賞賛! 視野が広いっていいことだね!
このスピードウェイは、いわゆる複合商業施設ってやつなのだろう。スタンドの内部には、博物館が開かれていた。このコースで活躍した名車だとか、クラッシュで大破したマシンだとかを展示しているらしい。
ピットから飛び出してきた男の人は、スタンド内博物館の館長であった。
彼は休館日を活かして、展示車両のメンテナンスをしていたらしい。誰も居ないスピードウェイはとても静かだ。作業するのに最適な環境と言えた。
私たちは、着陸騒動で、そんな素敵な環境を破壊したのだ。館長さんが、カンカンに怒っても無理もない話だった。
驚くべきことに、クローイと館長さんの間には交友関係があった。だからだろう。彼女の館長さんへの態度は、一貫して図々しかった。立ち話は疲れて仕方がないから、と、博物館への入館を要求するくらいだった。
館長さんも館長さんで、クローイの強引さを知っているのだろう。彼は渋々ながらも要求を呑んだ。かくして私たちは、無人の博物館に足を踏み入れたのである。
博物館は素朴な造りをしていた。床、壁、天井。そのすべてが、打ちっぱなしのコンクリートで出来ていた。学校によくある階段下の倉庫、と、いった体である。スタイリッシュと言えば聞こえはいいけれど、空きスペースをついでで埋めている感が否めなかった。
「そんなに怒らなくたっていいじゃん。着陸失敗ならともかくさ、私はナイスランディングを決めたわけだし」
クローイが口を尖らせて抗議した。彼女は親しい相手には大胆になるらしい。クローイは恐れ多いことに、展示車両のボンネットに腰を下ろしていた。しかも、片膝を胸元に抱えるおまけつきだ。自宅のリビングで寛いでいるかのような風体である。
館長さんは、無断着陸騒動でただでさえ不機嫌なのだ。展示車両を尻に敷く狼藉を働けば、イライラは当然増悪する。マシンをメンテナンスする彼は、クローイを一瞥したのちに舌を打った。
「なにがナイスランディングだ、馬鹿野郎。スピードウェイは車を走らせるところであって、飛行機を受け入れる場所じゃない。その無茶苦茶のせいで身を滅ぼすぜ」
「大丈夫。私、操縦技術に自信があるから」
「問題なのは周囲の目だ。無理をやってるとな。周りから敬遠されて、ロクな仕事が来なくなるぜ? そいつは飛行機乗りにとって死活問題だろ?」
「大丈夫、大丈夫。腕が立つ分には、仕事が来るから」
「だからさあ……ああ、もう、いいや。お前がもう少し成長したら、俺の言うことがわかるから。それはそうとお前、それは椅子じゃない。ケツをどけろ」
「私、軽いし。こんなもんじゃ壊れないでしょ?」
「自分の飛行機の……そうだなあ。フラップに腰掛けている奴をみたら、どう思う?」
身近な例に喩えられると、自らのまずさに気がついたか。クローイは、押し黙ったままボンネットから降りた。
館長さんの手が、不意に私に突き出された。工具を寄越せ、という要求だ。年配のエンジニアは、無言でなにかを要求する傾向にある。この手の人に、なにが欲しいのですか、と聞いてはならない。聞いたら最後、怒鳴られるからだ。いわゆる職人気質ってやつだ。
私は、作業をつぶさに観察していたこともあって、館長さんが欲する工具をわかっていた。執刀医にメスを手渡す看護師のような手つきで、私は館長さんにモンキーレンチを手渡した。
モンキーレンチを受け取った館長さんは、文句も礼も言わず作業に戻った。正解だったようだ。私は、ほんのちょっぴり誇らしい気持ちになった。
「あんた。たしか飛行機工だっけ?」
エンジンルームでかちゃかちゃと音を立てながら、館長さんが私に声をかけた。
「ええ。そうです」
「歳は?」
「十六です」
「ふうん。ってなると、家が工房だな? その歳だと、独立できるほどの経験は積めてないだろうし」
「ご名答。ですから正確に言えば、飛行機工見習い、ってところでしょうか」
「いいメカニックになれるぜ。あんた」
館長さんはそう言って、再び手を突き出した。さきほどのモンキーレンチが握られていた。観察する限り、メンテナンスはひとくさりついたはずだ。と、なると、館長さんが欲しているものは――。
