飛翔! オンボロ飛行機、大空への帰還!
クローイは私たちに仕事を与えてくれた。それだけでもありがたいというのに、借金返済のためにレースに出てくれると言う。
それはとてもありがたい申し出であった。しかし、飛行機レースは危険な種目だ。自動車レースと違って、クラッシュはすなわち死を意味する。
私たちのために、彼女が命を賭ける必要はないのだ。だから私たちは、気持ちはありがたいけれど、とクローイの申し出を断った。
だが、クローイは頑固だった。参加意志を取り下げようとしなかった。それどころか彼女は、レース参加させなければ、修復途中の飛行機を無理矢理にでも引き取ると言い放った。彼女の飛行機は、まだまだ飛べる状態にない。
そんな真似をされてしまうと、私たちの飛行機工としての沽券に関わる。ただでさえ低いターナー工房の評判は、地面にめり込んでしまうだろう。私たちは、彼女の提案を受け入れざるを得なかった。
しかしながら、私のモチベーションはとても低い。その原因は、彼女を死地へと送ってしまったことへの罪悪感であった。いや、それだけではない。私が気乗りしない何よりの理由は、彼女の飛行機そのものにあった。
クローイの飛行機は古い。母親の形見と聞くその飛行機は、エンジンこそ最新型であるけれども、設計は十五年前のものだ。
飛行機の進化速度はまさに日進月歩だ。新型も、五年経てば旧式の仲間入りである。つまり、彼女の飛行機は三回りも昔の思想によって造られているのである。レースは、新品ピカピカな飛行機が集うのだ。彼女に勝ち目があるとは思えない。
レースの危険性と、そもそもの勝率の低さ。この二つの要素が、私のやる気を奪っていた。
とはいえ、仕事の手を抜いていいわけではない。私たちが、借金を一括返済するためには、クローイを勝たせなければならないのだ。私たちは持てる技術のすべてを、彼女の飛行機に注ぎ込まなければならない。
飛行機の改修は、レース一ヶ月前に完了した。これならば、飛行機に予期せぬ不具合が生じても、余裕を持って対応できるはずだ。
◇◇◇
ふと私は、空を仰ぎ見た。お父さんの推進式飛行機のように、とても美しい青空が広がっていた。この空の下でピクニックをしたら、どんなに気持ちがいいだろうか。
でも、今日の私はピクニックをしに外に出たのではない。私は、テスト飛行をするために、飛行場に来ていた。渓谷地帯にある飛行場だ。飛行場は巨岩の上に根を下ろしている。
不思議な飛行場であった。飛行場は街から離れた位置にあり、交通の便が非常に悪い。これは交通インフラの要としては、大きなデメリットであろう。実際、この飛行場に離着陸する商用飛行機は、一日に数えるほどしかない。
だが、この飛行場は国内有数の歴史を持っていた。旅客はもちろん、輸送港としての役割をちっとも果たしていないのに、倒産を免れている理由はなにか。それは、この飛行場が持つ特異な特徴にあった。
普通、飛行場というのは見晴らしを確保するために、必要最小限の建物しか作らない。建築物と言ったら、管制塔とハンガー、そして旅客の待機棟くらいである。当然この飛行場も、それらを有していた。
その一方で、ここには他にない特徴がある。飛行場には、ボールパークみたいな階段状のスタンドが作られているのだ。スタンドは、メイン滑走路を挟む形で二本建っていた。
これはスポーツ大会が、飛行場で開かれるのを前提としている造りである。この飛行場は、クローイが参加すると言って聞かなかったレースの会場であるのだ。そしてそれこそが、この飛行場が倒産を免れている最大の要因だった。
私の眼前には、直ったばかりの彼女の飛行機があった。エンジンはすでに動いていて、プロペラがゆったりとした動きで回転していた。
私はコックピットに架けられた梯子を登った。コックピットをのぞき込むと、飛行服姿のクローイが、小柄な体をシートに預けていた。合図があれば、彼女はすぐさま離陸するだろう。
「クローイ! しつこいようだけど! もう一度言うね!」
彼女の飛行機は牽引式で、コックピットのすぐ前にエンジンがある。必然、操縦席は会話が困難になるほどの大騒音に見舞われる。だから私は、喧嘩もかくやな大声で彼女に話しかけた。
声を張り上げた甲斐はあったようだ。クローイは、着けていたゴーグルを額まで押し上げたのちに、私をじいっと見た。
「妙な兆候があったらすぐにディセンドして! そして! 不時着したら!」
クローイが右手を挙げながら頷いた。彼女の手には、拳銃に似たなにかが握られていた。その銃口は、握りこぶしが入りそうなほどに大きい。発煙信号弾の射出装置であった。
「この。信号弾を。打ち上げる」
彼女は飛行機乗り故に、エンジンの唸り声に負けない発声法を知っているのだろう。私の叫び声とは対照的に、クローイの声はいつもの調子であった。にも拘わらず、少女の声は私の鼓膜をしっかりと震わせた。
