二章
夕日が水平線へ沈む。太陽が海へと溶解する。海は金木犀色へと移り変わり、甘い香りが水面を走る。単なる光が水面を乱反射するだけの夕景色。概して、平々凡々たる一日の、あるいは月並みな黄昏時であった。
海が春風と戯れる。春一番は黄ばんだ皮膚をなぞり、殊に海は鳥肌が立つ。同時に波も立った。波という漢字の由来は、おそらくこうであろう。漣が浜辺を包み込む。酸素の粒を含んだ波が、真っ白な砂浜の色を黒く染めた。白い砂と黒い砂の境で、男が大道芸を披露しようというのだ。足首を齧りつくように波が押し寄せても、濡らす事は無かった。海はこの男が欲しい。太陽を手にした大海原でさえ、男の踵にすらも届かない。月の引力に邪魔をされて、あと一歩の所で波が引いてしまうのだ。満潮になれ、と海は嘆く。次第に波音が強くなったのは、男を手にする事が出来ない嫉妬によるものであろう。草履のささくれにすらも触れられない。能る限りに海が手を伸ばしても、男は一切に目もくれなかった。
「神に逆らえ」
男を相手にするのは、遠洋漁業からの帰りを待つ小童とその母親たち。男はそれだけでも十分。むしろ、これでいい。敢えて江戸では披露しない。江戸近隣の相模湾が絶好なのだ。黄ばんだ白目に点在した黒目を動かす。白い砂に腰を下ろした小童。後から老婆や若い人妻たちが寄ってたかった。男は灯台のように輝くもんだから、光に向かって船が進行する有様でお客を呼び寄せる。男の一言、一言には灯火がある。言葉は言葉を呼んで、鷗たちと共に大空を羽ばたく。
「時間よ。神に逆らえ」
男は黒くなった砂浜へと下がる。一歩、二歩。男の背中に隠れていた太陽が見えてくる。波たちは男の足首へと愛撫を始めた。潮の香りが春の風に運ばれて、男の気高き鼻を包み込む。両腕を大きく広げて、自分の胸に何者かが飛び込んでくるように待ち構えた。嗚呼と、うめく。急に片方だけの口角を上げて、空気を抱きしめた。その瞬間に子供たちの円らな瞳には、摩訶不思議な現象が映し出されるのであった。
「おっかさん!太陽が昇ってる・・・」
誰かとこの状況を共有したいがために、疑いのウの字も感じなかった。むしろ凝視する。一方の母親たちは呆気に取られて開いた口が塞がらない。着物を引っ張る子供たちに一瞥もくれず、昇っていく太陽に恍惚としていた。着物が揺らされると、夕時の涼風が身体の中に入ってくるので、脂肪に包まれた身体を震わした。それは恐怖、あるいは心が動かされた感動による身震いかもしれない。
鼓動が高鳴る婦人たちは、手を一等に大きい乳房に当て乍ら男に目をやった。けだし一〇代前半の女子だけ、新しい目で男を見つめた。端厳な顔立ちをしている。どこか不良的な垂れ目と、どこか奇怪な卵型の輪郭が魅力に感じてしまう。それに中性的だが女々しい雰囲気は皆無。反して色気は尋常じゃない。
「時間よ、神に従え」
男は両腕を広げた。抱きしめられていた空気が開放される。日は沈んで夜が千鳥足で迎えに来た。漁船の光が見え始めると、人妻たちは欣喜雀躍とした様子で出迎えの準備をする。一目惚れをしてしまった女子は、男が来るのを待った。却って、波をざぶざぶと搔き分けて腰まで浸かった男へと飛び込む小童。空いた胸は小童の場所となる。女子は目を伏せる。悔しい。目頭が熱くなる。でも唇を噛んで耐えた。
「お兄ちゃんすごいよ!どうやるんだい」
小童が濡れた甚平に抱きつき、上目遣いで問うた。男は小童の柔らかい髪を撫でてあげる。それを恨めしそうに睨むのが沖にいる女子。男子のように話しかけられないじれったさに、奥歯を強く噛んで忍ぶ。照れもあるだろうが、詰まる所、貞操観念の縛りに強く押さえつけられているだけの事。それが女子という性分。整った芸者の顔立ちに女子は頬を紅潮とさせ乍らも、貞操観念の抜け目を血眼になって探した。
「寒いの」
小童が心配そうに聞く。
「濡れたからな」
男は答える。ここしかない。
「寒いならこっちに来て」
女子は恋愛に一生懸命となるのは当然。それは生きるためなのだから。
母親たちは現場を離れて、沖に上がる船の準備にとりかかる。信用をしたのだろう。最初は側から子供たちの小さな肩を抱いて離さなかった。蓋し今は目を離して齷齪と働いている。楽しく男は子供たちと遊んだ。
「あれは何ていうの」
小童が聞く。
「蜃気楼だ」
