落胆! オンボロ飛行機、激遅タイムをたたき出す!
例の危険な梯子を無事に降りきったというのに、私の気持ちは暗澹としていた。ガレージに戻る足取りも重苦しい。まるでバーベルを身体にくくりつけられたかのようだ。
私の足取りが重たくなった理由は、手中のストップウォッチにあった。そこに刻まれたタイムは、たしかな質量を持つほどに深刻であった。
私がガレージにたどり着いたのと、クローイがタッチダウンを決めたのは同時だった。エプロン脇で待機していた作業員達は、飛行機が着陸したのを確認すると、そろそろ仕事か、とばかりに動き出した。
「おお。ターラ、お帰り。タイムを測ったか?」
「……うん」
「どうだった?」
私は管制官にやったのと同様に、ストップウォッチをおじいちゃんの鼻先に突きつけた。するとおじいちゃんは、小さな穴が空いてしまった風船みたいに、あれよあれよと元気がなくなってしまった。
私とおじいちゃんは肩を並べて飛行機へと歩み寄った。私たちの歩調はどことなく鈍重であった。
私たちが飛行機のそばにやってきたとき、プロペラの運動が止まった。一拍の間が空いたのちに、前後スライド式のキャノピーが動く。直後、作業員が絶妙なタイミングで飛行機に梯子を掛けた。
「ありがとう」
静かになったピット前に、クローイの声が響いた。その声は良く通った。声量そのものが大きくなっている感じだ。声色も上ずっている。
彼女は高揚しているようだ。ランナーズハイならぬ、パイロットハイ、といったやつだろう。その証拠とばかりにクローイは、酔っ払いみたいなおぼつかない足取りで梯子を下りた。
「ターラ!」
飛行機を降りたクローイは私を見つけ、やはりふらふらとした歩調で駆け寄ってきた。
「クローイ。どうだった? なにか不具合、ある?」
「ううん! 全然!」
私は思わず後ろ足を踏んだ。クローイの機嫌が、今まで見たことがないくらいに高かったからだ。
距離を取った私とは対照的に、彼女は年相応な爛漫さを披露しつつ、私との距離を詰めた。
「飛行機! すごく調子良いよ! 不調前よりもずっと、ずっと良い感じ! 飛行機を新しくしたみたい! ちゃんと直してくれてありがとう!」
クローイはそう言いながら、ゴーグルを額まで上げた。彼女の顔は、ゴーグルが刻みつけた痕のせいで、パンダみたいになっていた。その顔は、破顔してしまうようなコミカルさを含んでいた。しかし私はちっともクスリとこなかった。むしろ私は圧倒されていた。
私が息を呑んだのは、彼女の眼光にあった。彼女の瞳はとても澄んでいた。どこまでも透き通っていながら、ちかちかと様々な光を返すクローイの目は、ダイヤモンドかジルコンを想起させた。
「あ、ああ。うん。それは良かった。飛行機工冥利に尽きるよ」
「うん? どうしたの? なんだか歯切れが悪いようだけれども?」
パイロットハイの影響だろうか。飛行機を降りた直後のクローイは、いつもよりずっと他人の機微に敏感であった。
私が鬱屈としている理由を、クローイに話してもいいものか。それとも適当なことを言って誤魔化してしまおうか。私はどちらにすべきかを迷った。
そして私は、誤魔化す選択をした。欺瞞と偽善で修飾された言葉が、口腔内に満ちたそのとき、私は待てよ、と思った。
今のクローイはパイロットハイによって、すべての感覚が鋭敏になっているようだ。当然、嘘偽りを嗅ぎ分ける力も鋭くなっているだろう。
私はそんな彼女を上手に騙せるのだろうか。嘘を貫き通せるだろうか。
その答えはきっとノーであろう。彼女は嘘を見抜いてしまうはずだ。私は彼女を騙しきれないはずだ。
それに、である。私はそもそも嘘を吐くのが苦手だ。人を騙すとしばらくのあいだ、私の心は打ち身のようにじんじんと痛み続けるのだ。
彼女に嘘は通用しないこと、私自身嘘を吐くのが嫌な人間であること。この二つの要素によって、私は素直に語ることにした。
「テストが終わってさ。コースの下見、やってくれたよね?」
「うん。飛行機が軽くなってさ! 私、気分がよくなってさ! 思わず本気で攻めちゃった!」
クローイは甲高い声で笑った。子供っぽくて、可愛らしい声だった。
その笑声を聞いた私は、またしても躊躇いを覚えてしまう。ご機嫌な彼女に、水を差さなければならないとは。良心がちくりと痛んだ。
ならばやはり、偽りを伝えるべきか。そんな偽善心が私の心中で鎌首をもたげた。
私は楽な方へと転がりたがる怠惰な心を叱咤した。握り締めたストップウォッチの感触をたしかめながら、私は大きく息を吸った。
「あのね。クローイ。実はその下見なんだけど」
「なに?」
「実は。タイムを測っていたんだけど……」
「あ。そうなんだ。どうだった?」
クローイは鼻息を吐き出した。薄い胸もわずかに反らせる。好タイムを叩き出した自信があるようだ。私はいたたまれなくなって、とうとう彼女を直視できなくなった。
「どうしたの?」
クローイは顔を逸らした私を訝しんだ。彼女はますます距離を詰める。私と彼女の距離は、少し身じろぎしただけで身体が接触してしまうほどだった。
その距離感のせいだろうか。どういうわけかは知らないけれども、私の頬は、カイロを押し当てられたかのように、ほんのりと熱くなった。
「えっと、ね。タイムが……その。良くなくてさ」
「ふうん。どれくらいだった? あ、数字は直接言わなくていいよ。良し悪しがわからないから。去年のレースだと何位相当かを言って欲しい」
