スマイリーマン
最初の違和感は、ありきたりだがスマホだった。
元々家では放置気味だったスマホをトイレや風呂場にも持っていくようになった。
ソシャゲにでもハマったか?と軽く考えていたら、俺の前で電話をしなくなった。
なあ、会社の人と電話するのにわざわざ廊下に移動する必要あるのか?
電話中に近付くだけで怒るのはなんでだ?
一度疑問に思ってしまえばもう疑心暗鬼。
帰りが遅い日が増えたのは?あの出張は?
受付嬢の出張ってなんだ?
疑い始めたらキリがなくなった。
お互い30歳まであと2年。
頑張って金貯めて30歳までにマイホーム建てよう。そうしたら子供つくろうとお互いに仕事を頑張っているんだよな…?
結果としては、妻は浮気をしていた。
安心する為だと依頼した興信所から2週間で充分過ぎる証拠を貰った。
浮気相手は妻の会社の役員。
興信所の人の前で情けなくも吐いた。声をあげて泣いた。
興信所の人は慣れているのか、素早く俺が吐いたモノをゴミ箱でキャッチして泣き叫ぶ俺の汚れた口やらをウェットティッシュでキレイにしてくれた。
妻とは大学で知り合い、2回生の時に付き合い始めた。
俺の、最初の人で、最後の人に、なるハズダッタンダヨ…
会社の上司に相談した。
よほど情けない顔をしていたんだろうな、あの人が「大丈夫か?」と俺含めて部下を心配する姿を初めて見た。
「そこまで俺の今の現状は情けないのか…」と声もなく泣いていたら、上司は「我慢しなくて良い、俺は何も見ていない」と俯いて涙を流す俺の頭をガシガシ撫で続けてくれた。
その俺の頭を撫でる明らかに慣れていない手つきに、俺は救われた気がした。
会社が紹介してくれた弁護士と色々話してXデーを決めた。
関係者を集めて妻の浮気を暴露、離婚に向けての本格的な話をする第一歩の日。
Xデーは3ヶ月に一度のお互いの両親を交えた食事会の日。
親達からすれば俺達夫婦はまだまだ甘ったれたガキのようなもんだ。
仕事や夫婦間の相談という名の愚痴会を定期的に開いてもらっていた。
その場に親父と俺、妻と義両親、浮気相手の夫婦と弁護士を集めて話し合う。
妻の両親は50歳を超えても手を繋いでデートをするような、日常は夫婦・デート中は恋人を体現したような憧れの夫婦だ。
俺達も「そういう夫婦になろうね」と言っていたのが、遠い過去のように思えてくる。
Xデーまでの生活で何が一番辛いかって、妻の裏切りが明確になったのに一緒に暮らす事だ。
妻とは子作りはマイホームを手に入れてからだと言っていて元々性交渉はなかったのが唯一の救いだ。
少し触るだけで怖気がする。
妻の笑顔を見る度に殴りたくなる。
妻の手料理が汚らわしいナニカに見える。
俺は日に日にやつれていっていたのだろう、同僚に心配され上司はなにか言いたげに俺を見ているだけだった。
「話せるようになれば話す」「心配してくれて有難う」と会う人会う人全員に言っていたら、Xデーが近付いたある日、遂に親父が俺の職場まで顔を出してきた。
「何があったんだ…!」と職場では常に笑顔の親父が険しい顔をしている。
そこまで俺は周りに迷惑をかけていたのかと自分に対する失望感を深くしていたら、いつのまにか上司が俺の後ろに立って声をかけてくれた。
「ゆっくり話せる場所にいきましょう」「許されるなら私も同席させてもらいたい」という上司の言葉を親父は受け入れた。
親父に迷惑をかけている罪悪感で俯く俺の様子を見て上司は「自分が報告を受けている範囲での話ですが…」と親父に事情を話す。
実の親に自分の近況を自分で話せない事で自分に対する失望感は加速する。