信頼されて有頂天になったそんな芸者を、後ろから銛を突き刺すような鋭い一言を言い放つ輩が現れた。この輩、歳は三十代といったところか、ほうれい線がやけに浮き出て眉毛が濃かった。爪は不潔に長い。これはいわゆる、海にも出る勇気が無ければ、海にも好かれない男というわけだ。波は輩から遠ざかるように打ち寄せるもんだから、水気のないシワシワの顔立ち。ただ、枯渇した生命の泉を潤すためにも人の夢をくじいて、そこから抽出される悲しみを餌として生きる事しかできないとんでもない阿呆であった。
「笑わせんな。蜃気楼だよ」
子供たちや女子共は神通力という言葉を聞きたかったのだが、見ず知らずの男に蜃気楼という言葉を聞かされたもんだから、何となく趣が覚めた。夕日とじゃれ合っていた海も、気づけば夜と浮気をする始末。夕焼けに染まった海の色が、漆黒の夜と接吻をしていた。海は誰とでも寝るらしい。夜と海の姦通を見て太陽は海から離れていく。女たちも男から離れていく。女子たちも母親の手伝いへと駆けていった。男は全くの一人となり、一連の出来事は冗談のように去って行った。
「見抜かれてしまったか」
寂しそうに目を落とすと、足元が青く光っていた。夜光虫、殊に青い宝石が男を包み込む。今度は両頬の口角を上げながら膝を畳んだ。クククと喉を鳴らす。ボキっと音が鳴る。そんな年寄りでもないのに、身体は限界を迎えていたようだ。懐から青竹を取り出して、夜光虫を含んだ海水を静々(しずしず)と入れた。ゆっくりと立ち上がって、その場を去ろうとした時、背後から野太い重低音が聞えた。
「お前さん、今度はその夜光虫を山に持って行って、神通力を披露するんだな」
振り向くと、葵が三枚の羽織を召した武士がいた。徳川家の家紋だ。次に男が目をやったのは、武士の隣で泣きじゃくる輩だ。男は目を伏せる。芸者は俯く。侍は輩の肩をやさしくたたいた。その音を聞いた芸者はゆっくりと顔を上げる。
「真剣勝負じゃない。卑怯な戦いを正すのも武士の在り方よ」
輩の肩に乗せた手を口元にあてる。声を張り上げて、小童どもを呼び戻した。
「おーい!お前たち。そうだそうだ、お前たちだ。手が空いている小童どもはここにくるんだ。走ってこい!」
武士の髷を薄明かりの中で確認した小童は、興奮して駆け寄る。砂浜に足を取られて転んでしまう可愛い奴もいた。早歩きで若い女たちも歩み寄ってくる。その人だかりはサクランボの一つも落とせないほどの人数だ。恥じらいを覚えて、男は頬を桜色に紅潮とさせるも、横にいる武士のお陰で自信が湧いてきた。眉に力を入れているのか、黒目が全く動かない。眉間から武士の威厳が醸し出されている。輩は体幹が無いのか、片足に体重をかけて姿勢がよろしくない。一方の武士は仁王立ちで木造の如く微動だにしないのだ。雄雄しい雰囲気が芸者の自信の源となるのであった。皆が男三人を囲んで、何かなにかと聞き耳を立てる。透き通った空気のためか、芸者の声は遠くまで響いた。その一文字一文字を嚙みしめるように輩は鼓膜を震わせる。
「俺は時間に愛されてしまったんだ。蜃気楼というのはな、おい相棒。蜃気楼の意味を言ってあげなさい」
「へい。蜃気楼とは千年に一度しか現れない、偉大なる神通力師の事をいうのであります」
小童たちの瞳に灯火が宿った。男が武士にお礼を言おうと辺りを見渡しても、すでに武士は遠くの方へと歩いていた。追っかけようにも、小童たちやら女子どもに引っ張られるもんだから、足が動かない。かと言って、大きい声で感謝の意も表せない。それでは神通力が仕組まれたものだと悟られてしまう。せめてと思い、男は懐から青竹の水筒を取り出して、武士に放った。フサっと音を立てながら武士の足元に落ちる。武士は振り返らずにその水筒を拾い上げて、懐にしまうのであった。ちゃぽんっと青竹の水筒が、歩みに合わせて揺れる。そんなこんなで歩幅を大きくして、とある遊郭へと武士は足を運ぶのであった。
相模湾から少し離れた歩道の隅で、物乞いをする貧困層があとを絶たない。頬は同情を買うように窶れている。頬骨が隆起していて、上半身は裸。背骨が浮き出るほどの肉付きに、剰え猫背がいっそうに背骨を浮き上がらせていた。首は垂れて、小童とはまた違った下からのぞき込むみすぼらしい目で、通りかかる裕福層へとおこぼれを希う。
「これは、お侍さんじゃありませんか。それにその家紋は徳川家のやっちゃ。あんたらは多額の税をとって・・・・遊女と戯れやがって。おいおい、目を背けるなよ。俺はあんただ。なにそんな目でみてやがる。名前を変えれば、俺はあんたなんだぞ。俺とあんたは表裏一体でしょ。違うかね。あんたらが存在するためには俺がいなきゃならない。あんたらがいなくなれば、俺はいなくなる。裕福層が貧困層を産むんだよ。つまり同じ人間だ。なんて目でみやがる。動物をみるような目でみないでおくれ。同じ人間なんだって。おれが動物じゃない証拠をみせてやるよ。ほらみろ、俺は笑ってる。笑ってんだ!人間にしかできないことさ。ハハハハハハハ!」