私は参ってしまった。私は数字だけを突きつけて、あとは口八丁手八丁で切り抜けようとした。けれどもその便利な退路は、クローイによって閉ざされてしまった。タイムが何位相当かと問われてしまえば、衝撃的な事実を告げるほかにない。
これは、いよいよ覚悟を決めなければならないようだ。
「五位。だったんだ」
「五位相当? いいね。これなら十分勝てるよ」
「……ごめん。下から、なんだ」
「え?」
「……タイムは、下から、五番目。その……大きな墜落事故が起きない限りじゃ。優勝するのは難しいよ」
私の遠回しな告白を受けて、クローイは目を瞬かせた。彼女は悪いタイムを出した自覚がないようであった。
実際のところ、彼女は自信過剰であったわけではない。なにせ彼女が乗っていたのは、十三年落ちの飛行機なのだ。十分すぎるほど健闘したと言えよう。
遅いタイムを刻んだクローイは、意外にも落胆していなかった。そっか、そっか、と囁きながら何度も頷いていた。彼女は、現実をしっかりと受け止めているようである。
「うーん。そっか。私、エンジンパワーを活かした飛び方をしたんだけれどな。それでも性能差を覆せなかったか」
「たしかにいいエンジンだけれど。機体の空力がよくないからね。たとえば――」
私は飛行機をちらと見た。焦点は地面との接地点、すなわちランディングギアだ。この飛行機の空力的にもっともよくないところは、ここにあった。
「固定式のギアがよくない。巨大な空気抵抗値を計上してしまう。だからストレートスピードは出ていないはずだよ」
彼女の飛行機は、直線番長にすらなれていない。最高速度も加速性能も、レースに出てくる飛行機より何段も落ちているはずだ。運動性能は言わずもがなで、どう頑張っても最新式の飛行機に敵わないだろう。
「ねえ、クローイ。私たちの借金返済のために頑張ってくれるのは嬉しいけれどさ。やっぱりレース参加は見合わせよう?」
「どうして?」
「あなたのキャリアに傷が付いてしまう」
レースで最下位になった記録が残るとなると、彼女の評判に悪影響を及ぼすはずだ。最悪の場合、仕事がまったく取れなくなるかもしれない。私たちのために、彼女が食うか食わずかの困窮に追い込まれてもいい理由なんて、この世のどこにも存在しないのだ。
「でも、借金が返せないと。あなたたちは仕事を失ってしまう」
「あなたが負けるともっと悲惨だよ。私たちは家なしになり、あなたも極貧へと墜落する。だから、ね? 参加はやめた方がいいよ」
「うーん……」
クローイが腕を組みながらうめいた。そのうめき声には、葛藤の音色が含まれていた。どうやら私の発言は、彼女の心に響いたらしい。
「うん。決めた」
目を瞑り、唇を山型に曲げ、ときには俯いて――。思案のアクションをひと通りとったクローイは、ゆったりとした動きで腕をほどいた。
彼女は撤退を決意したらしい。これでクローイのキャリアが汚される心配はなくなった。
「ありがとうね。細かい調整は必要かな? 飛行機をあなたの好みにセッティングするよ。なんでも言って」
「ううん。このままでいい。これで完璧。どこかをいじる必要はない」
「そう。じゃあ、工房に帰ろ? 実は納品書、工房に――」
「ねえ。ターラ」
クローイが私の発言を遮った。
「お願いというか。提案があるんだけれど」
「なに? なんでも言って」
「レースのことなんだけどさ」
どうやら私は、早とちりをしていたみたい。彼女はレース参加を諦めていないようだ。
私の口はぽかんと開いてしまった。呆気に取られてしまった。タイムという誤魔化しようのないエビデンスがあるのに、彼女は諦めようとしていない。
いや、それどころか、彼女は勝利すらも狙っているらしい。彼女の瞳は、丹念に研がれたナイフのような、ギラギラとした光を湛えていた。
絶対に勝ってやる――。表情を見ているだけで、そんな彼女の内なる声が聞こえてきそうであった。
まだ諦めていないのか。
なぜタイムをまったく出せない機体で戦えると思っているのか。
どうして勝てると思っているのか。
私はクローイに聞きたいことがたくさんあった。でも、それらが紡がれることはなかった。聞きたい物事があまりにも多すぎて、言葉が、私の頭の中で大渋滞を起こしているのだ。
「ターラ?」
「あ、うん。えっと。うん。どうしたの?」
私の口から出てきたのは、そんな当たり障りのない言葉だけであった。
違うだろう。私が本当に言いたかったのは、中身のない台詞ではないだろう。私は自らを呪い、唇を湿らせ、言い直そうとした。
機先を制したのはクローイであった。彼女は、私が唇を動かしたころには、とっくに発声していた。
「ターラ。動かない機体ってさ。一ヶ月で直せるものなの?」
「一概には言えない。状態がひどくなければイケるけれど……」
「うん。じゃあさ。一つ賭けをしてみない?」
「賭け?」
クローイが首肯した。彼女の脳は、いまだに興奮物質を分泌しているのだろう。頷いた彼女の息づかいは、どことなく荒いような気がした。
「あなたたちの工房の。あの小さなハンガーで眠っていた飛行機。それを直してさ。私を乗せてくれないかな?」
「それってつまり」
私は息を呑んだ。
「お父さんの飛行機で。レースに?」
「そういうこと」
クローイはあっさりと認めた。
「レースに勝ってさ。あなたのお父さんが素晴らしいメカニックだったことをさ。一緒に証明しようよ」
彼女は私を真っ直ぐに見つめながらそう言った。あのどこまでも透き通った瞳で、お父さんの優秀さを証明してやろう、と誘ってきた。
私は彼女の誘いにかぶりを振れなかった。