「お世辞ありがとうございます」
私はレンチを受け取り、次いでウェスを手渡した。職人気質の館長さんは、またも何も言わず、渡された布きれで手の油汚れを拭っていた。館長さんの手はタコやマメで節くれ立っていた。ベテランメカニックの手だった。
私の手はどうだろう。手をじっと見る。オイルでうっすらと黒ずんでいる。手荒れもしている。けれども、タコはない。マメもない。メカニックとしての経験が足りていない証だ。私は急に恥ずかしくなった。
「世辞じゃないさ」
館長さんが手を拭き終わるのを見届けた私は、彼に向けて手を差し出した。時を同じくして館長さんは、ウェスを私に突き出した。
「ほら。あんたの目は広い。常に様子を窺っている。だから、俺の要求にあっさりと応えられる。いいメカニックってのは、大体視野が広いもんだ。これは立派な才能だぜ。誇りな」
「そういうものなのでしょうかね」
「ああ。そういうもんだ。メカニックの先輩が言うんだぜ? もっと自分に自信を持つんだな」
館長さんは唇の片端をつり上げた。控えめだけれども、優しさが十分に伝わる素敵なスマイルだった。
私はますます恥ずかしくなった。館長さんを直視できなくなって、たまらず視線を振った。右を見ても、左を見ても、どこを見てもレースマシンが目に入った。
「展示車両全部のメンテナンスをしているんですか?」
「まあな。どれもこれも動態保存だ。それがこの博物館のウリだからな」
「ウリ?」
「ああ、そうだ」
館長さんが誇らしげに微笑んだ。今度の笑みは、顔中に皺を刻む代物であった。
「博物館に展示しているやつってのは、大体が展示台に固定されているだろう? 俺は、そんな手法がつまらないと思っていてな。その証拠にほら、思い出してみろ。博物館でよく見る、親に連れられたガキの姿を」
言われたとおり、私はその光景を想像した。想像上の子供は、退屈そうな顔をして親に手を引かれていた。もし動物園だったのならば、手を引く側と引かれる側が逆転するはずだ――。この考えに至ったとき、私は、そうか、と、腑に落ちる思いをした。
「だから動態保存しているのですか? 展示物が生きている方が面白い、と感じる人が多いから」
「ああ。そうだ。俺も博物館って退屈だ、と思う人間だからな。動きのある博物館があってもいいじゃないか、と思ったからここを開いたわけだ」
「なるほど。面白いですね」
「だろう?」
館長さんは誇らしげに胸を張った。
「動態保存ってことはさ」
クローイの声が、ずいぶんと遠くから聞こえた。声の方を見遣ると、彼女は作業の観察に飽きていたらしい。ぶらぶらとした足取りで、展示車両を見て回っていた。
「エンジン音が聞きたい、ってお願いすれば、かけてくれるの?」
「ああ、そうだ。そのリクエストは、子連れのお客に多いな。子供は大体喜んでくれる。気兼ねなくリクエストしてほしいところだな」
「ふうん」
クローイが足を止めた。彼女の眼前には、青いマシンが鎮座していた。
近未来的な印象を抱かせるマシンだった。特にノーズが特徴的だ。その形状は、カモノハシのくちばしみたいに扁平で、それでいながらシャープな曲線を描いていた。
館長さんがメンテナンスをしていたマシンよりも、クローイが注目しているマシンの方が空力的に優秀だろうな、と私は思った。水中を泳ぐ生物のフォルムは、空力的に洗練されていることが多いからだ。
「じゃあさ」
クローイは、ゆったりとした所作で、私たちの方へと振り向いた。悪戯っ子のような笑顔を浮かべていた。
「今、エンジンかけて、って言ったら、やってくれるの?」
「もちろんだ。その車でいいんだな?」
「うん。お願い」
私が、博物館のコンセプトを褒めちぎったからだろうか。すっかり気分を良くした館長さんは、彼女の要望を快諾した。
「よし。わかった。じゃあ、道具を持ってくるからちょっと待ってろ」
クランクロッドを取りに行ったのだろう。館長さんは軽やかな足取りで、バックヤードへと消えていった。




