報恩! 放浪の飛行機乗り、賞金を手に入れるため、レース参加を表明す!
世界に夜がやってきた。工房はすでに終業していた。
工員たちは、仕事が終わると、各々の家庭へと戻ってゆく。足取りはとても軽やかだ。彼らは、愛する家族との団らんで労働の疲れを癒やしたいのだろう。
私だってヒーリング効果がある団らんをしたい。だが今夜のターナー家は、癒やしの時間を送ることなんてできない。それもこれも、エルドレッドが言い放った要求のせいである。
ターナー家の住居スペースは事務所の二階にある。住居スペースの床面積は広い。キッチンとダイニングの他に個室が四つある。広さはターナー家の数少ない自慢ポイントだけれども、今夜はご自慢な家もどんよりとした雰囲気で満ちていた。
特に重たいのはダイニングだ。そこが私の所在でもある。草花を紋様化させた壁紙が素敵なスペースだけれども、今夜に限っては壁紙もぼんやりとしていて冴えなかった。
「……ターラ。どうしよっか」
オーク材のダイニングテーブルに突っ伏しながら、おじいちゃんがうめいた。その音は、テーブルの天板に阻まれてくぐもっていた。
「どうしようっか、じゃないよ! どうするの! 全額返済だよ!? あと二ヶ月だよ!? お金! ちゃんとあるの!?」
「あるわけねえだろう! 素寒貧だよ、素寒貧! 返せるわけねえだろう! 馬鹿にすんな!」
私の悲鳴がとさかにきたのか。おじいちゃんは勢いよく立ち上がった。そして彼はふん、と胸を張った。なんだか誇らしげな様子である。
「なんだって胸を張るの!? なんだって居直るの!? お金の工面しなくちゃダメでしょう!?」
「工面できたら苦労しねえよ! とっくに借金を返せてるわ!」
「だから! なんでそんなに堂々としているの!? ちったあ、申し訳なさそうにしなさいよ!」
「申し訳なさそうにすれば、借金チャラにできるんだったらやってやらあ! でも、ならねえんだろ!? 俺はそこまで安い人間ではねえわ!」
「プライドがあるんだかないんだか、わからない発言をしないでよ! もう!」
ほんわかとした雰囲気であるべきダイニングには、借金をめぐり剣呑な空気が漂っていた。やはり借金は家族の絆を傷つける。誰しもが知っている当たり前を、私は身をもって体感していた。
「……わかった。おじいちゃん。一旦落ちつこう。クールダウンしよう」
怒鳴りあっても借金が減るわけではない。それはおじいちゃんとて承知しているようだ。彼は私の提案をすんなりと受け入れ、唇をきゅうと結びながら席についた。私もおじいちゃんに倣い、彼の対面の席に腰を下ろした。
短い沈黙を挟んだのち、二人分のため息が空気を震わせた。言うまでもなく、私とおじいちゃんのため息である。
「借金。それだけ重たいの?」
沈痛な雰囲気とは無縁な声が響いた。女の子の声。私の隣から聞こえた。クローイだった。トレーラーを失った彼女は、ターナー家に居候していた。
「ええ。額にすれば……ああ。考えたくもないくらい」
「私が払ったお金じゃ、足りない?」
「悪いけれど。全然よ」
私はかぶりを振った。
「工房にあるなにかを売っても、ダメ?」
「ダメ。この工房の土地を、全部売り払ってようやく、って感じかな」
「そんなに多いんだ。どうしてそこまで膨れ上がったの?」
クローイと接してわかったのだけれども、彼女はとても素直で純粋だ。純粋故に彼女は、聞きづらい事柄をズバズバと聞いてしまう。
嘲る意図があるのならともかく、クローイには悪意がないのだ。邪険に返事をするのは可哀想だろう。私は引きつる顔をほぐし、ぎこちない笑顔を作った。
「えっと……この工房の評判そのものがよろしくないってのが、理由の一つ。元々不景気だったってわけ」
「一つ? と、いうことは、いくつか理由があるの?」
「うん。まあ、そう。あと一つだけ」
「他の理由は、なに?」
もう一つの理由は、少しばかり言いづらかった。私が口をモゴモゴとさせていると、煮え切らない私を見かねたのか。おじいちゃんが嘆息ののちに口を開いた。
「もう一つの原因は俺だよ。むしろそっちが主原因だ」
「お決まりのギャンブルってやつ?」
「ある意味で言えばそうだな」
「煮え切らないね」
「はは。手厳しい」
おじいちゃんは照れ隠しの笑声をあげたのち、頭を二度三度がしがしと掻いた。以降、彼は言葉を発しようとしなかった。
これは補足を加える必要があるな、と私は思った。さもないとクローイのおじいちゃん像が、ギャンブルで身を崩すクソジジィになってしまう。
事実、おじいちゃんを見る彼女の目に変化が生じていた。その眼光は、憐憫の色彩を帯びていた。
「たしかに借金の原因はギャンブルだけれど。でも、おじいちゃん自身はギャンブルしないよ」
「と、言うと?」
「おじいちゃんはね。ギャンブルでスッて、文無しになった人にね。気前よくお金を貸しちゃうんだ。一人や二人どころじゃない。ダース単位で数えなきゃいけないくらい」