「何が面白いんだ、乞食」
「乞食、いやいいね。俺だって好きで乞食になったわけじゃない。生きる為に盗人にでもなるか、いやはや!そんなバカなことをするくらいなら、俺は自害してやるよ。それが美しい自己犠牲ってやつだろ。そうだ、自己犠牲だ。となれば俺ら乞食の方が武士なんじゃありませんかね」
かなりの言葉遣いなどから、都落ちをした男だと思われる。何かしら商売で失敗をして、今の身なりになったのだと邪推した。乞食は笑い続けている。頭が悪い爆笑なのだが、笑う動機は賢い。
「なにそんな笑ってんだ」
「俺の人生はすべてが冗談だからさ。嘘なんかじゃない。面白い冗談だからさ。お前さんにもいつかわかるぜ。これから起きる絶望をな、お前さんは冗談だと笑い飛ばすしか、いや、笑わなければ生きていけない状況が必ず来る。俺みたいにな!ハハハハハハハハハ」
「始めて見たよ。泣きながら笑うやつをな」
乞食は涙をホロホロと落して、でも口角は上がっていた。時々笑いの間に鼻をすすって、目はずっと泣いている優しい眼だ。こんな笑いを見た事が無い。まさに矛盾が実際に現象として起きていた。前向きな感情が笑いを引き起こすのであれば、後ろ向きの感情が落涙を誘う。その二つが乞食の一つの顔で表現されている。訳がわからない。武士はそぞろと歩いて、重い足取りで遊郭へと向かうのであった。どうしたらいいのかわからない。そんな時こそ、男というものは愛する女にあいたくなるものだ・・・・
遊郭へと入る。麗らかな気分となり、先程とは違った目つきになった。狐のような吊り目から、柔和な鹿の目となる。そんな優しい目に仄かな提灯の赤い光が入射して、瞳をさそり座の目に錬金した。のらりくらりと夜鷹をかわし、お目当ての遊女の元へと誘われていく。通い慣れたこの道。女の香りが甘く漂う。大門を入って左から四つ目の色店へと、目を瞑って歩ける程の通いっぷり。嗅覚だけで、辿り着けてしまう程だ。
「おっ、山さん。今日もお菊でいいのかい」
店番が煙管をふかしながら聞いた。
「頼む」
暖簾をくぐろうと、高身長の武士は腰を曲げた。軽く口角だけを上げて、肯首する。入店すれば、首を伸ばして胸を張った。店番も武士の顔を見ただけで、煙管のヤニを捨て乍ら通す。床を一歩一歩と踏みしめる音が、高鳴る胸の鼓動を誤魔化す。部屋中の障子には煙管の苦い香りが染み付いていた。廊下の突き当りにある階段を上った先の、三番目の部屋がお菊だ。禿の案内はいらない。お菊を一人前の女にしたのは、何といってもこの武士なのだから。
「入るぞ」
「ようこそ、おいでくんなまし」
襖を開けて、かなりの近い距離であぐらをかく。少し甘いお酒をひとなめした。緊張で乾いた口を潤す。または、酔わなければお菊と話せないのだ。刀を左側に置いて、喉を鳴らす。
「神通力師がいてな。俺もこれは面白そうと思ってな、そいつを陰から見ようとね。何だって、背中に隠れた太陽が夕暮れ時なのに昇っていやがった。外は寒いし、でも昼間は暖かったからね。気候的な条件は整っていたんだろう、つまり、蜃気楼だ。俺たちぐらいの教養のあるやつならわかるがね、はなたれ小僧たちには神通力にみえたんだろうな。愛らしかった・・・ほんとに。だがな、どこにでもいる宿命に背くやつが芸者を虐めたんだ。夢を壊すような一言をな。どうも俺はそれが気に食わない。勝負ならまだしも、横やりでやっちまうのは見ててもいい気がしない。そんで、少しばかし喝をいれてやったんだ。お前はあの芸者の弟子になれとな。可愛い奴だ。泣きながら感謝してくるんよ。お菊みたいに嫋やかな体で、力仕事の漁業には向かない。内職をしようにも女や子供がいる。裏方に回ろうにも、船から降りろと言われる始末。自分でもなにかしにゃ、ならんってことは重々わかっていたんだろ。でも自分の決断では一歩が踏み出せない。誰かの責任で明日を行きたかったんだろうな。俺がその責任を背負ったわけよ。芸者になれとな。失敗したら俺を恨め、俺のせいにしろとな」
「男なのにお喋りなんて最低よ」
もう一口だけ酒を口に含んだ。赤い着物から露になったお菊の美しい鎖骨を撫でる。大きな武士の体躯にお菊は身をあずけながら耳を傾けていた。一室は七畳ほどで、薄あかりの蝋燭には虫が集る。お菊の頬の白粉が肩にもうつる。小さな頭を揺らさないように、懐から青竹を取り出した。そらから青竹を傾けて、先程に飲み干して空けたおちょこへと注いだ。
