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騒音! 閉所でイグニッションを試みると、耳が馬鹿になるので気をつけよう!

 しばらくすると、バックヤードから耳障りな音が聞こえてきた。キャスターがガラガラと回る音だ。館長さんはどうやら、ワゴンを携えて展示スペースに戻ってくるらしい。


 私ははて、と思った。エンジン始動に必要なクランクハンドルは、大きな道具ではない。一人で持ち運べるはずだ。わざわざワゴンで運ぶ必要があるとは思えなかった。


「待たせたな」


 ガラガラが一際大きくなった頃合い、館長さんが鼻歌交じりに挨拶した。


 彼が携えていたのは、変わった装置であった。キャスター付きの台座の上には、原動機と一体になったコンプレッサーと、横向きに倒れた銀色のタンクがふんぞり返っている。タンクからは金属製の蛇腹管が二本伸びていて、管の先端はノズルとなっていた。


 私はこの装置の正体をつかめなかった。ただし、推測すらできなかったわけではない。コンプレッサー、タンク、そして金属管の先端にあるノズル。これらの組み合わせから、あの装置は、流体を噴出するポンプの類であるのはわかった。


「館長さん。それはなんですか? ああ、いや。クランクハンドルじゃなくて。キャスターが付いている方の機械です」

「ポンプだよ。液体を循環させるための。レースマシンを始動させるにはな。クランクハンドルだけじゃダメなんだよ」

「どういうことですか」

「まあ、見てな」


 館長さんはポンプをガラガラと押した。彼は、カモノハシマシンの前で立ち止まり、原動機から伸びているスターターチェーンを勢い良く引っ張った。


 コンプレッサーもまた、良く手入れされているらしい。原動機は一発で始動し、オイル混じりのガスと、乾いたエキゾーストノートを吐き出した。この施設の排煙設備は優秀らしく、排気ガスくささはあるけれども、ちっとも煙たくはなかった。


 展示室が一気に騒がしくなった。もし観覧者が居たのならば、眉をひそめながら耳を塞ぐだろう。この場に居る三人はへっちゃらだった。私たちは、この手の騒音が当たり前の環境で働いているからだ。


 このポンプをどのように活用すれば、レーシングマシンが動くのだろうか。想像できないだけに、私の好奇心はみるみる膨張してゆく。気がつけば私は、ゆらゆらとした足取りで青いカモノハシまで歩んでいた。


 リクエスト主のクローイも、どうやってエンジンに火が入るかが知りたいようだ。彼女は背伸びをしながら、館長さんの様子を窺っていた。


 熱視線を送られている館長さんは、ポンプを操作するわけでもなく、タンクをじっと見つめていた。その視線を追いかけてみると、タンクの上面にはキラリと光る、コイン大のガラス窓があった。針と目盛りの組み合わせ。メーターだ。


「もう少し待ってな。温度が上がるまでな。クランクハンドルを回すのはそれからだ」

「温度?」


 あのメーターは温度計だったようだ。私はますます解らなくなった。ポンプ、温度、クランクハンドル――。これらがどう組み合わさって、エンジン始動に至るのだろうか。


「もういいか。待たせたな。ええっと……?」

「ターラです」

「ターラ。悪いが手伝ってくれるか?」

「ええ。いいですよ」

「ノーズの先端にな。ビス留めしてあるカバーがあるんだが、そいつを開けてもらえないか? ドライバーは俺の腰にあるやつを使ってくれ」


 作業指示をきちんと口にするあたり、館長さんは本当に上機嫌なようだ。


「了解です。では」


 私は言われた通り、ドライバーを使ってカバーを外した。カバーには蝶番が付いておらず、アルミ板がそっくりそのまま外れた。カバーの下には、三つの穴がお行儀良く並んでいた。


 三つの穴は、コインよりも二回りほど大きかった。一つの穴の正体はすぐにわかった。クランクハンドルを差し込む穴だ。この穴の向こう側には、エンジンが横たわっているはず。


 残る二つの正体はよくわからない。館長さんが、カバーを外してくれと依頼した点を考えると、いずれもポンプのノズルを差し込む穴のような気がした。


「ありがとうよ。それじゃ、点火作業開始だ」


 館長さんは礼を言うや否や、二本のノズルをそれぞれの穴に差し込んだ。やはりあの穴は、ポンプと接続するものであったらしい。


 耳を澄ませば、ノズルの差し込み口から液体を注ぎ込む音が聞こえた。燃料ではないだろう。音に粘性を感じられないから、オイルでもない。と、なると、可能性があるのは――


「これ。お湯ですか?」

「ご名答。今、循環させている」

「どうしてお湯を? もしかしてこの車、蒸気機関ですか?」

「いんや。内燃機関だぜ」


 しばらくすると、館長さんはノズルをそっと抜いた。


「クローイ。コックピットに潜り込んでくれ。いよいよエンジン始動だ」

「ん。了解」


 クローイが運転席に潜り込むと、館長さんはクランクハンドルを差し込んだ。


「クローイ、いいか?」

「いつでもどうぞ」


 返事を受けた館長さんは、全身を使ってハンドルを回しはじめた。風で唸る建物のような低い音が、マシンから聞こえはじめた。ハンドルの回転が早くなるにつれ、唸り声の音階が高くなり、そして――。