歯を食いしばり拳を固めて逃げ出したい衝動と戦う。
上司が話し終わるに合わせて「親父、すまん」と俺は謝った。
すると親父は低い声で「何に対してだ」と俺に問う。
俺は少し嬉しかった。
親父がめちゃくちゃ怒っている。怒ってくれている。
まだ俺は父親に見放されていない。
この感情は目の前の現実からの逃避だと思ったが、それでも少し嬉しかった。
俺が高校三年生の時に母さんと病気で死別してから、いや母さんが入院してからずっと仕事と家庭と一人で踏ん張ってきてくれた親父に今見放されたら立ち直れる気がしない。
「迷惑をかけてる…そしてこれからもっと…」と言う俺に「この馬鹿が…」と先程よりも低い声で怒る親父。
俺が返答を間違えたのは分かったが、どう間違ったのかが判らない。
すると親父は立ち上がり困惑する俺の前まできて俺の顔を真っ直ぐに見つめてくる。
情けない俺の心の中まで見られているような気がして目を逸らした瞬間、親父は俺の両頬をパンっと両手で持ち無理矢理目を合わせられる。
「前を向け。笑顔を絶やすな。お前は俺の子だろう。
どんな時でもお前は俺の子なんだ。
俺を頼ってくれなかった事には怒っているが、お前の言う迷惑なんて、俺にとっては息子に良い格好する見せ場にしかならんよ。」
もうすぐ30になる息子に向かって何言ってんだ。
そう言いたかったけど、俺は何も言えずただ親父の手に縋り付いて泣いた。
妻の浮気相手夫婦をXデーに連れてきてもらう手筈も当日の話しの流れも落とし所も全て弁護士に任せていると親父に言えば、「俺も悪巧みに参加させろ」と担当してくれている弁護士や証拠集めに使った興信所を紹介させられた。
何であの日親父が俺に会いに来たのか尋ねると、
「お前が人と話す時、相手が泣いていようが怒っていようが笑顔で接しているだろう?
それなのに最近のお前の顔から笑顔がなくなった。
ホテル中の噂になっていたぞ。
そこまで噂になって心配しない親はいないだろ。」
との事だった。
俺はホテルマン。親父はホテルの敷地内にある結婚式場の主任。
根っこの会社が一緒で同じ建物内で働いているとはいえ、まだまだひよっこの俺の噂がそこまで広がるハズが…と反論すると、
「お前は不器用だからな。
俺の「笑顔を絶やすな」という言葉を愚直に守っているのだろうが…どんな時でもどんな相手に対しても笑顔なお前はホテル内で色んな意味で有名人だぞ。
「笑顔の怪人」とか「スマイリーマン」とか呼ばれた事ないか?」
心当たりはあるが…そこまでか?
というかそのあだ名は初耳だが⁉︎
俺はここで働き親父に対する尊敬がまだ足りていなかった事を日々実感している。
働く事が、生きていく事がこんなに大変だったのかと過去の親父の大変さを想像して俺も踏ん張っている。
だが、俺は周りの人達より劣っている。
頭が堅いのだろう、臨機応変さに欠けていると自己分析した。
だから俺は俺の出来る事からすると決めて、まずは親父の言葉を守るように、笑顔を絶やさず働いていた。
ただそれだけなのだが…変なあだ名を付けられ、それが親父にも届くほどホテル内で有名になっていたらしい。
「流石に怒鳴る相手にもニコニコ笑顔晒していたら煽っていると誤解されるだろうに…」と親父に呆れられた。
怒鳴っても笑顔で、倒れる威力で頬を殴ったら笑顔ですぐ立ち上がり殴った拳の心配をする俺を遠くから見ていた人が噂とあだ名の発信源らしい。
そんな事もあったような…?
怒鳴られるのは仕事が出来ない俺にとって日常茶飯事だったし、顔面殴るような人はホテルに…お客様か?