「紅差し指で、こちょこちょしてみなさい」
色気のある指先で、お菊はおちょこに静々と薬指をいれた。指先の毛細血管が海水の冷たさで引き締まる。軽く目を瞑って我慢をし、ゆっくりと瞼を開けると挿入した瞬間の波紋が青く光っていた。激しくかき回せば、見えない渦が青色へと可視化させる。飽き飽きした話を聞かされたお菊だが、急に目を丸くして声を上げた。
「信じられないわ!どうして、すごい」
大人びた魅惑が一変して、無邪気な小娘になった。お菊も久しくこんな自分をさらけ出していなかったことに気づく。遊郭に来た時から心の奥底にしまい込んでいた可愛い自分。そんなアドケナイ自分を乖離しなければ、遊女として生きていけない。生きる為に、明日を生きる為にお菊は自我を解離させて、数多の男に触られることへの嫌悪感を麻痺させていた。花魁になる事が生きる手段であり、その代償として自我の大切な感情を遊離させてしまったのだ。お菊は仕事として目の前の武士に色恋をしていたが、どうも自分の大切な感情を呼び戻してくれたことに本当の恋が芽生えてしまった。蓋し、この大切な自分を檻から出してくれたのであれば、武士に責任を取ってもらわなければならない。とは思いつつも、花魁になるために分離させた自分も自分であるのだから、いずれか二つに分かれた自分を一つにしなければならない義務感も背中を押す。閉じ込めてしまったもう一人の自分を再び施錠するわけにはいかない。かといって、もう一人の自分を出してしまえば花魁として生きられない。故にお菊は自己の開放から伴う責任を、目の前の武士に背負わせることにするのであった。
「お願い、小次郎さん。あたしをここから連れ去って。お願い、もういやなの」
「身請けするにもかなりのお金がかかるからな・・・」
小次郎が強かな手で、嫋やかなお菊の腕を取った。息を切らして小次郎はお菊という商品を強盗する事に英断。だが、お菊は歩けなかった。部屋に何年も閉じ込められていたもんだから、いざ走ろうにも走り方がわからないのだ。それに筋肉が無い。座りっぱなしのお菊には、月並み以下の筋肉量。腕を借りて立ち上がるだけでも精一杯なのだ。
「負ぶってやるから、俺の背中にのりな!」
何度もお菊は小次郎の肩に手をかけるも、結核を患っていたことから思う様に力が入らない。興奮をすると病気が悪化していく。結核になることは、一人前の遊女として認められた証拠という常識があったので、大抵の花魁は病的であった。食欲は失せていき、顔はシュッと細くなる。それが美しさを呼ぶもんだから、畢竟、出産をするための脂肪を売り払って美を手にした女というわけだ。それがお菊であり、今更に大地の母として生きようとしても、大地はお菊を拒む。故に小次郎の大きな背中に身をあずけようとすればするほどに、体調が頗る付きで悪くなるのであった。
残酷的な状況に、お菊は目頭を熱くさせた。そんな部屋の騒がしさを聞きつけた用心棒が駆けつける。
「何事だ!」
襖を開けると、二人は肩車をしようとしていた。
「お菊は最近な、酔いが回ると泣き上戸になるもんでな。慰めているのさ!俺は年を取ればとる程に笑い上戸になるもんだ。こりゃ、騒がしくてすまねーな」
葵の三枚を見て嫉妬を覚えた用心棒が、小次郎の髷を掴んで頭を揺らした。小次郎はそれでも笑わなければならない。でなければ、怪しまれてしまう。お菊は頭を揺らされて、弄ばれている小次郎を見て怒りを覚える。歯を食いしばり、今にも唇を噛み千切りそうなほどの忍耐を試された。ここで憤怒に身を任せれば、小次郎の演技が無駄骨になる。蓋し、小次郎がどれだけ武士としての誇りを守っているのかは、長年付き合っているお菊だからこそわかるものだ。自分のせいで小次郎の武士道精神を汚していることに、落涙をするのであった。
「徳川家のおさむらいさんね。もう幕府は終わるよ。お前らのやり方は間違ってる、嗚呼、まちがってんだよ。富が一極集中されるやり方はな、そうか、責任が重いから富が重いとでも言うか。それに西洋に遅れをとってんのもお前らのせいだよ。ちっぽけな武士道とやらの根性にペコペコしてるせいでな、日本はどんどん西洋に脅かされる始末よ。何か言ったらどうなんだ!」
「ハハハ!すまね、すまねぇな。ハハハハハハハハハ」
