露呈! パイロットとメカニックの思考性の違い!
エンジンをベンジンカイロで予熱するアイディアは、ぴたりと的中した。
実験を行ったのは、空気がいちばんひんやりとしている払暁であった。カイロで温められたエンジンは、多少ぐずついたものの、しっかりと動いてくれた。
余熱方法がわかってからは、より効率的な温め方を模索するのみであった。私たちが導き出した答えは、いささか原始的なものだった。カイロと毛布の組み合わせである。シンプルな方法だったけれど、効果はてきめんだった。
問題は解決した。私たちを遮る障壁はなにもない。だから私たちは今、ここ――レース当日のピットレーンに居た。
機具を動かす音、メカニックがあっちこっちを行き来する足音、セッティングを指示する声――。ピットはそれらの音の缶詰と化していた。
ピットが騒がしいのは珍しくはない。いつものことだ。普段なら気にも留めない環境音。けれども今日の私は、特別な感慨を持ってこの騒がしさを受け止めていた。
私の心模様が、いつもとは趣を異としている理由はなにか。その答えはピットレーンの外にあった。
いつもはがらんとしていて静かで、閑散としている飛行場。だが、今日の飛行場はちっとも静かではなかった。
スタンドは、たくさんの人々でぎゅうぎゅう詰めになっていた。店棚に並ぶリンゴのように肩を寄せ合う彼らは、一様にお腹の底から声を張り上げていた。
「いよいよ、だね」
私の右隣にやってきたクローイは、穏やかな口振りでそう言った。私に近寄ってきたその足取りは、とてもゆったりとしていて緊張感とは無縁であった。
「うん。いよいよ。私はとても緊張しているよ」
「いつもの心配性?」
「そう思っても構わないけれど。でも、正直に言うと――」
私は振り返ってガレージを見た。工員たちが飛行機を取り囲んで、かいがいしくお世話をしていた。
「今回の杞憂は。私の心配性によるものじゃないよ。みんな、私と同じ心配を抱いているはず」
焦点を工員たちの面持ちに移してみると、とある共通点があるのがわかった。みな、表情に生かたさを含んでいるのだ。それは、緊張が人体にもたらす作用に他ならなかった。
「心配することなんてないよ。あとはレースに出て勝つだけじゃない」
「あのね」
私はため息を伴いながら、ベージュの飛行服姿のクローイと向き合った。
「私たちは重大な問題を抱えているのを忘れてない?」
「問題? そんなのあった? 問題なんてちっともないよ」
クローイが私に倣ってガレージを見た。私がメカニックの顔色を窺ったのとは対照的に、クローイは飛行機を見つめていた。
飛行機はエンジンカウルが外され、代わりに何枚もの毛布がエンジンを覆い隠していた。それは、ベンジンカイロの熱を、エンジンに効率よく伝えるためのプリミティブな工夫であった。
「エンジンはきちんと動いた。余熱の仕方もわかった。私たちを妨げていた問題は、全部やっつけたじゃん」
「ううん。一つだけ残っている」
「ふうん。それってなに?」
「私たちはテスト飛行をやっていない。それがなによりの問題」
エンジン換装が完了したのは、昨日の夜であった。一夜漬けでテストを乗り切ろうとする怠け者の学生だって、ここまでギリギリな準備をしないであろう。
「テストはしたじゃん。ほら、夜中にハンガー前の車寄せでさ。エンジンに火を入れたじゃん。レッドゾーンまで回したじゃん。でも異常はなかった。気にすることは、なんにもない」
私はクローイの言い分にかぶりを振った。
「レースってやつは言うまでもなく、機体を極限までに追い込んでしまう。さらに上空って場所は、飛行機にかかる負荷が、地上とは比べものにならないくらいに高い。高ストレス下でマシンがどのような反応を見せるのか。それがわからないのは問題だよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
クローイは首を傾げながらそう言った。私は呆気に取られ、どう返したらいいのかがわからなくなってしまった。
「……つくづくあなたって、パイロットという生き物なのね」
「それってどういう意味なの?」
「パイロットはいつだってメカニックを驚かせる生き物なんだなあ、って意味よ」