「つまり。首が回らなくなってしまったのは、お人好しのせいだ、と」
「そういうこと」
私がそう言うと、クローイはゆったりと頷いたのちにおじいちゃんを見た。彼女の視線は柔らかくなっていた。
クローイの目つきがこそばゆいのだろうか。おじいちゃんは、少女と目を合わせられなくなったようで、ぷいとそっぽを向いた。
「しかし、いよいよ参ったな。どう頑張っても金を用意できねえ」
「泥沼になるのは目に見えているけれど。借金返済のための借金をしたら?」
おじいちゃんはクローイの提案にかぶりを振った。
「実はな。カートライトの借金ってのは。まさに借金返済のための借金なんだよ。彼らは、俺の借金を肩代わりしてくれてるんだ」
「肩代わりの借金を肩代わりしてくれる人なんて、絶対に居ないだろうしねえ。居てもマフィアとかだろうし」
私の感想に、おじいちゃんはまったくだ、と頷いた。
「もし返せなかったらどうなるの?」
「差し押さえよ。この土地、すべて」
「それってつまり」
「そ、家を失ってしまうってわけ」
私はおどけて見せた。我ながら痛々しい演技だと思うけれど、真顔で伝えたら精神がやられてしまうだろう、という確信が私にはあった。
「……レースで勝てれば話は別なんだがな」
おじいちゃんがぼそりと呟いた。自嘲のにおいがプンプンとする独言であった。
「レース?」
クローイは、おじいちゃんの自嘲に気がつかなかったようで、レースとはなんぞや、と素直に問うた。
「二ヶ月後……ちょうど返済日の前日にね。この近くで大きな飛行機レースが開催されるんだ」
クローイへの返事は、私がすることにした。
「そのレースは毎年開催されるんだけれどもね。毎回、莫大な優勝賞金が出るんだ」
「その賞金は。借金を返せるくらいに大きいの?」
「うん。返してもなお、手元にいくらか残るくらいかな」
優勝賞金の額は、新たに土地を買えるほどだ。故にこの地域の飛行機工房は、こぞってレースに参戦する。
もちろん、レースには大きなリスクもあった。コースが難しいのだ。レースコースは、渓谷間を飛行しなければならない上、一周の距離が二〇マイルと長大であった。おまけにレースでは、その難コースを五〇周しなければならないときた。その難しさは、些細なミスで岸壁に衝突し事故死するパイロットが毎年現れている、と言えば十分に伝わるだろう。
それでもなお、地域の飛行機工房たちは、参戦をためらわない。勝者には、大レースに勝利したという実績と、その実績が呼び込む新規契約も手に入るからだ。言うまでもなくそれらは、工房の経営にプラスしかもたらさなかった。
「ふうん。なら当然、あなたたちも参戦するんでしょ? そのレースに」
私とおじいちゃんは、顔を見合わせた。お互い渋っ面であった。それが答えだった。
クローイは、私たちの無言の返答を受け取ったらしい。どうして、と、彼女は小首を傾げた。
「参戦しないんだ? もうそれしかないんでしょ?」
「レースに参加するためには、パイロットと飛行機を用意する必要があるよね?」
「うん」
「……私たちの飛行機に乗ってくれるパイロットが居なくて」
「どうして乗ってくれないの?」
そう言ってクローイは壁を見た。いや、彼女が見たのは壁ではない。その向こう側にあるモノだ。彼女が目を向けた方角には、旧ハンガーがあった。そこには、お父さんが造った飛行機が格納されている。
「いい飛行機を造るのに」
「ありがとう。でもね。もの凄く乗りづらい機体なのは違いないから」
私はにこりと微笑んだ。そのスマイルは、クローイの心遣いへの、せめてものお礼である。
「このあいだ言ったとおりだよ。飛行機があまりにピーキーで喧嘩別れ。それからかな。依頼が激減したのは」
「パイロットの口コミってやつを侮っちゃいけねえって、身をもって知ったよなあ」
おじいちゃんはそう言って、がはは、と笑い飛ばした。借金返済という頭痛の種があるからだろう。その笑い声には、いつもの豪快さがなかった。
「つまり。乗って欲しい、とお願いしても誰も乗ってくれないんだね」
「恥ずかしながら」
「ターラ。アーサーさん。一つ、聞いてもいい?」
「どうぞ」
私は続きを促した。
「あの飛行機って今すぐ飛べる?」
「ほったらかしにしたからなあ。すぐにエンジンが動いてくれるかどうかも怪しい」
おじいちゃんはあごヒゲをさすりならが答えた。対する居候の少女は、ふうんと、声を漏らした。
「そっか。じゃあ仕方がないな」
「クローイ?」
彼女はなにを妥協したのか。私はそれがわからなくて、ほとんど無意識に彼女の名を呼んでしまった。
「ね。ターラ。私、レースに出るよ」
「……はい?」
「だから。レースに出るよ。私の飛行機でレースに出る。それで勝てば借金を返せるでしょ?」
「……はい?」
人間、渡りに船な状況に出くわすと、思考がフリーズするようだ。私は、ウンともスンとも言えなくなってしまった。