青竹を奪い取った用心棒は、小次郎の頭にそれを傾けた。高笑いをしながら小次郎は服をびしょ濡れにさせた。頭皮の毛穴がキュッと締まる。小次郎の鬢を濡らして、水を吸収しきれなかった黒い髪から海水が滴る。頬をなぞって、笑窪に水が溜まった。冷たい、それを堪えるよりも悔しい感情を卑屈な笑顔で隠した。
「やめてください!」
お菊が用心棒の袴にすがる。袴には煙管の苦い香りがしみついており、お菊の嗅覚をイヤにさせた。それでも小次郎は笑い続けた。
「今晩俺のとこにこい。そしたら、この武士を可愛がるのはよそうかね。かわりにお菊を可愛がってやるよ」
「おっしゃる通りにします」
一室は静まり返った。用心棒が部屋を後にすると、お菊は涙を流してもう一人の自分を檻に閉じ込めるのであった。そうしなければ、小次郎の武士道を守る事ができないと英断したからだ。お菊が強い女である事は明らか。何でも小次郎はいい気持ちがしない。
「あの男の寝床へ行くのはよしてくれ。それだけはだめだ。お菊はそれでも行くというのであれば、俺はこの刀であいつを殺すまでよ。それはお菊のためじゃない、俺のためだ。おれの武士道を汚したからな」
「嘘よ、そんなの嘘よ。小次郎さんが自分の為に抜刀する男じゃないことぐらい知ってます。あたしを身請けしてちょうだい。それまでは、大切な自分を閉じ込めておくから。でも今度は違う、大切なあたしとあたしは約束をするの。小次郎さんが檻から出してくれる、だからそれまでの辛抱だとね。必ず次に来るときは身請けの契約書をもってきてください。そんな顔をしないで。他の男と寝るあたしはあたしじゃないから。本当のあたしはあんたのものよ。ずっと閉じ込めておくから安心して」
拳を握って、小次郎は襖を開けた。濡れた畳はお菊の泪と、夜光虫の入った海水で色を変色させていた。夜虫の鳴き声がふたりを切なくさせた。仄かな光で、お互いの顔がぼやける。小次郎は顔を向き直して、背中を向けた。鯔背な姿にお菊は胸を震わせる。行かないで・・・そんな言葉を綺麗な舌で形作るも、一生懸命に喉を硬直させて声を殺した。変わりに小次郎の背中に前向きな言葉をかけた。
「刀で命を取る武士を辞めて、刀で笑いを取る芸人になりなさい!」
嫌われる勇気を持った一言。遊女だからこそ、芸がどれだけ大金を早く手にする事ができるのかを身をもって存じていた。だからこその助言であった。背中を押されて、小次郎はお菊の部屋を後にした。哀愁を身にまとい、目はしょんぼりとしている。首は垂れて、猫背気味に肩が丸くなった。禿の案内に進行方向を任せて、玄関へと足を運んだ。
「おや、もう帰るのかい山さん。お菊は上級遊女の部屋モチだから、二両といったところかね・・・・おっ、気前がいいね。まいど!」
懐に手を突っ込んで、小判をジャラジャラさせた。暖簾を艶美なオデコで押して、ハッと何かを思い出したのか、太い首を曲げて店番に尋ねた。
「そういや、お菊を身請けするにはなんぼなんだ」
「五百両」
何も言わずに向き直して、店を後にした。まるで、小次郎が身請けの金額をいつ聞いてきてもいいように準備をしていた雰囲気があったからだ。即答で身請けの金額を答えられるわけがない。剰え、店番ごときが。いじらしい想いで、小次郎は遊郭を出る事にした。
いつからか、小次郎の目線は地面ばかりを見る様になった。だから余計に物乞いが眼につく。のらりくらりと小次郎は自分の家へと帰宅するのであった。
小さな門を押して、施錠をする。辺りは緑に包まれており、松の木や杉の木が植林されていた。青々しい匂いが口の中をいっぱいにするほどの緑。門を入って、右側には大きな池がある。綺麗な錦鯉が何匹も泳いでおり、小次郎は手をこすって手あかを餌として与えた。まるで乞食をみるような目で、錦鯉を見下すのであった。門からは玄関までの道に敷石が敷き詰められおり、小次郎の身長であれば地面に足をつけずに玄関までいけるはずだ。蓋し、落ち込んでいるのか、歩幅が小さくなって敷石と敷石の間の地面に足をつけてしまう。
ガラッと戸を開けた
「こんな時間までどこをほっつき歩いてたんだい。このバカ息子が!」
「ハハハハハハハハハ!面目ない。面目ない。母上殿、小生はよっているのでございます」
口を開くと確かに酒くさい。笑い上戸なのはお母さんも知っていたので、奇怪な笑い癖には気にもとめないが、しかし、目が泣いていることにどこか同情を覚えるのであった。
「飲まなきゃやってらんないんだろ、あたしの可愛い息子」
「ほら、母上様。こんな遅い時間まで起きていましたら、お体に触ります。お風呂は入りましたか。背中を流しましょう」
