完走! 小さな飛行機、コントロールラインを通過する!
私は、たしかにパイロットではない。だから感覚的なことはわからない。でも今のクローイが、オーバースピードであるのはわかった。エルドレッドと比べると、クローイは別カテゴリのマシンかと思うくらいに速い。
マズい。
これではベテランさんの懸念通りになってしまう。
クローイが外に膨らんでしまう。
インが空いてしまう。
エルドレッドが、がら空きになったインに入りこんでしまう。
そうなれば順位が再びひっくり返る。
最終コーナーをあとにすれば、残るのはホームストレートだけだ。
最高速で劣る私たちでは、ストレートでのオーバーテイクは難しい。
逆転されたままレースを終えてしまう。
「ああ! もうダメだ!」
誰かが叫ぶ。ポジティブシンキングに努めてきた私と言えど、このケースではネガティブにならざるを得なかった。
ここで抜かれたらもう、逆転は望めない。
そしてあのスピードでは、機体をインに持っていけない。
万事休すか。
あんまりな結末に、血液が重力に敗北した。血が下半身に落ちてゆく。めまいを覚える。二本脚で立っているのが精一杯となる。
クローイのエレベータが大きく動いた。
旋回開始。
だが、あの速度ではきちんと曲がれないだろう。
再逆転されてしまうだろう。
エルドレッドが再び一位になる瞬間を、私は見たくなかった。
だから私は、目をつぶろうとした。が、血の気が下半身に集まったせいで、顔周りの反応がどうにも鈍かった。まぶたを下ろしきるその前に、クローイがエイペックスに到達した。
ああ、もう! 私は、見たくないシーンを見なければならないのか! 自分の身体に裏切られた私は、仕方がなくスクリーンを見つめることにしたけれど――。
「え?」
私は目を見開いた。次いで後悔した。どうしてクローイを最後まで信じてあげられなかったのか、と。
一体なにが起きたのか。
クローイはどんな魔法を使ったのか。
それはわからない。
でも、スクリーン上のクローイは、インをしっかりと突いていた。
機体はよほど鋭い弧を描いたのだろう。翼が縮流を引き起こし、両翼端から白い雲が伸びていた。
「雲だ! はじめて見た!」
誰かが言った。興奮が隠せぬ声色であった。飛行機が雲を引くことは、たしかに知識として知っていた。だが、現物を見るのは、私もはじめてだった。
その上、抜かれると予想していたクローイが順位を守ったのだ。雲と順位のキープ。二つの嬉しい予想外によって、私たちの凍り付いた感情は、一気に沸点へと昇華した。
スタンドもまた、このガレージと似たようなものだった。観客らはクローイに大興奮。スタンドは、頑丈なコンクリート製だというのに、歓声の音圧によってビリビリと震えた。
「勝った! もう勝った! このまま! このまま!」
私は叫んだ。クルーもおじいちゃんも、果てにはベテランさんまでも、狂ったような声を張り上げた。
二機がコーナーを曲がりきる。
小さなクローイを、大きなエルドレッドが追う。
二人は揃ってロールし、水平飛行。スロットルを全開にした。
私の興奮のボルテージが上がってゆく。ぐつぐつと沸き立った心が、私の身体を支配した。気がつけば私は、うわばみみたいな足取りで、ガレージを飛び出していた。
私はピットウォールに向かおうとしていた。クローイがトップでチェッカーを受ける姿を、この目に焼き付けたかった。
私から二歩、三歩遅れて、おじいちゃんが、ベテランさんが、クレーンの彼が、クルー全員が私に追従した。
ヘロヘロになりながらも、私はウォールにたどり着いた。まだ、二人はコントロールラインを越えていない。飛行場上空にたどり着いていない。
が、あと数回瞬きをすれば、私たちはクローイの勇姿を、肉眼で確認できるはずだ。
「間に合ったか!? クローイは、来ちまったか!?」
「まだ! まだだよ! 間に合ってるよ!」
私たちは、故郷にさよならを告げる汽車の乗客みたいに、ウォールから身を乗り出した。最終コーナーの方角を、じいと見つめる。
「来た!」
ゆらり。黒い小さな染みが青空に現れた。機影だ。シルエットも明らかになる。プロペラが機首にない。
「クローイだ!」
私は機影を指差しながら叫んだ。仲間たちがわっと盛り上がった。感極まった者も居るらしい。耳を澄ましてみれば、すすり泣きも聞こえてくる。
「……まさか。まさかよう。本当に勝つなんてよう……思いも寄らなかったぜ……俺ぁよう」
すすり泣いているのはおじいちゃんであった。感情が高ぶりすぎて、なにを言いたいのか、自分でもよくわからないのだろう。おじいちゃんは、しゃっくりまじりの声でモゴモゴと言い続けた。
音が近付く。
機影が大きくなる。
それらに伴って、スタンドの歓声も大きくなる。その音圧たるや、私の身体をゆらゆらと揺らすくらいだった。
私は、身体を揺らすそのエネルギーを、有効活用することにした。揺らぎを利用して、クローイに手を振ろうとしたのだ。
ゆらゆら。水底でのんびりとダンスする水草のリズムで、私は右手を振った。
「……あ?」
しかし、ぴたり。ご機嫌なリズムは唐突にピリオドを打った。とても不穏な形跡を見つけてしまったのだ。
気のせいか? 私は二度三度、目を瞬かせて空をじいっと見つめた。
そして私はすぐに後悔した。ああ、見つめなければよかった。不穏な影に気がつかなければ、私は気持ちよくクローイを迎え入れたのに。
ああ、もう! 私は、どうして余計なことに気がついてしまったのか!
