唐突! トラブル発生!
ベテランさんの分析が現実になりつつあった。やはりエルドレッドは、クルージングに入っていたようだ。クローイがガンガン差を詰めてゆくと、彼もペースを上げていった。
エルドレッドとクローイのギャップは小さい。彼女は、カートライト工房の背中が見えているはずだ。
その距離は、間違いなくクローイの射程距離であった。エルドレッドがミスをすれば、クローイはその隙を見逃さず、華麗なオーバーテイクを披露してくれるだろう。
だが一方でそれは、クローイがミスをすれば、エルドレッドも小さくないリードを拵える、という意味でもある。
ワンミスが命取りになる展開。まさしく手に汗握る展開。二人の肩にのしかかる緊張感は、とてつもなく大きいはずだ。
彼女らの緊張感は、映像を介して私たちにも伝染していた。コンクリートの穴蔵の空気は、冷凍庫でカチコチに冷やされたかのように固まっている。あれだけ大騒ぎしていたクルーたちも、今や固唾を呑んでスクリーンを見つめていた。
「予想以上に前半セクターがキツいね」
私の独り言に、言葉を返す者は居なかった。緊張のあまりそれが聞こえなかった、のではないだろう。おじいちゃんとベテランさん、それと幾人かのクルーが、震顫めいた頷きを見せていたからだ。
カメラは、問題の前半セクターの攻防を映していた。二機が、ゆったりとしたコーナーを駆け抜けてゆく。互角の戦いではなかった。二人の距離がみるみる離れてゆく。
「エンジンパワーと最高速の差が如実に表れている」
「だが、そこまで悪くはない」
私の呟きに返す人が居た。おじいちゃんだ。
「第一コーナーの立ち上がりでは、そこまでの差はなかった。むしろ互角だった」
「あそこは中速コーナーだからかな? 加速力自体に大きな差があるわけではなさそうだね」
「しっかし、ラダーコーナーでここまでの差がでるたあなあ」
おじいちゃんが目を細めた。彼は苛立ちげに後頭部を二度、三度掻いた。
「でも、致命的な差じゃない。橋くぐりと中盤のストップアンドゴーでチャラになる」
「逆を言わば、橋とのクラッシュのリスクを冒さなきゃ、カートライト工房に勝てないってことだよなあ」
「多分ね」
おじいちゃんの頭を掻く手つきが、ますます速くなった。
「リスク込みでトントンってことは……連中のマシン評価を上方修正せねばだなあ。認めねえとな。やつらの飛行機は、俺たちより上ってことを」
「大きな差じゃないよ。クローイの腕でどうにか出来ている。いくらあの娘と言えど、クローイが持っているクラシカルな飛行機じゃ、太刀打ちできなかったはずだから」
「紙一重でも上は上だ」
おじいちゃんがぴしゃりと言い切った。
「パイロットの技量でどうにか出来ているってことは、飛行機を限界ギリギリで飛ばし続けている、ってことだ。メカニックとしては、いい顔できないな」
おじいちゃんも、ベテランさんと似たような言い草をする。当然か。メカニックという人種は、機械が壊れるのを本能的に嫌がるのだ。メカニック的な視点に立つと、今のクローイの飛行というのは、マシンを壊したがっているようにしか見えない。
もちろん私もメカニックである以上、おじいちゃんたちと同じ本能を有している。本能が、私に要らぬ不安を抱かせる。
「――大丈夫」
不安を振り払うために、私は、例によってクローイにすがった。
「限界を見極めるのも、パイロットの技量の一つ。あの娘は、壊れるギリギリで飛んでいる。そのはずだよ」
「だといいがなあ」
おじいちゃんの歯切れは悪かった。ベテランさんといい、おじいちゃんといい、どうしてクローイを信じ切れないのだろう。彼らの態度は、私の彼女への信頼は誤ったものなんだぞ、と言っているようだ。二人にその気はなくとも、少なくとも私はそう感じる。
腹の底から、イライラが湧き上がってくる。もちろん私は、この苛立ちが理不尽なものだと理解している。これは、ただの八つ当たりだ。
とは言え、ただいまはレース中なのだ。パイロットはもちろん、メカニックだって興奮し、理性が希薄化している。怒りを抑えるのは至難であった。
いっそのこと、この場で感情をぶちまけてやろうか。他ならぬ、私の精神衛生のために――。
ああ、なるほど。私はようやく腑に落ちた、レース開始直後、おじいちゃんたちが、乱闘しようとした理由を。あのとき彼らは、今の私と同じ心持ちだったのだ。彼らは、彼らの心の安寧のために乱闘しようとしたのだ。
不思議だけれども、その納得感は、私に落ち着きを与えてくれた。おかげで私は、怒鳴り散らさずにすんだ。
「……あ? おいおいおい」
「なんだ。あれ?」
クルーたちが、にわかにざわめいた。彼らの声音には、不穏な気配が含まれていた。
この手のざわめきは言うまでもなく、レースが原因であるはずだ。私は慌てながらスクリーンを見る。
「……うそ」
力ない音が、私の喉からこぼれ出た。私もまた、クルーたちと同じく不穏なテンションに陥った。
カメラは、飛行機の異常を捉えていた。エンジン、いや排気管あたりから、消火ホースさながらの勢いで煙が吹き出していた。問題の飛行機は推進式を採用していた。つまり煙を吹いているのは、クローイだ。
「まさかっ。エンジントラブル!?」
私の脳みそから、血液が一気に引いていったのがわかった。脳貧血を起こしたせいで、足元がおぼつかない。地震が起きたのでは、と思うくらいにグラグラとする。
後悔の高波が、私の心に押し寄せた。
エンジンの様子がおかしい。
エンジンを整備したのは誰だ?
エンジン担当は誰か?
私だ。
私が担当だ。
私が、エンジンを分解し、洗浄し、始動方法を見つけた。
エンジンにアクシデントがあったときは、誰のせいになるのか?
私だ。
他でもない。
私の責任だ。
呼吸が。
正常な呼吸が、できなくなる。
映像中のクローイは、まだ空を飛んでいた。スピードに陰りは見られない。機体後方から伸びているスモーク以外は、まったく正常であるように見えた。
(でも。それがいつまで続くかわからない)
ベテランさんは、クローイの現状を空飛ぶ爆弾のようだ、と称した。あのときの私は、それを鼻で笑ったけれど、今では笑い飛ばせなくなってしまった。
今や爆弾の導火線には、火が付いている。導火線は、じりじり、じりじり、と、嫌な音を立てながら短くなってゆく。火が炸薬に到達したとき、爆弾はどうなる? 爆発するだけだ。私たちの飛行機も、爆弾と同じ末路を辿ってしまったら――。
「っ」
私は居ても立っても居られなくなった。気がつけば私は、本能が赴くままにガレージを飛び出し、ピットウォールへと駆けていた。