お母さんの腰を支え乍ら、小次郎は帰宅した。部屋中の襖には虎の絵が描かれており、大広間には雉や鶴がいる。今は亡きお父さんの部屋は大きな虎が一匹と、鳳凰が描かれいた。この部屋を小次郎は使っている。お母さんの部屋は殺風景で、それも一人で眠るときに怖いというので障子をまっさらにしたのだ。だが、武士の妻としての威厳を持たせるためにも小次郎は絵師に頼んで金箔を塗る事を命令した。だから、お母さんを寝かせようと襖を開けると、辺りは目を満腹させるほどの燦然たる神々しさがあった。布団を敷いて、掛け布団をかけてやる。羽毛布団が老衰したお母さんを柔らかく包み込んだ。
「すまない。女中を雇えるほどの金はないんだ。最近は財政が悪いのかなんだかしらんが、あんましお金がない。今月の食事代もギリギリでな。母上、来月分はどうしようかね」
小次郎は腰を下ろして、母親を寝かしつけているつもりだった。
「来月分は何とかなるからきにしないのよ。あんたは武士を貫きなさい。あなたの君をお守りなさい。あなたのお父さんも立派に殉職をしたのだからね。その覚悟であたしはね、武士の妻になったのよ」
「何とかなるだって!ハハハハハハハハハ。ハア。はあ。何とかならないよ。もう、俺の仲間たちは商売に走っていやがる。寺子屋時代のときに学んだ微分積分学を利用してな、商売だって大成功させてんだ。西洋にもまけてない。俺も武士をやりながら、商売をしてもいいかね。漁業に目をつけてんだ。なぜか。それは江戸の人口が急激に増えたもんだから、ここ相模でも漁業が活発化したからだよ。発展途上国の地域の方が、新しいものを受け入れやすい性分があり、先進的な都会は保守的になるんだ。そこを漬け込んだ策略よ。だから相模湾で商売をしたら、暮らしがよくなるよ。俺たちだけじゃない。貧困層も多少はよくなるさ。生産性のない武士はもう終わりましょうよ。貧困層がかわいそうだ」
「ばかおっしゃい!いけません、いけませんよ。社用族になんか・・・・お父さんに合わせる顔がありません」
生きる為には根性をすてるしかないのだ。ちっぽけな根性を売れば、多額のお金が手に入る。だが、その根性が生きる意味でもあるのが難しい所だ。身体と心が別々だから、小次郎は泣き笑いをするのだろう。このまま話していても平行線のままなので、寝室を後にした。亡き父の部屋へ入ると、何故か父の刀が無い。押入れを開けてもない。部屋中を探し回ってもない。
「おい!母さん。父上の刀がないぞ。何故だ」
母は布団に潜って顔を隠した。
「怒らないで。おこらないで」
「ああ、怒らない。話してくれ」
「来月分のお金にしました」
刀を売っても武士は続けろという合理性のない母親の考えに憤慨する。母は仲間の武士たちの堕落に頭がおかしくなっていた。言っている事とやっている事が違うのだ。それに振り回されている自分が悔しくてしかたなかった。
「でも、あんたは徳川家に使えているのよ。たとえ、情勢がわるいとしても。君主とともに死になさい」
「だったら、父上の刀を売る事はないでしょう。なぜですか。刀を質に入れるなんて侮辱も同然。なにが武士の妻の覚悟だ。嗚呼。そういうことか・・・・ハハハハハハハハハ!」
老婆は目を丸くした。気でも狂ったのかと見張る。一分、いや二分ちかく笑っている。
「どうしたんだい、なんでそんな笑ってんのよ」
「面白い冗談だからだよ、母さん!だって、言っている事とやっている事がちがうんだ、それって嘘でもなければ気が気じゃないわけでもない。いやはや!じゃあなにか、そう。冗談なんだな。面白い冗談だ。心は武士でも身体は動物さ。俺たちは心を優先させるよりも、何だかんだいつの時代も身体を優先させて生き続けたいんだ。わかるか、自分のやっている事と言っている事が違うのはそういうこと。武士でも農民でも貧困層も遊女もみんな生きたい、そんな動物的な最優先を心という二の次で覆ってしまうわけか。外は綺麗で中は泥沼。自己欺瞞万歳!自己欺瞞万歳!俺はただ、自己欺瞞で死なない様に、そして武士道も殺さない様に男一匹が命をかけて訴えているんじゃないか。それなのにどうしてさ・・・ハハハハ!」
「出ていきなさい。あんたみたいな気の違った男はあたしの息子じゃありません。出ていって」
「ハハハハ!」
小次郎はあてもなく家を後にした。それから二度と家に帰る事はなかった。何故なら、今の母親は根性を売り飛ばして生きる資金に還元できる了見だからだ。やはりこういう時ほどに愛する女に会いたくなるもんだ。きづけば小次郎は遊郭へと戻っていた。いつも泣いているような目をして、いまはただの孤児となり、あと一歩で乞食だ。孤児は自由で、孤児に失うものはない。いつもの色店へと無意識に入り、暖簾を顔面でのけた。