「それで! もし不安なところが見つからなかったら! ちょっと申し訳ないのだけれども、レースコースを飛んでね! 練習飛行! お願いしても! いいよね!」
射出装置をシートの横に置いたあと、彼女は右手でサムズアップをした。
「ありがとう! コースは! 大丈夫!?」
「問題。ない。こいつも。ある」
サムズアップをほどいた彼女の指は、高度計右側のウッドパネルを指した。紙片がピン留めされていた。紙片の正体は、レースコースが記された地図であった。
「うん! じゃあ! 私からは以上! なにか聞きたいことある!?」
クローイはちょっぴり大げさにかぶりを振った。
「それよりも。私は。はやく。飛びたい。もういい?」
彼女とのコミュニケーションは、それ以上続かなかった。私は二度、三度頷いたのちに梯子を降り、ピットガレージへと歩みを進めた。
ガレージにはおじいちゃんと、工房から連れてきた期間工たちが居た。
コーヒーで一服していたおじいちゃんが、私に気がついた。彼はガレージ備え付けのコーヒーメーカーへと歩んだ。
「どうだ? クローイは? 心配そうにしてたか?」
おじいちゃんはそう言いながら、淹れたばかりのコーヒーを私に差し出した。ここのコーヒーメーカーは調子が悪いらしい。受け取ったコーヒーは、人肌よりもちょっぴり暖かいくらいだった。
「心配してなさそうだったよ。それどころか早く飛ばせろ、って催促する始末」
「へへっ。そいつぁ嬉しいね。俺らを信用してくれているみたいでよ」
彼女は、私たちをたしかに信頼しているようだった。しかし私には、彼女が私たちを信頼している理由がわからなかった。
クローイが常連客ならわかる。しかし彼女は常連ではない。彼女が私たちを頼ったのは、まったくの偶然なのだ。
(それなのに。どうして私たちを信頼しているんだろう? わからないな)
なにかをしていないと、余計なことを延々と考えてしまいそうだった。私は気分を変えるため、おじいちゃんから手渡されたカップに口をつけた。味がとても薄かった。これではコーヒー風味の白湯だ。
「おっ」
声を漏らしたのちに、おじいちゃんはガレージの出口へと目を向けた。どうやらクローイがそろそろ離陸するようだ。
私は、コーヒーを片手にガレージの出口へと向かった。私がエプロンに這い出たのと時を同じくして、年代物の飛行機がゆらりと動き始めた。
ガレージが沸き上がった。私たちが直した飛行機は、少なくとも自走できるのがわかったからだ。
私、おじいちゃん、そして期間工たちに見守られながら、飛行機はエプロンを進み、誘導路を往き、滑走路の一端へとたどり着く。
クローイの首が、私たちの方に向いた。ただ、彼女が見ているのは私たちではない。クローイが見たのは、スタンドの背後に建つ大きな櫓であった。コントロールタワーである。彼女は離陸許可を待っていた。
ちかり。ちかり。コントロールタワーが灯台のように光った。発光信号だ。その意味を解読するまでもない。離陸の許可が下りたのだ。
私は唾を飲み込んだ。うす味のコーヒーであっても、唾液を汚染するだけの濃度はあったらしい。呑み込んだそれには、たしかな苦味があった。
時間にすれば一秒にも満たぬ一瞬、飛行機がぐんと地面へと沈み込んだ。次の瞬間、直したての飛行機は、滑走路を進みはじめた。
「速い」
その感想が、私の口からこぼれ出たものだと気がつくまで、私は時間を要した。まったく不随意の発声だったのだ。
飛行機は滑走路を走る。獣の唸り声にも似たエキゾーストノートを奏でながら、飛行機は突き進む。
飛行機は加速する。みるみるうちにその速度を上げてゆく。そして――ふわりと浮いた。
「早い。短い」
また私の口から感想がこぼれ出る。私は、こんなにも短い時間と距離で、飛行機が離陸できるとは思いもしなかった。
「そうだなあ。よっぽどいいエンジンだった。ってことだろうなあ」
おじいちゃんが私の独り言に同意した。
「それだけに私は不安だよ。きちんと改修できたのかどうかが。あのハイパワーに耐えられるだけの補強を施せたのかが」
「大丈夫じゃねえかな。ほら。見ろよ」
そう言っておじいちゃんは、浮き上がったばかりの飛行機を顎でしゃくった。
「機体の挙動は安定しているぜ」
紺碧の空を目指す飛行機の挙動は、とても安定していた。青い鉄板に磁石留めされているかのように、空中の機体は小揺るぎもしていなかった。
「自信を持てよ、ターラ。俺らは完璧にあの飛行機を直した。改修する前の挙動をこの目で見た俺が言うんだ。間違いない」
「いまのところはね」
私は唇を山型に曲げながら、高度を上げ続ける飛行機を見た。彼女の飛行機はとても調子が良さそうだった。