「いいぞ!」


 ハンドルは相当に重たいのだろう。肩で息をし始めた館長さんが、コックピットに合図を送った。直後、たくましいエキゾーストノートが展示室に響き渡った。


 展示スペースは、広いとは言え四方をコンクリートで固められた空間だ。必然、物音は必要以上に増幅される。その音は、エンジン音に慣れている私でも、耳を押さえてしまうくらいに騒々しかった。


「どうだ! いい音だろう!」


 エンジンの回転が落ち着き、耳を塞ぐ必要がなくなった頃合い、館長さんがとてもご機嫌な様子でそう言った。


 エンジンが大人しくなったとはいえ、奏でる騒音はなかなかなものだ。お喋りするためには、怒鳴り声を上げなければならなかった。


「ええ! とても素晴らしい音です! いますぐにでもレースに出られそうです!」


 それは素直な感想だった。カモノハシのエンジンはまったく快調だった。エンジンの振動はとても規則的で、心地よさすら覚える。


「そうだろう、そうだろう! この俺が面倒みてるんだ! そうでなきゃ困る!」


 館長さんが豪快に笑った。既視感のある笑い方だ。おじいちゃんのそれによく似ていた。


「レースカーのエンジン始動ってのは、こんなにも手間がかかるなんて! 私! 知りませんでした! お湯を循環させたのは、なんのためですか!?」

「余熱だ余熱! あれでな! エンジンとオイルを温めておくんだ! こいつはとても寒がりでな! 寒いとやる気をなくすんだよ!」

「アイドリングが安定しなくなるとか、そんな感じですか!?」

「それどころじゃない! ウンともスンとも言わなくなるんだ! どんなにクランクハンドルを回しても無意味になる!」


 私はほうと息を吐いた。感嘆の息だ。たしかに冷間始動性は、レースマシンに必要ない。必要がないのならば、いっそ削ってしまっても問題はない。この思い切りの良さは、見事と言うしかなかった。


「何事もよ! はやくすればいいってもんじゃないんだ! 完璧な仕事をするためにはよ!」

「え?」

「時間をかけることも必要だってことだよ! 納期を最大限利用するんだ! 納期一週間前に仕事を片付けようと、一時間前に片付けようと結果は変わらん! なら、のんびりやっても問題はない!」


 完璧な仕事をするためには、時間をたっぷり使う必要がある――。館長さんの言葉が、私の心に深く突き刺さった。


「あの! 館長さん!」

「なんだ!」

「私が今やっている仕事を! 知っているのですか!」

「うんや! 知らない!」


 館長さんはかぶりを振った。大声に釣られたのだろう。その素振りは、いささかオーバーであった。撫でつけたロスマンズグレイの髪の毛が、ふるふると震えていた。


「だが! 俺もエンジニアだ! アンタの顔を見れば! アンタが醸す雰囲気を見れば! アンタの悩みなんてすぐにわかっちまうよ!」


 声を張り上げるのに疲れたのか。館長さんはクローイに向かって両手を振った。エンジン停止の合図だ。


 クローイは、パイロットの反射能力を遺憾なく発揮した。館長さんのジェスチャーを見た彼女は、ほとんどノータイムでエンジンを止めた。


 私の耳孔内には、なんとも言えない響きが居座っていた。やかましい音を、さんざん聞き続けたせいだろう。


「仕事が進まないんだろ? だが、納期は近いんだろ? 寝る間も惜しんで仕事をしているのに、ちっとも問題が解決しないんだろ?」


 あまりに正確な推測に、私は圧倒されてしまった。できることといったら、こくこくと首肯するのみだ。


「そういうときこそ、のんびりするもんだ。俺たちが造るマシンだって、ゆったりと起こしてやるときがあるんだからな」

「ゆっくりしても……いいのでしょうか?」

「じゃあ、焦っている今、問題が解決する兆しはあるのか?」

「いえ……」

「なら。俺が言ったとおりにやってみな。なにごともトライアンドエラーだ」


 館長さんはそう言って、マシンのボンネットを開けた。彼は腰に手を伸ばす。なにかを掴む動作をしたけれど、その手は空を切った。彼はああ、そうだった、と呟いたのちに。


「もしかしたら光明が見えるかもよ?」


 そう言いながら館長さんは、手を私へと伸ばした。

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