それなら心当たりがあるな。
「お前は昔から暗記が得意で応用で躓くタイプだったからな。
お客様と接する仕事は合わないと心配していたが…良い上司さんに出会えて良かったな。」
親父が俺の職場に顔を出してから俺はあの女に黙って仕事を休んでいる。
上司にひと段落着いて笑顔が作れるまで来なくて良いと言われたのだ。
そして俺はXデーまで親父の家にお世話になっている。
「仕事で少しトラブルが…」と電話で言えばあの女はあっさり「頑張ってね」と明るい声で返してきた。
それは「こっちの事は心配するな」アピールの声なのか?
「浮気がしやすい」と喜ぶ声なのか…?
どんどんぐちゃぐちゃになっていく感情と思考を自覚しながら、俺はXデーが訪れるのを膝を抱えてジッと待った。
Xデーになった。
親父は「俺に任せろ。」と笑ってくれた。
思えば親父に弁護士やら興信所を教えてから俺は今日の段取りやらを打ち合わせしていない事に気付く。
「ごめん、ありがとう、俺がしなくちゃだったのに、丸投げして放置してたのを、今更気付いた…」と言えば親父は
「お前は人に頼るのが下手だからな、頼られたと俺もはしゃいでしまった。まあ、話が始まる前に気付いたから説教は少な目にしてやるよ。」と良い笑顔だった。
言葉は優しいが目が笑っていない親父の満面の笑顔に俺は「少な目」といういつ終わるかわからない説教を思って恐怖した。
今回の食事会の場所はあの女の実家だった。
親父と俺が昼前に着くと、義兄が笑顔で出迎えてくれた。
義母と義兄嫁とあの女が料理やら家事やら張り切っていてゆっくり出来なかったから、男衆が増えて一安心だと笑っていた。
俺は今日の食事会がぶっ壊れるのを知っている。
罪悪感にうまく笑えない俺の腰をポンと親父が叩く。
そうだ。戦いはまだ始まってさえいないのだ。
和やかな雰囲気で始まった食事会。
粗方料理も食べ終わりまったりとした空気が流れていたが、俺が切り込んだ。「今日は大事な話があります。」と。
「その大事な話をするのに、もう3人ここに人を呼んでいます。
勝手な真似して申し訳ありませんが、外に待機していただいているので呼んで良いでしょうか?」と。
頭にハテナを浮かべながらも義両親が了承してくれたので、電話で合図して玄関まで弁護士と浮気相手とその妻を招き入れる。
居間に顔を出した浮気相手を見て「えっ⁉︎えっ⁉︎」と慌てる女。
「そこの慌ててる女の浮気相手さんの夫婦と離婚に強い弁護士さんです。」
「浮気なんて‼︎」と叫ぶ女。状況が把握出来ないで固まる義両親。目を細めて女を睨む義兄さんと一瞬で般若顔になった義兄さんのお嫁さん。
浮気相手はしょんぼり俯き黙っている。
浮気相手のお嫁さんと親父は無表情で女をずっと見ている。
和やかな食事会から一変、地獄絵図だ。
「浮気の証拠は充分すぎる程あります。
離婚は覆りません。
…さて、話し合いをしましょうか。」
話し合いは予想よりもあっさりだった。
「私は浮気を認めない」と叫ぶ女に車の中で合体している写真を贈呈。
義両親は土下座。義兄は女の頬をフルスイング。俯いたまま動かない浮気相手。全体を冷静に観察する親父と義兄さんのお嫁さんと浮気相手のお嫁さん。
弁護士から女と浮気相手が払う俺と浮気相手のお嫁さんへの慰謝料や俺との離婚の条件の提示。
「今日は皆様冷静に話せないと思うので時間をあけて後日話しましょう」となった。
俺からの要求は財産分与7:3に慰謝料100万とかかった弁護費料。
慰謝料100万も興信所代やらなんやら計算すればほとんど余らない。
財産分与の比率も俺と女の年収から考えたら暴利ではない。
俺からは、離婚出来ればこれ以上は望まない。
そう伝えた。
そして義両親と義兄夫婦に土下座した。
「幸せにしますと言っておいて、こんな結末になってしまい申し訳ありません。」と。