彼女の傾げた首の角度が、ますます鋭くなった。クローイは、私の発言の意図をつかみ損ねているようだ。
パイロットとメカニックは近縁ではあるものの、まったく別種の生き物である、と言ってもいい。もちろん生物学的な話ではない。二種の生業には、考え方に明確な隔絶が存在する、という意味だ。
隔絶が露呈するのは、飛行中メカニカルトラブルに瀕したときだ。パイロットとメカニックともに、そのシチュエーションが大っ嫌いなのは共通している。異なるのは、そのトラブルを深刻に捉えるか否か、という点にあった。
意外かもしれないが、パイロットは飛行中のトラブルをそこまで悲観しない。トラブルのせいで飛行に支障をきたしても、自分の腕でもって解決すれば良い、と考えているためだ。パイロットは飛行テストを嫌う人が多いけど、それはこの考え方が根底にあるからだ。
対して私たちメカニックは真逆だ。飛行時の不調を深刻視する。そのときの私たちは、不治の病が見つかったときのように落ち込んでしまうのだ。
だからこそ私たちはテストを重視する。メカニックはテストをとにかく重ね、不調の種をあぶり出す。絶対に安全である、と、胸を張って言えるまでテストを重ね続けるのが、メカニックという生物なのだ。
クローイと私たちとの間で緊張度が異なるのは、この考え方の違いがあるからだ。
そうである以上、彼女にテストの重要性を説いても無意味だろう。言葉が通じない外国人相手に、政治だとか学問だとかのヘビィな議論をするようなものだ。私は話題を切り替えることにした。
「……まあ、いいや。あなたの調子はどうなの? お腹が痛いとか、そういうのはない?」
「ん。万全。強いて言うなら」
「言うなら?」
「ちょっと寝不足気味かもしれない」
「おいおい」
私は顔をしかめた。居眠り操縦のせいで地面に激突してしまいました、なんてのは冗談にもならない。
「仕方がないじゃない。あの飛行機に乗るのが楽しみで」
私の口調は、咎めの色彩を帯びていたのだろう。クローイは気分を害したようで、文句を託ちながら唇を突き出した。私は、その子供っぽい仕草に苦笑いを浮かべた。
「怖くはないの?」
「全然」
「はじめて乗る飛行機なのに? 推進式に乗るのだってはじめてだよね? 不安はないの?」
牽引式と推進式では、乗り味がまったく違うと聞いたことがある。私はパイロットではないから、違いが本当にあるのかどうかはわからない。
ただ、それは恐らく正しいだろう、とも思う。エンジンの搭載位置がまったく違うが故に、重量配分も大きく違うはずだ。操縦特性が同じであるとは思えなかった。
だからこそ私は、不安を覚えるのだ。ずっと牽引式に乗ってきたクローイが、ぶっつけ本番で推進式を乗りこなせるのだろうか。私は心配でならなかった。
私の心配は、要らぬお節介であったみたいだ。彼女は、突き出していた唇を引っ込めて山型に曲げた。どうやら、ますますへそを曲げてしまったようだ。
「ターラは私の技術を信頼してないの?」
「そういうわけではないよ。でも、やっぱり――」
クローイが、不意打ち気味で右の人差し指を私の唇に突きつけた。私は、反射的にお喋りをやめてしまった。
クローイは手袋をまだ着けていなかった。柳の葉のようにしなやかな彼女の指が、私の唇に接触する。私はなんだかドキドキした。
「なら心配することはないよ。私に任せてほしい。見事に乗りこなして、工房の借金を返済させてあげる」
イタズラっぽい笑みを浮かべながら、クローイはそう言った。その笑顔にはなんらかの魔力が込められていたみたい。どういうわけか、心がわずかに軽くなった。
そうだ。もはや私たちにできることはない。あとはすべてをクローイに任せ、レースを見守るしかないのだ。心配したところで、私の懸念が解消されるわけではない。ならば、いっそのこと吹っ切れた方がいいだろう。
「……そうだね。そのとおりだ」
かくして私は不安から解放された。私は、クローイにそれを教えるべくスマイルを拵えた。
クローイもまた、幼さが抜けきらない微笑みをふわりと浮かべた。
そのとき、会場に備え付けられたスピーカーから、滑舌の悪い声が聞こえてきた。声は短くこう告げた。
――スタート二〇分前。各チームはスタートラインに飛行機を並べて下さい、と。




