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緊張! まもなくレーススタート!

「レディス・エンド・ジェントルマン! スタート・ユア・エンジンズ!」


 スピーカーがビリビリと震えた。かなりの大声だった。ピットと滑走路を隔てるコンクリート壁に肘を預けている私の耳に届いたその声は、ガビガビに割れていた。


 力強い号令の直後、滑走路は静まりかえった。観客たちは、スタートラインに並ぶ飛行機たちを、静かに見守る。


 滑走路に動きがあった。クランクハンドルを担いだ各チームのクルーたちが、各々の飛行機に駆け寄りハンドルを接続したのだ。そのなかにおじいちゃんもいて、彼は機体の右側面に取り付いた。ハンドルと飛行機をつなげたおじいちゃんは、えいやと総身の力を振り絞り、ハンドルを回し始めた。


 最初、ハンドルはぎこちなく回った。油を注し忘れた歯車の動きを見るようであった。しかし、一回転、二回転、と、回転を重ねると、その運動に滑らかさと速度が加わってゆく。


 不思議な音が飛行場に響き始めた。喩えるならサイレンのような音だ。それはピストンを回転させるための機構、イナーシャの唸り声であった。


 回転数が低い内のイナーシャの声は、晩夏のセミのように途切れ途切れだった。しかし回転が速くなるにつれ、イナーシャが元気になってゆく。あれよあれよの内に、工場で良く聞く始業終業を告げるサイレンさながらの大音声になり、やがて――。


 お腹の底をずんと震わす低重音が、滑走路のあちらこちらに誕生した。オイルとガソリンの混合臭がする白煙もそこかしこから生じ、アスファルト上は、さながら雲に包まれたような装いとなる。それらは飛行機たちのエンジンが、鼓動し始めた証であった。


 クローイが乗る飛行機もまた、エンジン始動に成功したようだ。問題児だったV型十二気筒エンジンは、ヘビースモーカーもかくやな勢いで排気煙を吐き出していた。


「全機、トラブルなくエンジンに火が入りました! みなさま、大きな拍手を!」


 アナウンスに促され、スタンドの観客たちは、万雷の拍手を飛行機たちに送った。だが、パイロットに、そしてハンドルを担いだクルーに、それが届くことはないだろう。エンジンのノイズは、拍手の音をかき消すほどに大きい。


「いやいや。耳栓をしているとはいえよう。こいつあ、耳がバカになるな! 耳の効きが十は老けたかのように悪くなっちまった!」


 実際、聴力が一時的に低下しているのだろう。ピットに戻ってきたおじいちゃんの声量は、場違いなほどに大きかった。


「どうだった? 見た感じ一発でかかったみたいだけど?」

「おう! 一発だ! グズついた様子は一切ない! ターラ。お前がエンジンの面倒を見てくれたおかげだ!」

「アイドルはどう?」

「安定! 安定! メトロノームでリズムをとってるかのようだったぜ!」


 おじいちゃんはそう言ってガハハと笑った。上機嫌だ。メカニックもパイロットも、一発で始動するエンジンが大好きなのだ。回転が規則正しいとなればなおさらだ。


「ちなみに聞くけれど」

「なんだ!?」

「お隣の……カートライト工房のエンジンはどうだった?」

「ああ……」


 おじいちゃんは忌々しげに顔をしかめた。


「あいつらも一発だ。さすがは大金持ちだわなあ。軽快に回ってたぜ」


 私はクローイの隣で待機している、カートライト工房の翡翠色をした飛行機を見た。大きな牽引式の飛行機だった。私たちの飛行機と大きさを比べると、大人と子供ほどの差がある。機体があれだけ大きいとなると、エンジンも大排気量なはずだ。馬力がかなり高いに違いない。直線では無類の速さを発揮するだろう。


 色々なエンジン音がごちゃ混ぜになっているせいで、彼らのアイドル音は聞こえない。しかしエンジンカウルの振動を見る限りだと、回転は安定していそうだ。


 高馬力で整備は完璧。おまけにパイロットの腕も疑うところはない。鬼に金棒とはこのことで、私もまた、おじいちゃんみたいに苦い顔をしたくなった。


「でも、私たちだって負けてないよ」


 私たちの飛行機を顎でしゃくりながら、私は言った。真っ青に塗られたエンジンカウルは、とてもリズムカルに震えていた。


 カートライト工房の飛行機と比べると、より顕著になるけれど、お父さんが作った飛行機はかなりの小型であった。もしかしたら、出場チーム中で一番小さいかもしれない。


 必然、搭載しているエンジンも小さい。馬力勝負では明らかに不利だ。反面、どんな飛行機よりも軽く仕上がっているおかげで、加速性能は他チームに引けを取らないはずだ。


 さらに私たちの飛行機は、納入を拒絶されるほどに不安定だ。しかしこれは、短所でもあると同時に長所でもあった。不安定であるということは、それだけ姿勢を変えやすい、ということでもあるからだ。


