浮上! さらなる懸念!
クローイがスモークを吐いてからというものの、スタンドの様子が変わった。それまでは、やんややんや、とお祭り騒ぎな空気だった。
今は違う。会場はピンと張り詰めた空気となった。その空気は、ガレージに戻った私たちにもひしひしと伝わってきた。
二人が飛行場上空に帰ってきた。順位はそのまま。見た目のギャップもそのまま。もう五周はレースに進展が見られなかった。
「膠着してるね」
私は唇をひん曲げながら呻いた。
「あ、ああ」
クルーたちにヤキ入れられたおじいちゃんが、疲れ切った声で答えた。殴る蹴るだといった過激なお仕置きは加えられていないけれど、彼はさすがに堪えたらしい。
「ギャップタイムの推移はどう?」
「ええっと。待ってろ」
おじいちゃんは、手近なクルーからバインダーを受け取った。彼は目を細め、バインダーと顔の距離をしばし調節したあと(明らかな老眼仕草だ)――。
「さっきのラップでコンマ二縮めてたな。が、その前のラップだとコンマ三広げられてる」
「一進一退、なわけだね」
「実力拮抗、だな」
おじいちゃんは、バインダーを持ち主に返しながらそう言った。その顔には、皺がくしゃりと刻まれていた。彼もまた、現状を面白くないもの、と認識しているようだ。
「あのボンボン、やっぱりうめえわ。ブロッキングが神がかっている。こっちが何度も並びかけても、ちっとも抜けない。若えのに大したヤツだぜ」
おじいちゃんの苦々しい賞賛。まことに遺憾だけれども、私も同意せざるを得なかった。
エルドレッドの操縦は、見事のひと言に尽きた。オーバーテイクラインを巧みに潰している。
一方で彼は、追い抜きが発生し得ない、と見なされているコーナーではレコードラインを堅守していた。クローイが抜けない箇所でフェイントをかけても、彼はちっとも応じなかった。
「フェイントに乗ってくれたらいいのに。そうすれば、ラインが乱れて、簡単にオーバーテイクできるのに」
私は舌打ちを伴いながら呟いた。
「クローイも派手にフェイントしてるんだけどなあ。あれだけチョロチョロ動かれると、並のパイロットならイラッときて、余計な動きを見せるもんだが」
「彼は微動だにしない。クールな男ね」
「ああ、厄介だ」
おじいちゃんの声が、疲労でますます掠れた。
「フェイントに乗らない。的確なブロッキングをする。かと思えば、タービュランスを浴びせる真似をする――。冷静さと過激さを見事に両立させてやがる」
ぎりりとなにかが軋んだ。おじいちゃんの歯ぎしりであった。彼はかなり悔しく思っているようだ。
「このレースで。理想的なパイロットを一人選べ、と問われたら。総合力でエルドレッドが選ばれるだろうぜ」
「爆発力で言えば、クローイだけれどね」
「だが、爆発力ってのは一長一短だ。勢いづいているときはいいが、一端悪い方へ傾くと転がり落ちていくようにダメになっちまう」
「エンジンの不安もあるしね」
「じ、自己治癒力があるし……」
「まだ言うか」
私はおじいちゃんを横目で睨んだ。一応は反省しているのだろう。彼は、私の視線が突き刺さると、干ばつ下の植物みたいにしょんぼりとしおれた。
「不安なのはオイルだけじゃないですよ。アーサーさん」
ベテランさんが私たちの間に割って入った。ご多分に漏れず、彼も渋っ面を作っていた。
「燃料も心配です。スタートしてからここまで、彼女はずっと全開で飛行しています」
「あー……たしかに」
懸念材料が増えたせいで、私の唇の端っこがヒクついてしまった。
「しかもクローイは一度最下位に落ちています。全機とバトルもしています。バトルをすれば燃料を余計に食いますから――」
「私たちが思っている以上に。クローイは燃料を消耗している、かも?」
「その通りだ。ターラちゃん」
ベテランさんが嫌々ながら頷いた。
「……燃料関係もまた、俺らの泣き所だよなあ」
顎髭を撫でながら、おじいちゃんがぼやいた。
「軽量化を実現するために、あの飛行機のタンクは小さく作ってある。まあ、他チームのエンジンに比べ、ウチのエンジンは非力故に燃費もいい。だから、普通なら気にもしねえんだが……」
おじいちゃんは、タイムが記されたバインダーを再び取り寄せた。タイムをしげしげと眺めたあと、おじいちゃんは不意に舌打ちをした。
「こうもファステストを連発しちゃあ。さすがに……なあ」
タンクの大きさ、最下位からの大逆転、そしてペース――。懸念要素がこんなにもある。いつ燃料切れが起きてもおかしくはなかった。
私たち三人の間に横たわる空気が、ずっしりと重くなる。
「……ポジティブに考えよう」
私は明るい声で切り出した。
「燃料切れは怖いけれど、同時にフューエルエフェクトの恩恵を受けられる」
燃料がタイムにもたらす影響はかなり大きい。どの機体もレース終盤になるとタイムが上がるのは、消費燃料の分だけ軽くなるからだ。
もし、今のクローイが燃料切れ寸前であるのならば、好タイムをたたき出しやすい状況にあるはずだ。これはポジティブな要素であった。
「逆にカートライト工房は、燃料切れの心配はないよね? だって彼らは中盤、ペースを抑えて飛んでいたんだから。重量の観点から言えば、私たちは間違いなく有利」
その長所を最大限に活かせば、オーバーテイクが可能になるのではないか。私は腕まくりをしながらそう主張した。
「……いずれにせよ」
おじいちゃんがおもむろに口を開いた。とても重苦しい口調だ。まこと残念なことに、私のポジティブシンキングは、おじいちゃんに伝染しなかったみたいだ。
「エルドレッドを抜き去るには。大きなギャンブルしなくちゃならねえ、ってことだな」
「ええ」
「怖えよなあ……。そういうギリギリな勝負をするのは」
「ええ……」
ベテランさんが相づちを打った。彼もまた、気分が上向きになっていないみたいだ。顔の角度が、露骨なほどにマイナス方向に傾いていた。
ポジティブな私が、ネガティブな二人に挟まれる。これがオセロだったら、私はぱたんとひっくり返されて、ネガティブな気分に転じるだろう。
だが、私はオセロの駒ではなかった。
「なに言っているの、おじいちゃん。ギャンブルだって?」
私は鼻で笑った。私は、私を真っ黒なネガティブに染めようとする空気に抗った。
「ギャンブル? そんなの元々じゃない。私たちはこのレースの勝敗に人生を賭けているんだよ? これをギャンブルと言わずなんと言うの?」
「そりゃ、そうだが……」
「なら。なんで及び腰になっているの? 今更じゃない?」
おじいちゃんは腕を組んで押し黙った。ベテランさんもまたむっつりとする。私の畳みかけに感じ入った――わけではなさそうだ。私に呆れて物も言えない、と解釈する方が近いだろう。
感銘したにせよ、失望したにせよ、もはや私はどちらでもよかった。私は沈黙を欲したのだ。そろそろ主催者側が、タイム等々を発表する頃合いだったからだ。お喋りを続けていれば、聞き逃してしまう恐れがある。
ガレージのスピーカーがビリビリと震えた。事務的な声が、各機のタイムと残り周回を私たちに教えてくれた。
アナウンスはこう告げる。レースは残り五周である、と。
レースは佳境に差し掛かった。




