漆黒! ブラック企業と、クソ納期!
ターナー工房の台所事情を知っている人が見たら、きっとこう言うだろう。ああ、ターナーさんたちは借金苦のあまり、とうとうおかしくなってしまったのか、と。
もし私が外野であったのならば、きっと同じ感想を抱いていたと思う。最近の私たちがやっていることは、もはやヤケクソと呼んで差し支えなかった。
私たちは、とにかくお金使いが荒くなった。腕がいいフリーの工員たちを片っ端から雇用した。そればかりではなく、プラプラと暇そうにしているフリー工員も、まるで人狩りの勢いでターナー工房に迎え入れた。
当然、人件費は突沸した。クローイがもたらした儲けは揮発し、返済分としてキープしていたお金すらも溶け始めていた。
借金苦にある私たちは、とにかく節約して返済分を確保しなければならない。にも拘わらず、この大判振る舞いっぷりである。気が狂ったのでは、と他人に疑われても仕方がない。
狂気染みた雇用の目的は、飛行機造りであった。より正確に言えば、飛行機の修復だ。ただ今回直すのは、クローイの飛行機ではない。直す対象は、旧ハンガーで眠っていたお父さんの遺作であった。
修復そのものは難しくはなかった。二ヶ月もあれば直るだろう。
しかし私たちに許された期間は、たった一ヶ月であった。この時間のなさが、私たちを修羅場に追い込んでいた。
二ヶ月でやるべき仕事を、一ヶ月でやるのだ。当然、法定労働時間を守っていたのならば、とてもではないが間に合わない。
最近の私たちの労働環境は劣悪であった。ここ一週間の平均拘束時間は、十一時間を越えている。過労のあまり、発熱や倦怠感を覚える工員が続出するくらいだった。
今日も体調不良で欠勤する人が居るらしい。現場監督でもあるベテランさんが、顔を真っ青にしながらおじいちゃんに欠員報告をしにきた。
「アーサーさん。ちょっとヤバいです。今日の欠勤者は五人も居ます。作業ノルマをこなせないかもしれません」
「悪いが未達は許されねえんだ。悪循環なのは百も承知だが、こなせるまで残業させてくれ」
おじいちゃんは、苦虫を噛みつぶしたかのような顔を拵えた。人のいいおじいちゃんは、作業員を残業させるのが何よりも嫌なのだ。
だがただいまは、おじいちゃんの良心を屈服させるだけの状況なのだ。レース開催日までに飛行機を直せなければ、ターナー工房はお取り潰しなのだ。私たちは生き残りのために心を鬼にせざるをえなかった。
無論、ベテランさんもこの危機的状況を理解していた。彼は渋々と頷いた。
「まあ、そうするしかないですけれども……しかし、となると……」
ベテランさんは舌打ちをした。
「ああ。今日の拘束時間は十二時間を越えるな」
「悪いな。残業代はイロ付けて出すからさ」
「工員たちに伝えておきますよ。しかし、大丈夫なのです?」
「なにが?」
「お金に余裕があるのですか?」
「この仕事をこなせるだけの金はあるさ。それ以降は知らんがな」
「クローイの報酬を使い切るんですか?」
それはやりすぎではないだろうか。ベテランさんはそう言いたいらしい。彼は充血しきった眼球を目一杯に広げていた。
対するおじいちゃんは豪快に笑い飛ばした。しかし、おじいちゃんも疲れがたまっているのだろう。息が続かず、笑い声の最後の方は咳まじりになっていた。
「おうよ。綺麗さっぱり使い切るぜ。レース開催時にはすっからかんにしてやるぜ」
「レースが終わったら、どうやって生活するのですか」
「勝ちゃあいいのよ、勝ちゃあ。優勝賞金の額は借金を一括返済しても余るからな。逆に勝てなきゃ借金返済できねえ。我が家はめでたく差し押さえだ」
勝たなければ、私とおじいちゃんに明日はない。私たちは、すべてをお父さんの飛行機に投資しなければならないのだ。
ベテランさんはおじいちゃんの覚悟を悟ったらしい。彼は以降、口を挟まなかった。
「ターラ」
おじいちゃんが私を呼ぶ。私は彼の下へと赴く。私もまた、疲労困憊であった。足取りが自然と千鳥足となる。
「おい。大丈夫か?」