真っ白い煙が、クローイの機影から伸びていた。それこそが、私が見つけた不穏な影であった。
「……お、おい! あれ!?」
私から遅れること数拍、ベテランさんがそれに気がついた。戸惑いが色濃い声だった。
戸惑いは、あっという間にクルーに伝染した。伝染力はとてつもなく強いようだ。葉擦れのようなざわざわが、ピットウォールだけに留まらず、スタンドにまで波及していった。
「だ、だ……大丈夫なのか!? あ、ありゃあ!」
おじいちゃんが、塩味に咽びながら慌てふためいた。
「おい! 大丈夫かよ! ターラ! どう思う!?」
「……ちょっと黙ってて!」
私はおじいちゃんを一喝したあと、耳を澄ました。エンジン音を確かめて――。私は、血液が下半身に落ちてゆく感覚を、再び味わった。
「……音が澄んでいない! しゃがれている!」
私の報告は悲鳴と大差なかった。
「まずいぞ! 速度も落ちてる! ほら、見ろ! エルドレッドが!」
ベテランさんが上空の二機を指差した。エルドレッドが猛追していた。その勢いときたら、ハイウェイで前車を追い抜こうとする、せっかちなドライバーそのものだった。
「クローイのプロペラは!」
おじいちゃんが叫ぶ。
「まだ動いてる!」
私が叫び返す。
「でも、明らかにパワーダウンしてる! 加速できてない!」
「コントロールラインは!?」
「あと少し!」
あと少しすれば、クローイはチェッカーを受けるだろう。ここでエンジンが停止しても惰性でゴールできる。リタイアだけは避けられる。
だが、トップかどうかは定かではない。エルドレッドはクローイを抜き去るかもしれない。二人の速度差はそれほどまで大きい。
残された距離は本当に短い。クローイは追い抜かれるかもしれないし、ポジションをキープできるかもしれない、といったところ。勝利がどちらに転んでもおかしくはない。
私たちにとってはたまらない状況だけれども、観客たちにとっては燃える展開らしい。暴力的なまでの歓呼が、私たちの背中をどんと押した。
「ああ! もう! こうなりゃ神頼みだ! 神様! 神様! オーガニックの神様! あの飛行機の自然治癒力様! どうか、俺たちを! クローイを勝たせてください!」
神頼みしたくなる気持ちもわかる。ただ、おじいちゃんの祈る神様は、私の癪に障った。
おじいちゃんの祈祷は、クルーたちの逆鱗にも触れたようだ。
「あんたが入れたクソオイルのせいだろ! スモークの原因は! ちったあ、反省してください!」
ベテランさんの怒鳴り声が皮切りだった。チーム全体が、そうだそうだと相づちを打った。
「まだヤキ入れが足りなかったか!? これで負けたらただじゃすみませんよ!? アーサーさん!」
「今度こそアンタを! 土に還してやるぜー!」
「あ-!? それ、殺人予告じゃねえか! 誰だ!? 物騒なこと言いやがったのは!? 打ん殴ってやるから、前に出てこい!」
「うるせえ! グダグダ言うんじゃねえ! オーガニックの一部になれるんだから、俺らに感謝して下さいよ!」
「なにをー!」
「ちょっと黙ってて!」
私は一喝した。私たちが喧嘩している間にも、クローイは一位を守るべく頑張っているのだ。それなのに喧嘩だなんて――まったくどうにかしている!
「間に合え! 間に合え! 間に合え!」
人間は心からなにかを願うと、手を自然と組んでしまうらしい。間に合え、間に合え、としか言えなくなった私は、気がつけば両手を組んでいた。
「間に合え! 間に合え! 間に合え!」
気がつくとリフレインは、私だけのものではなくなっていた。喧嘩するより祈りを捧げた方が建設的、と気がついたおじいちゃんたちも、間に合え、とひたすらに詠唱していた。
あれよ、あれよの内に、最終コーナーで拵えたリードが少なくなってゆく。いまや両機の距離は、交尾に耽るトンボそのものだ。
もっとも、そんな数珠つなぎもほんの一瞬のこと。呼吸をする合間に、エルドレッドは機体をわずかにインに振って――。
「並ばれた!」
――そして抜かれた!
その瞬間、観客の興奮が本日最高値を記録した。爆弾が炸裂したかのような大歓声が、私の身体を包み込んだ。
スタンドの興奮の原因。それは、エルドレッドが最後の最後に敢行したオーバーテイクを目撃したから、ではなかった。最後の最後まで勝利の女神がどちらに微笑んだか。それが一目でわからないほどに、もつれ合った結末であったからだ。
そう。二機は、まったく横並びでコントロールラインを通過したように見えた。
「……どっちだ?」
夢見心地な声音でおじいちゃんが、一体どちらが勝ったのだろう? と、問うた。
誰もおじいちゃんの質問に答えなかった。いや、答えられないのだ。瞬きすら忘れてクローイを注視してきた私でさえも、どちらが先にコントロールラインを通過したのかがわからない。
まったく同着のようにも見えた。辛うじて逃げ切れたようにも見えた。逆転を許したかのようにも見えた。
「……なあ? どっちだ? どっちが勝ったんだ? 俺たちは負けたのか?」
おじいちゃんは再び質問した。でも、結果は同じだった。クローイが勝ったのか、負けたのか。今の私たちには、それがわからなかった。




