小説家になろう
小説を書くことがこんなにも、つらいことだと思わなかった。
私は一人、部屋で涙を流した。
最初は承認欲求を満たすためだけの手段だと思っていた。
スマートフォンを手に取り、文字を打つ。時刻は午後10時頃。世界には自分だけしか存在していないような孤独な静けさが部屋全体に広がっている。心臓の鼓動が耳の奥から聞こえる。……一通り書き終えて時計を見る。時刻は午前0時。一つの物語を創造したという達成感で満たされた。あとは承認欲求だけだ。
朝が来た。書かれた感想は……ない。投稿した時間も遅かったから、と自分に言い訳をする。自分の作品がありふれた、つまらないものだとは認めたくなかった。そして1日が終わり、再度確認してみる……ない。残酷な証拠からは逃げられなかった。何が駄目だったのか、自分の文章と他の人の文章を見比べてみる。すると、自分の文章のつまらなさが浮き彫りになり、それは凶器となって自分の心をかき乱す。承認欲求を満たすために小説を書く。感想は……ない。満たされない承認欲求によってつまらない小説が量産される。いつしか、書きたいものよりも良く評価されそうなものを書くようになった。さらに、自分の書いた小説を様々な方法で拡散し、一人でも多くの人の目に留まるような努力をするようになっていった。そして良い評価をもらえれば、天使が舞い降りたかのように喜び、もらえなければ、干ばつで雨乞いをする農民のように、ひたすら願うのだった。そんなことを続けてしばらく経ち、何度目かの投稿で感想がついた。多幸感に包まれながら確認する。……登場人物の行動が無理やり過ぎてつまらない、流行りに乗っかってるだけのペラッペラな小説だ、とあった。ズキズキと痛む心を慰めながらその日は眠った。
どうして作者でないのに登場人物のことがわかるのか。行動が無理やりなのはどうやって判断するのか。個人の捉え方ではないのか。たった一つの感想…言葉が、心の深い部分で無神経に暴れまわっている。辛くて、悔しくて、見返したくて、どうしたら面白くなるか考えた。感想なんかどうでもいい、文句のつけられない小説を書いてやる。パックリと開いた心の傷の痛みから逃れるために必死で書いた。分厚い国語辞典や類語辞典で壁を作って自分を守り、原稿用紙に埋められていく言葉に全てを乗せた。
やがて、小説を書くときは登場人物を生きた人間のように扱うようになった。名前、身体、体重、顔の骨格、髪型、血液型……全てを細かく設定し、常に行動の動機にこだわった。
パァン!自分の中で鮮やかな爆発が起きた。これまでの主役はストーリーであり、主人公は操り人形だった。しかし今、主役のバトンは主人公へと渡されたのだ。登場人物が勝手にストーリーを作る、いや、登場人物の行動そのものがストーリーなのだ。小説を書いているつもりが、昔の記憶を書き起こしているような気持ちになることがよくあった。それからは、いつもこのやり方で書くことにした。登場人物のモデルは全て実在するが、性格や考え方などはオリジナルだ。彼らが生まれると人生が…物語が動き出す。
ふと……恋愛小説が書きたくなった。いつものように綿密に設定を仕上げ、彼らが生まれる。だが彼らが成長し、恋に落ちると、ヒロインは病気により亡くなってしまった。こんなことはこれまでなかった。初めてだった。自分の目を疑った。
彼女は眠りについた。目覚めぬ眠りに。
彼女が何をした?なぜ?
………いや、私が彼女を殺したのだ。書いた言葉は不変だ、もう彼女は戻ってこない。そのことが、言葉が、私を苦しめた。ヒロインは私にとって実在したのだ。私の中で、彼女は一人の人間として生まれ、恋に落ちた。そんな中で死んでしまった。ただ純粋に、青春の中を生きていただけなのに。こんな小説を書かなければ、きっと助かっただろう。途中で展開を変えれば、彼女を助けることはできたはずだ。それが小説のためでなくとも、生きてくれるならそれだけでよかった。しかし、私は書いてしまった。彼女はもう微笑まない。彼女はもう…いない。
ただ小説の中の登場人物が一人死んだだけだろう、と嘲笑われるかもしれない。たしかに、以前の私ならそちら側だっただろう。しかし私はこみ上げる悲しみを、苦しみを抑えられなかった。私のせいで死んだ。涙が止まらなかった。彼女が生きたかもしれない世界を想像して泣いた。もういない彼女を想って泣いた。悲しみに明け暮れている主人公を想って泣いた。小説を書くことがこんなにもつらいことだとは思わなかった。
小説家になるということはこんな悲しみをいくつも背負うことなのか。小説家になるということはこんな悲しみに慣れることなのか。小説家とは一体なんなのだろうか。
私はその後しばらくの間、鉛筆を握れなかった。怖かったからだ。また誰かを失ってしまうのが恐ろしかった。しかし、小説を書いていないと私の中で生きている彼らの存在が薄れていくような気がした。笑いかけ、励ましてくれる彼らの存在はもはや承認欲求を満たすための手段ではなかった。私にとって彼らは家族だった。そんな家族の存在が薄れていき、忘れてしまうことの方が恐ろしく感じられた。忘れたくない気持ちで自分を誤魔化しながら、作ったキャラクターたちの設定を書いた本を覗いてみた。彼らの生きた温もりが、心を融かしてくれるようだった。そして、恋愛小説の主人公、彼女を亡くした青年に出会った。正直に言うと、逃げ出したかった。彼にどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。彼は一言だけ、ゆっくりと口を動かした。
に、げ、な、い、で。
ハッとさせられた。逃げていた。忘れようとしていた。ちゃんと向き合わなければならないと、彼は教えてくれた。そして、恋愛小説を読み返した。そこには忘れてはならない彼女の姿があった。たとえそばに居なくても、彼女が積み上げたものは失われない。小説が終わっても、誰からも読まれなくなっても、彼女と過ごした時間、彼女がいたという事実は無くならない。忘れなければいつでもそこにいる。
忘れないように、失くさないように、思い出をそっと言葉にして原稿用紙に書いていく。感情が押し寄せて胸がいっぱいになることもあった。しかし時間が経つにつれて強くなるのは悲しみではなく、思い出の温かみ、彼女の笑顔の煌めきだ。
しあわせそうに、彼女は眠っている。
私はそっと花を添える。
小説の執筆を再開した。もちろん、登場人物の設定作りもだ。胸の中には思い出と目標を持って。
小説家になろう。