矛盾! 高所恐怖症のパイロット!
風が吹く。風向きは、滑走路からパルクフェルメ。嫌なにおいが途端に強くなった。私たちの飛行機がにおいの源だ。それは、双発機の燃えさしが放つものと、まったく同じものであった。
黒い煙にこのにおい。やはり間違いない。クローイの飛行機は火災を起こしていた。滑走路を走る小さな推進式は、エキゾーストパイプのあたりから火を吐き出している。
エンジンはまだ動いていた。クローイが、滑走路上で立ち往生する悲劇は避けられそうだ。黒い煙の源が、ゆるゆるとパルクフェルメに近付く。
クローイが近付けば近付くほどに、消火隊は慌ててゆく。消火剤の残量は大丈夫か、だとか、ホースの接続は済んだのか、だとか、聞いているだけで不安になるやりとりが続いていた。
やはり、彼らをアテにするべきではないだろう。彼らにクローイの命は預けられない。
機体は誘導路を通り、とうとうパルクフェルメにやってきた。そのころになると、さすがにエンジンは半生半死の体であった。鼓動音は断続的で、いまにもぷすんと止まりそうだ。
クローイは、私のすぐそばにマシンを止めた。彼女はエンジンを落とす。すると、機体後方から漏れ出る火の手と黒煙の勢いが増した。
火勢は非常に強い。私とマシンとの距離は、三〇フィートほどあるけれど、それでも私は、顔面をじりじりと炙られる痛みを覚えた。
火元と距離がある私でさえ、痛みを覚える火勢なのだ。エンジンが背中にあるクローイは、私以上に危うい状況にあるのは間違いない。
これはまずい。一刻一秒を争う事態だ。消火器を手にした私は、消火隊を置いてけぼりにして飛行機へと駆け寄った。
顔面の痛みが強くなる。これ以上近付けば、もしかしたら火傷を負ってしまうかもしれない。それでも私は、飛行機との距離を詰めた。
火傷の恐怖を乗り越え、今や私と火元の距離は、消火器の有効射程内だ。
果たして彼女は無事だろうか?
わからない。
分厚い黒煙のカーテンが、私とコックピットとの間に下りていた。
時折、煙の切れ目からキャノピーがチラチラと見えた。
でも、クローイが動いているかどうかはわからない。
「クローイ!? 大丈夫! 意識ある!? あるなら! はやく脱出して!」
声帯を痛めても構わない。
喉を潰してしまって、明日以降声が出せなくなってしまってもいい。
それくらいの勢いで、私はクローイに呼びかけた。
私の声がちょっとした気流を生んだのだろうか。
キャノピーを包む黒煙が押し流され、コックピット内の様子が露わになった。
彼女の頭がゆらりと揺れた気がした。
その揺れ方は、随意的にも見えたし、不随意的にも見えた。
「クローイ! 大丈夫!? はやく! はやく!」
またクローイの頭が動く。
下を向いた。
一点を見つめている。
彼女の肩は、理性のある揺れを見せた。
どうやら彼女は、ベルトの金具を外そうとしているみたいだ。
よかった!
意識がある!
少なくとも彼女は、すぐさま命を脅かす大けがをしていないようだ!
ベルトは無事に外れたようだ。
彼女はスライド式のキャノピーに手を伸ばした。
私と彼女を隔てる壁が一つ減った。
「クローイ! 大丈夫!? 怪我はない!?」
私の声は、大声を出しすぎてガラガラであった。
無事が判明したクローイだけれど、彼女は危機感ってやつが希薄であるらしい。彼女は、とてもお気楽な仕草で手を振った。
あれは、私は大丈夫、のジェスチャーであろう。
「やあ、ターラ。お出迎えありがとう」
「なに呑気なこと言ってるの!」
彼女の楽天的な口振りに、私は思わず噛みついてしまった。
「ほら! はやく飛び降りて!」
「……一つ問題があるんだ」
クローイは、不思議と良く通る声で答えた。
「なに!? なにか問題があるの!? ほら! はやく! 残った燃料に引火したら一大事だから!」
「はしごを掛けて欲しい。実は私、高所恐怖症なの」
「パイロットのくせに!?」
「飛び降りとなると話は別。飛び降りなんて、バカがすることだよ」
彼女は本気で怯えているらしい。声が震えていた。私は、彼女の恐怖の線引きが、どうにもわからなかった。
「橋くぐりでイカれたラインを使ってたくせに! なにをビビってんの!」
「だって。人間の身体には、ランディングギアがないんだよ? サスペンションもどこにもない。しかも脚を挫いたら、とても痛いじゃん。私、痛いの嫌。飛び降りるなんて、無理無理」
「スピードウェイで見せた、あのクソ度胸はどこに行ったのよ!?」
押し問答をしている間にも、火の勢いは、お構いなしに増してゆく。黒煙が、コックピットをもう一度覆い隠そうとする。さすがに息苦しくなったのだろう。クローイは二度三度、けほけほ、と咳き込んだ。
もはや一秒ですら惜しい。私は手にした消火器を放り投げた。
「ほら! 飛び降りて! 私が受け止めるから!」
私はそう言って、飛行機に近寄った。全身が炙られる。まるでオーブンの中に入ったかのようだ。こんな環境なのに、クローイはよく平然といられるものだ。
「……本当に? 受け止めてくれるの?」
「いいから! 私を信じて!」
「落とさない? 絶対に。落とさない?」
「受け止めるから! 落とさないから! いいからはやく飛び降りて! ほら! イジェークト!」
クローイはなおも尻込みした。レースではあれだけアグレッシブなラインを使ったというのに、まったくもってヘンである。私は、この娘の価値観が、つくづくわからなかった。
が、いくらクローイと言えど、焼け死ぬのは嫌なのか。決心がついたらしい。彼女は生唾を飲み込んだ。
