緊迫! 一進一退の大接戦!
クローイも、ヘアピンコーナーが勝負所だと認識していた。勝負をしかける。彼女は、機首をインに向けた。機体がインの岸壁へと吸い寄せられる。
もちろん、エルドレッドだって見ているだけではない。彼もまた、ラインを潰すべく動いた。
「行った!」
私とクルーたちの絶叫が重なった。歓声だった。エルドレッドがイン側に寄ったのを見るや否や、クローイは即座に逆ロールを決め、機体をアウト側へと持っていったのだ。フェイントだ。
ヘアピンでアウト側から勝負を挑まれるとは、さしのエルドレッドも予想していなかったのだろう。彼はまったく対応できなかった。彼はそのままインに留まった。
これは行ける! 抜ける! 速度差がある! クローイはフェイントの分余分な距離を飛んでいるけれど! でも、元々のスピードが違うのだ! 抜ける! 抜ける!
両機がヘアピンのエイペックスにたどり着く。二機は隣り合って飛んだままだ。
エルドレッドが、アウトへとわずかに膨らんだ。意図した挙動ではない。単純に機体性能の限界だ。
対するクローイは機体のコントロール権を握ったままだ。誰が見てもオーバーテイクする絶好の機会。彼女がこのチャンスを無駄にするはずもない。速度差を活かし、クローイはわずかに先頭に立った。
「抜いた!」
歓喜の嵐がコンクリート構造体の内部に吹き荒れた。いや、狂喜と表現すべきか。ターナー工房の面々は、気が触れたように喜び、叫び、果てには感涙に咽ぶ者まで現れる始末だ。
「いやっ。まだはやいっ。見ろ、スクリーンをっ」
ただし、お祭り騒ぎな空気に当てられても、我を保つ人もいた。ベテランさんだ。彼は今日一番の大声を出し、クルーたちに注意を促した。
大荒れの装いから一転、チームはしいんと凪いだ。静かになったのは、ベテランさんの一喝が効いたというのもたしかにある。だが、彼らの言葉を奪った最大の要因は、スクリーンにあった。
たしかに抜いたはずなのに。得意のストレートで勢いを盛り返したのか。スクリーン上のエルドレッドが、再びクローイに並びかけていた。
「ああっ! もうっ! しつこいなあ! なんなの!? あのボンボン!」
私は地団駄を踏みながら悪態を吐いた。
「思考の切り替えが本当にはええ! アイツ、クローイがアウトから来ると知るや否や、スロットル操作に全神経を注ぎやがった!」
おじいちゃんが顔を紅潮させながら言った。
「クローイが抜け出るそのときに、ターボラグがくるような立ち上がりをしたってこと?」
「多分そうだ!」
このパワーオンは挙動にも影響をきたした。エルドレッドはより一層アウトへと流れた。クローイは接触を避けるために、ラインを外さなければならなかった。
「ああ……」
ため息を伴った落胆の声が、そこかしこから生じた。
「ここで抜けないのか……」
誰かがそう言った。声そのものに黒カビが生えているのでは、と思うくらいに陰気な声色だった。その上、声に根を下ろしたカビは、胞子をガンガン吐き出しているのだろう。例の声を境にして、クルーたちの立ち振る舞いが、塩漬けした野菜みたいにしんなりとしてしまった。
無理もない話だった。
私たちが絶対的に有利である中盤セクターが終わってしまった。残すは衝立岩と直角に交わるコーナーと、岩に沿って飛ぶストレートと最終コーナーのみ。最終セクションは、燃料が減った状態で、機体性能がようやく拮抗する中速セクションであった。
加速性能が同等である以上、どちらかがミスしなければ追い抜きは発生し得ない。そして先の複合コーナーで見たとおり、エルドレッドはミスするパイロットではない。
そうである以上、クローイの逆転は絶望的、と見るべきだった。
「……あの娘はよくやってくれたよ」
おじいちゃんが囁いた。吐息が先行する、とても力のない声であった。
「一度は最下位になったんだ。そこから二位まで上がったんだぜ? 名門チームからのスカウトが殺到するだろう」
「……そうですね」
独り言めいたおじいちゃんの言葉に、ベテランさんも頷いた。彼もまた、沈痛な面持ちであった。
「スカウトが来るのはクローイだけじゃないだろうぜ。お前らもきっとそうだ。お前らは、カートライト工房と戦えるマシンを調整したんだぜ? 引く手あまただろうよ」
「アーサーさん……」
クルーたちは、おじいちゃんの労いに胸を打たれたようだ。各々の下まぶたには、キラキラとした反射体が留まっていた。
ターナー工房はレースの総括に入った。みんな、もう勝負はついたと判断していた。
「まだ! まだだよ! みんな! まだクローイはチェッカーフラッグを受けていない! まだレースは続いている!」
私は吠えた。落日の気配に抗った。まだ勝負はついていないのに、みんなはどうして負けた風情を醸し出しているのか。
残るコーナーでの機体性能はたしかに互角だ。ちょっとやそっとじゃ、追い抜けないのもたしかだ。
けれども。けれども――!
「クローイなら抜ける!」
私はそう信じて疑わなかった。大人たちは同情の視線を私に注いだ。
でも、もういい。誰も私に同調してくれなくてもいい。誰もがクローイの勝利を信じていなくてもいい。私だけでいい。彼女の逆転を信じるのは。私だけでいい。
私はスクリーンをねめつけた。画面上のクローイは、なおも抜く機会をうかがっていた。