「おや、山さん。どうなさったんだい」
うたた寝をしていた店番を見て、思わず小次郎は笑ってしまった。何故か、笑ってしまうのだ。でも目は泣いていた。
「忘れものです。すみませんね。はあ。ははは」
禿にも不気味な笑みを送り、すれ違う他の客とは肩がぶつける。
「おい!おまえ、どこ見て歩いてんだい」
「ハハハハハ!」
危ない男だとして、ぶつけられた男は小次郎を無視する事にした。お菊の部屋の前で、足踏みをする。酔いがさめたのか、緊張して襖を開けられない。それに、手土産もないので話の話題が無い。お菊の乳房に飛び込みたいが、何かしらの理由が無ければただの変態になってしまう。慰めてもらいたい。少し臆病になって小次郎は、襖に耳を当てて様子をうかがった。自分の服が障子に当たったり離れたりする擦れた音が敏感に鼓膜を震わせる。ゴソゴソっとした摩擦音を搔き分けて、お菊の声でもなんでもお菊の音を探してみる。それだけに聴覚を集中させた。
「もっとあたしをおかしくて。もっと気持ちよくして。そう、強く抱きしめて。用心棒さん。あんたはあたしの用心棒になるのよ。いいわね、もっと接吻して。つよく噛んでよ。あたしもかむから。いいわね、あたしを身請けしてちょうだい。お願い。お金をたくさんためて、二人で遠くに行きましょ。あたしはもう、あなたのものよ。用心棒さん」
「そんなに激しく接吻をされれば、唇がフヤケテしまうよ」
襖の奥には動物が二匹いた。鯉口を切る。だが、抜刀してもしかたない。小次郎は斯様に思った、
「これも冗談か。裏切りじゃない。嘘でもない。事実でもない。これは面白い冗談だ!心を二の次にしているくせに、心を最優先にしている的なふりをしている馬鹿どもめ。人間は動物なんだよ。野生を最優先にさせてることにどうして気づいてくれない。ちっぽけな根性にペコペコしやがって!」
と。
静かにその場を立ち去って、店を後にした。
「ハハハハ!」
なんて声が永遠に鳴り響くのであった。行く当てがない。遊郭を千鳥足で彷徨っては、小さな石に躓く始末。人の目が怖くなり、気づけば小次郎は裏路地に迷い込んでいた。非常に寒い。手をこすり合わせて、能る限りにみすぼらしい体躯を温める。唯一に人間だけが許された二足歩行も限界だ。色店に寄り掛かって座り込む。刀の先が壁に当たり、ズルズルっと鞘を摩擦させた。微笑しながら小次郎は天を見上げる。久しぶりだ。下を見て歩くようになってから、満月とは何とも言えない対面であった。望月がフワフワと小次郎を笑っている気がして、自分も笑い返していた。
「ハハハハ。はあ、はあああ」
「あんた、二四文であたいを抱いてみないか。わるくないだろ、ここでいいよ」
折角あげた顔を下ろせば、若い夜鷹が色を売りに来ていた。白粉を顔にふんだくり、細目の一重まぶた、地味なババ臭い着物を召して、風情の無い女であった。風情のない情交は、単なる野性的な繁殖行為である。蓋し、女も生きるためには色を売るしかないのだ。それにこの夜鷹は、半紙に墨汁をまいたような小次郎に色をつけたくなったのかもしれない。
「なんだい、ハハ!俺に色を売りに来たのか。それよりもお前さんの方は色がないじゃないか。青白い肌をしてやがる。俺はそっちの方が心配だな。飯食ってんのか?近くの二十八蕎麦屋でもいくか。お前たちの母の味ってやつだろ。ハハハハ!」
「あたいを買うのか買わないの」
ヤケッパチに小次郎は夜鷹の服を引き裂いた。露わになった肌にも白粉が塗られており、よく近くで見れば頬はやつれて病的な美しさがあった。湶の骨が見えるくらいの瘦せた体付きで、乳房は殆どなかった。色を買った小次郎は、殊にその色は梅のような赤色であった。
「二四文だな、ほらよ。安いね。お前さんは良い女なのに安いね」
「やすい理由はそのうちわかるよ。あんたも大変だね、お侍さんほどばかを見るんだよ。覚えておきな」
引き裂かれた服を片手で抑えて夜鷹は小次郎を後にした。刹那に酔いしれて小次郎は、その場で一夜を明かすことにした。
鴉の夥しい鳴き声で目を覚ます。目ヤニが上瞼と下瞼の睫毛を接着していたので、目をこすってから開ける。隣にはあの蜃気楼を披露した芸者が隣で座っていた。小次郎の無防備さに唖然として一晩中見守っていたのだ。