「……じゃあ。飛ぶよ。その、飛ぶから。絶対に受け止めてね?」
「了解! さあ、飛んで! はやく! ほら、火がそこまで来てるから!」
二度、三度。クローイは身体を前後に揺らした。そして――。
「行くよ」
クローイはそう言って、コックピットから飛び降りた。運動神経が特に優れていない私だけれども、このときばかりは機敏な動きをみせた。
「ぐお……」
私は、なんとか彼女を受け止めた。ただ、ノーダメージ、とはいかなかった。私の身体を襲った衝撃は、想像以上に大きかった。椎間板が破壊されないか、とても心配である。
「ナイスキャッチ」
クローイが、無邪気な拍手を私に送った。まこと腹立たしい。
だが、呑気なクローイに腹を立ててばかりもいられない。飛行機は、依然として燃えているのだ。この距離で爆発に巻き込まれてしまえば、私たちは揃って病院行きだ。
クローイを横抱きにしたまま、私は火元から離れた。その足取りは、動物園のペンギンみたいにヨチヨチとしたものだった。
熱感が感じられなくなった距離に来た頃合い、消火隊が正気を取り戻したらしい。彼らは、私たちとすれ違う形で燃えさかる飛行機へと駆け寄った。
「ん。ご苦労。もう大丈夫」
安全と思われる距離にまでやってくると、クローイはここで降ろしてくれ、と要求した。その態度は、お抱え運転手に指示する大金持ちそのものであった。
私は苛立ちを覚えなかった。実のところ、私の体力は限界に近かったからだ。私は、これ幸いとばかりにクローイを降ろす。火事による外からの熱と、運動により生じた内からの熱。この二つの熱のせいで、私は汗だくになっていた。
私は息を整えつつ、クローイのつま先から頭頂までを、しげしげと眺めた。煤がコックピットに流入したせいだろう。彼女の身体は、ゴーグルで守られた目元を除いて、野良犬のように汚れていた。
が、彼女の汚れは煤汚れだけだった。血や体液に由来する嫌な汚れは、どこにも見当たらなかった。
「……とりあえず。怪我をしてなさそうで安心したよ」
私は肩の力を抜きながら、そう言った。ああ、安心した。心底ほっとした。安堵のあまり、私は足腰が萎えてしまった。気を抜くと、その場でぺたんと座り込みそうになる。
「うん。ご覧の通り無傷、無傷。さすがに出火したときは、マズいと思ったけれど」
クローイの言を受けると、安堵が私の心からそそくさと退散した。入れ替わりで胸の内に根を張ったのは、とても深い悔恨であった。
私は、彼女に謝らないといけなかった。
「……ごめんね」
「うん?」
クローイは首を傾げた。彼女は、私の謝罪をいまいち理解しきれていないようだった。
「整備。ミスっちゃって。私がきちんと管理していれば防げたトラブルだった。あなたの信頼を裏切った。だから、ごめん」
「ああ、なるほど」
ようやく合点がいったのか。クローイは二度三度頷いた。
「気にしないでいいよ。ターラは、私の信頼を裏切っていない」
「でも、エンジンから出火した。あれは間違いなく私の責任」
「整備不良によるものじゃない。燃料かオイルか。そのどちらかに不純物があって、そいつが悪さしたトラブルなんだから。責任を問われるのならば、不純物を取り除けなかったメーカーにある」
「……トラブルの原因。わかってたの?」
私が面食らいながらそう問うと、クローイは自信たっぷりに頷いた。
「すごくいい飛行機だったからね。機体のどこがわるいか。ダイレクトに伝えてくれたよ。だから――」
クローイはそう言って、くるりと振り向いた。彼女は、今もなお燃えている飛行機を見つめた。
「――だから。はやく火が消えてくれないかな。なんとか直せる損傷であって欲しい。あのままスクラップになるなんて、本当にもったいない」
「怒ってないの?」
「なにが? どうして?」
「トラブルそのものに」
「いいや。全然」
クローイは飛行機を見つめたまま、素っ気なく言った。私たちメカニックを慮っての言葉、ではなさそうだ。そもそもこの娘は、他人の機微に鈍感だ。彼女は、出火トラブルを、本当に気にしていないようだった。
「……本当に? 気にしてないの?」
「うん」
「どうして? どうして気にしてないの?」
「どうしてって……」
クローイが私と向き直った。彼女は片眉を上げていた。
「だってさ。あのトラブルがなければ、余裕で勝ててたわけじゃない。けれど、エンジンが煙を噴いて、火も噴いて……速度が落ちて接戦になってしまった」
「ううん?」
クローイが首を傾げた。ますます混乱してしまった、という風体だ。
「気分悪くないの? ハラハラしてないの? どっちが勝ったかわからなくなるような、この展開って嫌なものじゃないの?」
「あー……そっか」
ようやく得心がいったのか。彼女は二度、三度、と小さく頷いた。
「つまり、ターラは気になっているわけだ。どっちが勝ったんだろうって。そのせいで気が気でなくなっちゃってるわけだ」
「まあ、うん。そんな感じ」
「なら、安心して」
なにを思ったのか。クローイは、後ろ手を組みながら一歩、私との距離を詰めた。よろず表情の変化に乏しい彼女にしては珍しく、クローイは含みのある笑顔を浮かべていた。
なぜ、彼女は笑んでいるのか。今度は私の方が、わからなくなってしまった。彼女の意図とは、一体?
私は思考が顔に出るタイプだ。人の機微に乏しいクローイが、私の感情を読み取れるくらいに。クローイはくすり、と、とても愉快そうな鼻笑いを漏らしたのちに。
「私、勝ったから」
短く。そしてハッキリと彼女は言い切った。