 高い運動性に、きちんと整備されたエンジン。そして私たちは、クローイという素晴らしいパイロットに恵まれているのだ。だから私は、クローイが一位でチェッカーを受けてもおかしくない、と信じていた。


「でもなあ、ターラ」


 いつもの豪快さはどこへやら。おじいちゃんの口振りは煮え切らない。語勢から察するに、彼は暗い未来を想像しているに違いない。


 そのスッキリしない態度に、私はちょっぴりむかっ腹がたった。


「しっかりなさい」


 私は、おじいちゃんのお尻を軽く引っぱたいた。スナップを利かせたおかげで、エンジンの騒音に負けないくらいに乾いた音がした。


「あさっての私たちが、温かいベッドで目覚めるためには、このレースに勝たなくちゃいけないんだよ? 負けたときのことを考えるなんて。消極的すぎない?」

「そりゃそうだが……」

「それに、だよ? あの飛行機は誰が造ったの? 私のお父さんでしょ? おじいちゃんの息子でしょ?」


 私は群青の飛行機を指差した。


「それともなに? おじいちゃんは、世間と同じこと言うの? お父さんは、とんでもなく神経質なマシンを造る人だったって思ってるの? 危ない設計者だった、と考えてるの?」

「……それは違う」


 世間のお父さんの評価は高くない。マトモに飛べない飛行機を造る設計者、と見なされている。その悪評は、工房が借金苦に陥った原因の一つでもあった。


 その評判は、私たちの生活を抜き差しならぬものにしただけではなく、私たちの自尊心もひどく傷つけた。


 特におじいちゃんが受けた心の傷は、私が想像するよりもずっと深かったに違いない。おじいちゃんにとって、お父さんは自慢の息子だったのだ。息子は優れた技術者だ。この工房を大きくしてくれるに違いない――。彼は心の底からそう信じていたのだ。


 だからこそおじいちゃんは、常にこんな願望を抱いてきたに違いない。今に見ていろ。息子は早すぎた天才だったのだ。息子が造った飛行機は、遅れて評価される。そのはずなのだ――、と。


「お父さんを信じてあげなきゃ。おじいちゃんは、クローイの腕を信じられないかもだけれども。でも、お父さんの腕は信じられるでしょ?」

「……ああ。その通り。まったくその通りだよ。ターラ」


 おじいちゃんは、クランクハンドルをコンクリート壁に立てかけたのち、二度三度自らの頬を平手で張った。力を込めたのだろう。小気味いい音が、私の耳朶を打った。


「そうだな。ようやくやってきた機会だもんな! ワシの倅は、一流の設計者だったと証明できる、またとない機会だよな! ようし! ならば、ワシは今日一日馬鹿になろう! 世界一の親馬鹿になってやるわ!」

「そう。その粋だよ。おじいちゃん」

「しゃあ! いけえ! クローイ! スカした御曹司なんぞ打っ千切っちまえ!」

「お、おじいちゃん……今はもう少しだけトーンダウン……」


 元気になれと発破をかけた手前、少しは自重しろ、と要求するのは、ひどく身勝手な行いであろう。でも、その、私だって要らぬ諍いは避けたい。スタート位置がお隣さんということは、ピットもまたお隣さんなのだ。


 つまり――。ああ、ほら。おじいちゃんの刺々しい応援が、カートライト工房の皆様の耳に届いてしまった。彼らは私たちをじろりと睨んだ。


 しかし吹っ切れたおじいちゃんの神経は、図太かった。彼は、ライバルチームの冷たい視線なんてお構いなしに、尖りに尖った声援をクローイに送り続ける。その口汚さときたら、ボールパークに生息する熱狂的なファンに匹敵するほどだ。


 お隣さんからのわざとらしい舌打ちが、私の耳に届いた頃合いであった。スタンドがにわかに沸騰した。


 ジャケットと帽子を決め込んだ紳士が、管制塔の天辺に立っていた。そして彼は手に持っていた青旗を高々と掲げ上げた。


「いよいよ、だな」

「うん」


 ようやく落ち着きを取り戻したおじいちゃんの言に、私は頷いた。


 青旗を掲げるアクションが意味すること。それは即ち、あと数十秒もすればレースがスタートする、ということだ。


 スタンド間を渡るケーブルにぶら下がっている巨大メーターが動いた。スタートまであと十秒。コンクリート壁のへりを握る私の手のひらは、じっとりとした汗をかいていた。


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