「おはようございます。旦那、大事な刀をこんなとこに置いて寝る武士さんがいますかね。お礼を言おうと追いかけたんですがね、小娘やら小童どもに囲まれてしまったもんでしてね。どうも、遠洋漁業から帰ってきた漁師さんたちにも歓迎されたもんで。ちょっくら用を足しに行く定で旦那を追いかけたんですよ。でも見つからない。途方に暮れてたら路肩で物乞いをしている乞食に教えてもらったんですわ。何だって、遊郭で癒されにいく男の顔をしていたとかなんとか。乞食の情報しか頼りがなかったもんでね、来てみればかなり美人の夜鷹に声をかけられましてな。五文だけあげて、旦那の居場所をきいたまでです。 あの武士は可愛いそうなやつで、初めて泣きながら笑って犯す男を見たよ、正直な男だから、あたいが梅毒を患っているのを白粉で隠しているのも見抜けずにあたいを抱いたんだ、無理もないさ、夜で暗いからね、でもあんたさ、友達なら助けておやり・・・とね」
鯉口を小次郎は切った。武者震いをしている。刀は震えて矢先は三枚の葵が刻まれた胸に刃先が当てられた。ポツリと大粒の雨が刀に落ちた。太陽は曇天に覆われて、珍しい通り雨がきた。眩い光と同時に雷が近くに落ちた。ドドん!っと。
「旦那!はやまっちゃいけない」
「はっはははは!もう武士はやめだやめ。徳川に仕えてなんも幸せなことはなかった。ハハハハ。いや、幸せになるのが怖かったのかもな。この家紋。徳川。もうやめだ。心を優先して生きるほどに厳しいことはない。人間性を開放するほうが楽だ。落ちたい、楽になりたい」
目にも止まらぬ速さで小次郎は、葵の意匠された模様だけを切り刻み、いや、長い刀で自分の身体に傷をつけずに並行に三往復させてから髷を落とした。早すぎる、これこそ小次郎が日々に積み重ねた鍛錬の成果。
「嘘だろ、旦那」
あぐらをかいた小次郎の足元には、艶多な黒髪が散乱している。袴には雨水が染み込んでいく。だが、雨すらも忘れてしまうほどの摩訶不思議な技が披露されたのだ。芸者が見たのは刃先を当ててから、鞘に刀を納める始まりと終わりだけだ。その間の過程は、葵の三枚が切れている事実と、落ち武者になった小次郎の頭という現実。春の温かい風が頭皮に残された鬢を靡く。落ちた髪はどこか遠くへ飛んで行った。ひゅるりひゅるりと低い燕が、二人のあいだを通り過ぎ、反転をして再び二人の間を裂く。燕はそれを三回ばかし繰り返した。
「これが燕返しだ。俺の名前は佐々木小次郎。お前さんはなんて言うんだ」
「旦那、あっしは名前がないんです。孤児です。親に捨てられたもんで、名前がないんですよ。面目ない」
威厳よく立ち上がった小次郎は、落ち込んでいる芸者の肩をたたいて、強く腕をつかんだ。肩が脱臼するくらいの勢いで、芸者を立ち上がらせる。背中に朝日を背負った小次郎が神々しく見えて、さっきの通り雨が嘘のようであった。
「旦那、まるで稲妻だ。稲妻の如く手を動かす技、あっしが命名してもいいですかね」
「燕返しはつまらんからな。かまわない、申してみろ」
「旦那は武士ではなく、手妻師です」
固く二人は握手をしたが、二人の手の甲に赤い血が舞い降りた。吐血だ。小次郎は、遊女のお菊から結核をうつされていた。剰え、夜鷹にも梅毒を移されているもんだから、身体がもたなかった。足ががくがくに震えて、だが眉に力を入れて踏ん張った。
「無理しちゃいけない!早く町医に診せないと。旦那座ってください」
「いや、座らん!お前はここから逃げろ。そのうち俺は死刑になる。何故なら俺は徳川さまを裏切ったからな。俺の事を探しているのはおまえだけじゃない。そのうち俺は見つかる。それに、母親をすてた罪も大きい。ましてや葵の三枚を切り刻んでしまったからな。これは立派な反逆行為よ。それに愛している女に病気をうつされて、しまいには愛を忘れてしまった女に性病まで・・・だから俺を変に生かさないでほしい。それは、武士の根性じゃない。そんな馬鹿な意味じゃない。恥をかくくらいなら罰を受けた方がいいなんて事もありゃしない。いつの時代だって人は生きたいんだからな。俺は死を見つけたわけでもない、死に急いでいるわけじゃない。俺は生きるのだ。どうやって生きるか、俺の名前をお前にあげるのさ。そして、この刀も全てをお前にやる。お前は今日から佐々木小次郎だ!」
男は表の通りへと駆けた。
「見つけたぞ!」
丸腰の男はとっつかまった。小次郎は落ち武者が連行されているのを何とも言えない気持ちで見つめ続けるのであった。物陰から隠れて。伏し目の男が裏路地あたりまで歩かされると、ゆっくりと顔を上げて右を見た。小次郎と目が合う。男は綺麗な笑顔を小次郎に送ってから再び顔を下に向けるのであった。