刻々! 迫るタイムリミット!
レースは残すところ二周となった。じれったいことに、一位と二位はまだひっくり返っていない。
クローイのペースは、それこそ瞬きをするごとに上がっていった。対するエルドレッドのペースは上がらない。私が目した通り、クローイはフューエルエフェクトの恩恵を存分に受けているようだ。
もちろん、これは諸手を挙げて喜べる事態ではない。燃料が、切れかかっているのもまた事実だからだ。
その上、彼女にはスモークの問題もある。数値化できるのならば、彼女が完走する確率は、リタイアする確率よりも低いはずだ。
(でも悲観する必要はない。よく見るんだ。エルドレッドとの差を。本当に手が届くような距離じゃないか。見事なテールトゥノーズじゃないか)
クローイとエルドレッドの距離は、かなり接近していた。私はバインダーに目を落とし、ギャップタイムを確認した。ギャップはコンマ八秒。クローイは文字通り、エルドレッドの尻に噛みついていた。
私は再度、スクリーンを見る。そこには、飛行機の追突事故が起こるのではないか、と思うくらいに近接した両機が映っていた。
実際、これは恐怖映像でもあった。スタンドから歓声が上がらない。コーナーに突入するたび、前をゆくエルドレッドがブレーキをかけるたび、そしてギャップが詰まるたびに悲鳴が上がった。観客らは、衝突事故を明らかに怖がっていた。
一方、私たちは悲鳴をちっとも上げなかった。ターナー工房のクルーらは、一様に身体を乗り出して映像を見つめていた。
画面が切り替わる。ゴツゴツとした岩肌が映った。この飛行場を支える衝立岩である。映像が切り替わってから間をおかず、かの二機がやってきた。
「いいっ。悪くないっ。やっぱり燃料がずいぶんと減っているっ」
短く刻んだ台詞は、クレーンの彼のものだった。彼は興奮して、過呼吸を起こしかけているのだろう。その声音は、しゃっくりと区別がつかなかった。
もっとも、彼が興奮するのも無理からぬこと。クローイの加速性は、明らかに良化していた。私たちのマシンは高速セクションが弱い。ここまでは、最終コーナー前のストレートではエルドレッドに軍配が上がっていた。
だが、今ではどうだろう。燃料が減ったおかげで、クローイはエルドレッドに食らいつけている。ギャップが広がらなくなっていた。
「抜けるっ。これならっ。最終コーナーでっ。いけるっ」
ますます興奮したのだろう。クレーンの彼のしゃくり上げは、その間隔がさらに短くなっていた。彼の呼吸は伝染性を持っていたらしい。気がつけば、他クルーの呼吸も極端に浅くなっていた。
私たちの期待を受けて、クローイは衝立岩を右手に見ながら加速してゆく。やはり差は広がらない。衝突寸前な距離をずっと維持している。
これはいける!
最終コーナーでインを突ければ!
エルドレッドを抜ける!
私の拳に力が籠もった。
短く切りそろえたはずの爪が、手のひらに食い込んで痛い。
そして二機は最終コーナーに突入した。
「いけ! いけえ! インを突け!」
重なった声が、四方をコンクリートで囲まれたガレージに反響した。
私の声もまた、反響音の一要素であった。インを突け、インを! 私は、喉が痛くなるくらいの大声を張り上げていた。
けれども、現実はいつだって厳しい。大声を上げただけで結果が得られるのならば、人生はどれだけラクになるのだろうか。
「ああ……」
打って変わって、落胆の合唱がガレージの空気を震わせた。クローイは、最終コーナーでインを突けなかったのである。
インを突けなかったのは、彼女が度胸不足だったからではない。前をゆくエルドレッドが見事であっただけだ。彼はインをきっちり締めて、クローイが飛べるスペースを塞いだのだ。
二機の順番はなおも変わらない。二人は最終コーナーをクリアし、飛行場直上に戻ってきた。
「野郎。冷静だ」
おじいちゃんが呻いた。その独り言には、エルドレッドへの憎たらしさがたっぷりと籠もっていた。私が振り向くと、おじいちゃんは渋っ面で親指の爪を噛んでいた。
「でも、おじいちゃん。あのラインを使った、ってことは。エルドレッドもかなり追い込まれている、ってことにならない?」
「ああ。それは違えねえ」
おじいちゃんは指を口元から引き離した。
「あのラインは、立ち上がりが悪くなる。ホームストレートで理想的な加速ができなくなるだろう」
「ストレートでモタつくならっ。抜けるチャンスあるんじゃない?」
「……ほれ。見い」
おじいちゃんが、スクリーンを顎でしゃくった。彼の言うとおり、エルドレッドは立ち上がりに難儀していた。それまで見せていた、圧倒的な加速力はどこかに消え去っていた。
クローイは、エルドレッドの苦労を見逃さなかった。滑走路上空にやってきた彼女は、機体をアウト側へと振った。彼が手こずっている間に、ストレートで抜いてしまおう、というのが彼女の魂胆だ。
目論見は上手くいったように見えた。滑走路の半ばまで突き進んだ頃合い、小さな推進式の飛行機が、大型牽引式飛行機の真横に並んだ。スタンドがどっと沸き立った。
「そのままっ! そのままっ!」
オーバーテイクが、成立しかかっているのだ。私たちが沸き立たない理由はない。その声量は、コンクリート壁をぶち破らんとするほどであった。
けれども、クローイはエルドレッドを抜けなかった。
横並びになったまではよかった。だが、カートライト工房は本当にパワフルなエンジンを積んでいるらしい。クローイがエルドレッドに肩を並べたタイミングで、カートライト工房の機体が前にぐんと伸びたのだ。不可視の巨人にテールを蹴飛ばされたかのような、突然かつ強烈な加速であった。
「げえ! なんだあ! ありゃあ!」
クルーが口々にそう叫んだ。
「あれって。ターボラグ?」
「多分な」
おじいちゃんが、私の質問に頷いた。彼はまた、爪を噛みはじめていた。
「ずいぶんなドッカンターボだね。なるほど。最高速がぐんと伸びるわけだ」
「それでいて低速での加速性が悪くねえ。畜生。一体どんなチューニングしたら、あんな万能エンジンに仕上げられるんだ」
おじいちゃんがそう吐き捨てた。通常、強力なターボを積んでいるマシンは、低速域が苦手なものである。ターボを搭載した他機がまさにそうだ。彼らの低速コーナーの立ち上がりは、実にもっさりとしていた。
だが、エルドレッドは違う。私たちのマシンに比べれば低速域は弱いけれど、彼のモタつきは致命的ではない。おじいちゃんの言うとおり、カートライト工房のマシンはまったく見事であった。
「ここで抜けなかったのは、デカいぞ。マズいぞ」
おじいちゃんの爪噛みが激しくなる。彼の苛立ちが増悪した原因は、映像にあった。
画面は飛行機を捉えていなかった。管制塔を捉えていた。旗を手にした一人のマーシャルが、コールタールで真っ黒になった屋舎の上に突っ立っていた。彼は、大きな、とにかく大きな動きで旗を振っている。
あれは合図であった。レースがファイナルラップに突入したことを伝えるための。
「もう時間がねえ。あの優秀なボンボンなことだ。ヤツは学習するだろう。次の周、クローイはこの周みたいに並べねえだろう」
「ってことは」
私たちに残された唯一の勝ち筋は――。
「中盤セクターでまくるしか、ない?」
おじいちゃんは無言で首肯した。




