
私は確かめる必要があった。彼女の自信の源泉はなにであるのかを。絶対的なエビデンスであるタイムでもって。