「ですがもう、あの女を愛す事がどうしても無理なのです。
顔を見ただけで殴りたくなります。
触れただけで拒絶反応してしまいます。
もう、今同じ空間にいるだけで怒りを我慢するのに精一杯なのです。」と。
俺の土下座を見て、義父さんは俺と親父に土下座した。
義兄さんは「謝らないでくれ…頼む…」と俺の顔をあげるように促した。
女は「でもでもだって」していたが俺の言葉を聞いて力なく座り込んだ。
義母さんと義兄嫁さんが静かに泣いている顔を見て、俺は「後は弁護士に任せます」と言って逃げるように義両親の家を後にした。
Xデーから半年。
職場での「スマイリーマン」のあだ名は復活した。
一部から「気持ち悪い」とも言われるが、俺の周りや上司は笑顔の由来を理解してくれていて好意的だ。
まだまだ怒鳴られたりもするが、なんとか笑顔を絶やさず仕事が出来るまでに俺の精神状態は回復した。
金の為に父親と歳の近い男に股を開いていた女は実家から縁切りされ、会社でも離婚前から役員との浮気が噂になっていた事もあり離婚後は噂に尾ひれ背びれがついて居場所がなくなり直ぐに退社。
慰謝料の支払いでほとんど無一文で無職になったその後の詳細は不明である。というより興味がない。
浮気相手も離婚。社内のよくない噂の片割れと言うことと普段から若い社員に対するセクハラまがいの態度も相まって地方へ飛ばされたらしい。浮気相手のお嫁さん情報。
浮気相手のお嫁さんは俺の親父が気に入ったらしくちょいちょい俺とも連絡をする。
「親父の気持ち最優先で、親父が受け入れるのなら祝福しますよ。」とだけ言っておいた。
親父は「死んだ母さんが…」とか「お前が…」とかグダグダ言っているから「親父の幸せを俺も願ってる」「あの人でもそれ以外でも良いから」と親父の背中を押している。
親父には幸せになってほしいんだ。
義両親と義兄夫婦ともたまに食事をしたりと縁は続いている。
あの女と結婚していた当時からずっと良くしてくれて、あの女の浮気発覚後すぐに縁切りするほど正常な判断が出来る人達と、俺は一定以上の信頼を寄せている、第二の家族のような人達だと思っている。
俺がそう言うと義両親は「変わらず父母と呼んでくれ」と抱きしめられた。
実の娘を縁切りするにあたって色々葛藤やらあったと思うのだが、人の親になった事のない俺には図り知れない。
それでもまだ息子と呼んでくれる義両親には感謝しかなく、義兄夫婦も含めて良い関係をこれからも続けていけると思った。
離婚してから1年とちょっと。俺は30歳になった。
親父は結局あの人とお付き合いを始めた。
ちょっとした名家の出だったらしく、俺にお見合いを勧めてきては俺が躱す攻防が繰り広げられている。
「実家の人脈をちょっと使わせてもらうから、変な人は少ないわよ」とグイグイこられて、親父もボソっと「早く孫が見たいな…」と俺の味方はしてくれない。
確かに、俺が選んだ女は金の為に浮気をするような奴だった。
今にして思えば恵まれた容姿に男に媚びるのが上手で女友達は皆無。童貞だった俺なんて掌の上で転がすのに丁度良いくらいの奴だったのかもしれない。
俺は今回の件で、恋愛についてかなり臆病になった。
あの女だけが100%悪いと思っていないのだ。
初めての恋人で初めての相手で恋に舞い上がったまま結婚して、ちゃんとお互いを理解していたのか、理解しようとしていたのか、自信がなくなってしまった。
そして同じ事を繰り返すのではないかという恐怖心もある。
そんな事を義兄さんに相談すると、年上を勧められた。
「姉さん女房も良いもんだ。」と30代半ばの独身女性とお見合いを組まされた。
俺に結婚からの逃げ道はないらしい。
俺が苦しい時は支えてくれる、俺を理解して導いてくれる、俺が臆病になれば突き飛ばす勢いで背中を押してくれる人達に囲まれて、俺は笑顔を絶やさず生きている。