遺憾! エンジン、なおも沈黙す!
たった一つの例外を除いて、進捗はまったく順調であった。よほどのトラブルがなければ、機体そのものの改修はレースまでに間に合うだろう。
だが、飛行機はまだ飛べる状況にない。その原因は明らかだ。私担当のエンジンが、息を吹き返してくれないからである。
私は、エンジンの再解体をすでにこなしていた。一度解体したこともあり、リビルドまでに要した時間は、一回目よりもずっと短かった。やはりエンジンに異常は見つからなかった。
となると、クローイが指摘したとおり、動かし方が特殊であったのかもしれない。しかし、おじいちゃんがお父さんの遺品を漁ったところ、ヒントとなる資料は発掘されなかった。得られたモノといえば、お父さんの生前の趣味だったのだろう。大量のベンジンカイロが漁獲されたくらいであった。
プロジェクトは完璧に暗礁に乗り上げてしまった。独特なエンジン始動だとしても、そのやり方がわからない。手詰まりだ。
プロジェクトが進まなくなった原因は、私が担当しているエンジンにあるのだ。私のせいで、プロジェクトが停滞している。まこと残念なことに、私の神経は図太くなかった。眠れない日々が続いている。
私がどれだけ睡眠時間を削ろうとも、エンジンが動かない理由は見つからない。見つからないから、私はますます焦って、さらに睡眠時間を削る。原因は見つからない。だから私は睡眠時間をさらに削って――、と。私の生活環境は見事な悪循環に陥っていた。
体力がありあまっている花の十代とは言え、連日の徹夜は応えた。気がつけば私は、大ハンガーの製図板の上でぐっすりと眠っていた。
製図板で寝ていたのに気がつくと、私は一気に目が覚めた。設計図が、よだれで滲んでしまっては大変だ。私は、バネ仕掛けの人形よろしくに飛び起きたあと、設計図をしげしげと観察した。幸い、唾液の染みはどこにも見られなかった。まずは一安心、と、私は安堵のため息を吐く。
大ハンガーには誰も居なかった。壁の上部にぐるりと渡らせた窓からは、金色の陽光が差し込んでいる。見事な朝日であった。
「……いけない。寝てしまうなんて。今は一秒でも時間が惜しいのに」
着座の姿勢で眠っていたからだろう。腰やら首やらが痛むことに、私はようやく気がついた。試しに首をぐるりと回してみると、関節がバキボキと心地よい音を奏でた。
「ブラウニーは……やってきていないようだね」
私は再びため息を吐いた。今度のは落胆のそれである。私が寝ている間にブラウニーが現れて、設計図になんらかのヒントを記してくれたかも、と期待したのだ。
だが、妖精はどうにも絶滅してしまったらしい。ヒントはどこにも記されていなかった。
私もずいぶんと追い込まれたものだ。鼻息が自然と漏れた。嘲笑である。その対象は言わずもがな、妖精の手助けを期待した、弱気な私であった。
こんな心理状態では、良い仕事はできないだろう。ひと息つこう。私は立ち上がり、ハンガーの中心部へと歩みを進めた。
ハンガーの中心には、お父さんが遺した飛行機のボディと、大問題児であるエンジンがふんぞり返っていた。
飛行機はすぐさま飛び立てるように思えた。つい最近までむき出しになっていたフレームは、真っ青なカウルによって隠されていた。お父さんの遺作は、きちんと飛行機の形になっている。
ただし、画竜点睛を欠いている感も否めない。コックピットのすぐ後方のカウルが外され、ぽっかりとした空洞が朝日に照らされていた。今更言及する必要はないだろうが、そここそがエンジンルームであった。
空っぽのエンジンルームを見るたびに、私の心が痛む。
本来ならば、テスト飛行をしなければならない時期なのだ。それなのに私たちは、お父さんの遺作を空に帰せていない。飛行機は、重力によって地面に縫い付けられたままだ。
誰のせいだ?
あの青い飛行機は、誰のせいでこんな不自由を味わっている?
あれは、自由気ままに空を飛べるはずなのに、どうして地上でしょんぼりしている?
誰のせいだ?
誰のせいで、からっぽのエンジンルームを晒している?
私だ。
すべて私のせいだ。
私の技術が、努力が、執念が足りていないからだ。
それらすべてが足りていないから、お父さんの飛行機は離陸できないのだ。
あの飛行機の自由を奪い続けているのは、私が頑張れていないからだ。
悔しかった。
私は下唇をきゅうと噛む。手のひらをぎりりと絞り込む。双方ともそれなりに痛んだ。
悔恨と痛み。二つの苦しみによって、私の頭はようやく目覚めた。これならば私は、きちんと仕事できるだろう。
私は踵を返す。製図板へと向き直す。私が椅子に身体を預けようとした頃合い、影が製図板にかかった。人型の影だ。ただし、私の影ではない。では、誰の?
私は顔を上げた。まばゆい朝日が網膜を焼いた。鋭い太陽光線に負けないくらいに艶やかな黒髪が、視界に入った。
「クローイ?」
影の主はクローイだった。彼女はまだ眠たいのだろうか。その漆器然とした大きな瞳は、不機嫌そうな光をちらちらと返していた。
「もう起きたの? はやいね。おはよう」
クローイは私の挨拶を無視した。彼女は面詰の視線を、私に寄越し続けていた。
クローイがつむじを曲げている理由はなにか? いや、そんなもの考える必要もあるまい。それは私が不甲斐ないからだ。それ以外にない。
私の至らなさは、私自身が知っている。言い訳なんて出来っこない。出来ることといったら、肩をすぼめてしょんぼりとするだけ。
「ターラは、さ」
俯き加減な私を見かねたクローイが、ため息を伴いながら切り出した。
「寝たの?」
「え?」
クローイが口にしたのは、私が想定していないことだった。私は驚いて、しどろもどろするしかなかった。
「昨夜の話。寝た? ちゃんと」
「えっと……実はさっきまで寝てた」
「どこで? ターラの部屋じゃないよね?」
「……ここで」
「の、どこで?」
「その……ここ。製図板の上。この椅子の上」
私がそう言うと、クローイはわざとらしいため息を吐いた。肩もがっくりと落とす。彼女のため息にも、ボディランゲージにも、呆れがにじみ出ていた。
なにも露骨に呆れなくてもいいじゃないか。私はちょっぴりムっとした。
「行くよ」
主語がない台詞を放ったクローイは、私の手をむんずと掴んで、そのまま引っ張り上げた。寝不足のせいだろうか。私はその力に抗えなかった。バタバタと騒がしい足音をたてながら、私は立ち上がる。
「えっと? クローイ? どうしたの?」
「行くよ」
クローイは同じ台詞を紡ぎながら、私をゲートへと引っ張った。私は彼女に引きずられた。今の私の姿は、愛犬にぐいぐいと引っ張られて散歩する、気弱な飼い主そのものだろう。
「行くって……どこに?」
「気晴らし」
私は目的地を聞いたのであって、目的そのものを聞いたわけではないのだけれども――。
ガンガンと突き進むクローイの勢いに負けて、私はそんな困惑を口にするのを忘れてしまった。
大ハンガーの外は、小鳥が可愛らしくさえずる、とてもすがすがしい朝が広がっていた。