おじいちゃんは、危なっかしい私の足取りを見て、太い眉尻を下げた。
「大丈夫だよ。睡眠不足なだけ」
私は明るい笑みを努めて作った。が、表情筋でさえもヘロヘロになっているようだ。私の唇は綺麗な三日月型にならず、口角がピクピクと痙攣しただけであった。
「そうか。すまねえな。もっとしっかり寝ろ、と言ってやれねえ」
「仕方がないよ。今、頑張るしかないんだから。それはそうとおじいちゃん。私を呼んだ理由はなに?」
「おう。エンジンはどうだ?」
ここ最近の私は、エンジンのご機嫌取りに必死であった。長らくほったらかしにしていたエンジンは、すっかり拗ねてしまったのだ。
旧ハンガーから飛行機を引っ張り出した直後にイグニッションを試みたけれど、エンジンはウンともスンとも言ってくれなかった。プラグを変えてもダメ。入念にフラッシングをしてもダメ。おかげで私たちは、エンジンを分解洗浄するハメになったのだ。
「組み立ては予定どおり終わりそうだよ。昼下がりには起動実験できると思う」
「そうか。そりゃなにより。で、動かなかった原因はわかったか?」
私は両手を軽く挙げた。お手上げ、のジェスチャーだった。
「パーツの隅から隅までよく観察したけれどね。問題を生じそうなパーツは、一つも見当たらなかった」
「そいつは頭が痛いな」
実際に頭痛がしたのだろう。おじいちゃんは頭を右手で支えながら、苦悶の皺を顔に刻みこんだ。
エンジンが動かなかった理由を突き止められなかった事実は、大きな問題だ。これから行われる実験でも、エンジンが動かないかもしれない。ただ動かなかっただけならばいい。最悪なのは、動いたのちに止まるケースだ。飛行中のエンジン停止は、大事故を誘発しかねない。私たちは、原因を絶対に突き止めなければならなかった。
そう。そのはずなのだ。どんなに長い時間がかかっても、原因調査すべきなのだ。しかし――
「どうする? おじいちゃん? 実験を延期する? 今日一日をトラブルシューティングに費やす?」
おじいちゃんは腕を組みながら呻いた。しばらくの間、おじいちゃんはうんうんと唸り続けた。
「……本音を言うとな」
おじいちゃんが、しずしずとした声を絞り出した。
「どんなに時間をかけても原因を調べたいんだ。理由は、わかるな?」
私は頷いた。
「けどよ。時間がねえんだ」
おじいちゃんは、背後の鉄骨柱にかかっている黒板を二度、三度叩いた。
ノックを受けてゆらゆらと揺れた黒板には、工程予定がびっしりと書き込まれていた。黒板の最下部にはレース当日と記されている。すでにスケジュールは半分以上を消化していた。
「悔しいし、おっかねえけれど。このままスケジュールを消化するぞ。エンジン稼働実験を敢行する。いいな?」
「……うん」
本音を言えば私も実験を延期したかった。トラブルの原因を見つけてから、実験に移りたかった。これはエンジニアとしての性だった。
しかし理性は性を否定する。トラブル潰しに躍起になってしまえば、私たちはレースに参加できないかもしれないのだ。
レースに参加しなければ、私たちに未来はない。この場合において求められるのは、とにかくスピードだ。私たちは、一秒でもはやく飛行機を飛べるようにしなければならない。
だから私たちには妥協が求められる。エンジンさえ動けばいい。私たちが生き残るためには、プライドを捨てなければならなかった。
(でも、もし。実験で動かなかったらどうしよう)
その場合は、スケジュールに大きな遅れが生じてしまう。労働環境がさらに悪化するだろう。いち労働者としては、そして経営者の孫としては避けたい事態だった。
でも、と私は思う。エンジンが動かなかったら、原因探しをしなければならない。逆を言えば、思う存分トラブルシューティングができるのだ。エンジニアとしては、エンジンが動かないでいてほしい。
エンジンよ、動いてくれ、と願うべきか。それともトラブルの原因がわかるまでは動きませんように、と祈るべきか。
どちらの心模様で実験すべきか、私にはわからなかった。




