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月のため息  作者: 綾 水桜斗
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一章


見つめても、月は睫毛(まつげ)を転がる。追いかけても、月は睫毛をすり抜ける。瞳は夜に染められた。急に目頭が熱くなり、眼圧をかけて堪えるもホロホロ涙は落ちてゆく。月の光に染められた頬は、(こと)に涙で白粉(おしろい)が奪われた。こしょばく首をなぞってく。白い泪は、しらつく胸の谷間に消えていった。

「あいたい」

 音子は(うつむ)いた。声も白く染まる。音子は白馬のように、白い息を切らした。月へと帰る白馬は、気圧をされて雪となる。言葉は雪となって音子に舞った。

後頭部に降り積もる。鼻をすする度に黒髪の上の雪が、横顔を冷たくして落ちてゆく。顔を上げれば、うなじを伝って服の中に入り込む。(えり)白粉(おしろい)を含んだ(みぞれ)は白く染まっていた。ひゃっこい。ブルっと身震いをし(なが)ら、自室へと戻る。

「また外に」

 母が心配そうに聞く。

「いけないの」

 (にべ)も無く答えた。一瞥(いちべつ)もくれない音子を横目に、母は部屋を後にした。障子が締まり切る音を確認してから、音子は顔を上げた。辺りを見回し、火桶を囲んで指を温める。焦げ臭い。髪に匂いがつくので距離を置く。次第に指先の毛細血管がじわじわと広がり、むず痒さを覚える。指の腹をこすり合わせて、こそばゆさを誤魔化した。

 机に向かって座り直し、帳面を引き出しから取り出す。杉の木の香りが広がった。鼻をすすり乍ら、音子は帳面を開いた。

沈黙(ちんもく)に (つき)のため(いき) ()(ひび)き 見上(みあ)げた(さき)は かぐや(ひめ)とぞ」

 口元が(ほころ)んだ。筆跡は男性的な角々した字。どこか骨のような雄雄しさが感じられる。お返しに音子も筆を取って(したた)める。

男前(おとこまえ) 綺麗(きれい)(かお)に ()せられて (ほお)()まりし (あかつき)なるる」 

 筆を舐めた。苦い。口は綻ぶ。目は垂れて、瞳が何往復もする。筆跡は女性的な丸々とした字。どこか桜のような雌雌しさが感じられる。二句を眺めていると、言葉と言葉がじゃれ合っている様だった。時が経っても老ける事は無く、誰にも奪われない確かな事物に安堵(あんど)を覚える。

「ちょっと」

 一寸だけ襖を開けた母が言う。落ち着きを払って音子は帳面を片づけた。焦燥したら母に恋をしている事を悟られてしまう。だから振り向かずに(ささや)いた。

「なに」

「なにじゃない。明日は縁談よ、床にはいりなさい」

「いいのよ」

「なにがよくて」

 寝支度をする素振りを見せたので、一寸開けた襖を閉じる。バタンという音を確認した音子は、子猫が主人のお皿から魚を奪い取る慎重さで引き出しを開ける。杉の木が香る。机上に静々(しずしず)と置いて、其れを隠すように着物を脱ぎ捨てた。温もりが覆い被さる。急いで押入れを開けた。敷布団を火桶の近くに敷いて、毛布と枕を投げる。寒い〳〵とつつめき乍ら、布団に包まった。音子の体温が毛布の中で閉じこもる。柔らかい毛布が(あら)わになった肌と擦れるのがたまらない。ぬくぬくを惜しんで、寒い世界に手を伸ばす。音子は(あた)る限りに伸ばして着物を落とした。引きずるように帳面も落ちる。其れを拾い上げて、ぬくぬくの世界へ連れ込む。

 頭から布団をかぶって、だが光を入れる様に隙間をあける。頬は紅潮とし、身体も火照(ほて)ってきた。

「あんた」

 母親が一寸だけ襖を開けた。 

「なに」 

 音子はひょっこり顔だけを出す。

「着物は脱ぎっぱ、明かりはつけたまま、白粉は落したのかしら」

「はいはい」

 濡れた中指を布団で拭きながら、起き上がる。しんどさを顔に出したら面倒なので堪える。寝間着を羽織ってから自室を出た。音子の襟白粉を母親は落してやる。音子が着物を畳んで明かりを消した事を確認し、それから母親は眠りにつくのであった。

(けだ)し音子は寝つきが良くない。息が苦しくなっては顔を出し、寒くなっては(こも)る音子。特に(うし)()つ時は、恐ろしい程の寂しさが襲ってくる。布団は小刻みに震えていた。涙ぐんでくる。音子は一生懸命に恋人との妄想に(ふけ)るのであった。

「あいたい、あいたい、あいたい、あいたい。あいたい、あいたい、あいたい・・・」

 羊を数えるように会いたいと繰り返して、(こと)に音子は百回目に寝落ちした。もちろん、恋人の夢を見る。それに寝つきが悪けりゃ、寝起きも(しか)り。

「起きないの」

「起きてる」

「起き上がって頂戴」

 まだ薄暗い早朝。(すこぶ)る付きで寒い。出たくない。でも五月蠅(うるさ)い。母を不機嫌にしては、自分に不都合。故に従順な態度を示す。

「ほら浮腫(むく)んでる」

 母が皮肉った。

「あっそ」

「早く寝ないから顔が」

「いいの」

 音子は遮った。

「よくないから」

 濡れた手ぬぐいで音子の顔を拭いてあげた。布団の上に正座をしている音子は、肩から毛布をかけている。目ヤニを取ってあげるが、目頭にいつもより溜まっていた。

「泣いたの」

 心配そうに母が聞く。

「知らない」

 音子は手拭いを奪った。下を向きながら目ヤニを取っていると、帳面が布団から顔を出していた。さりげなく足を組み替える定で、音子はお尻で踏んづけた。母親が部屋を出てくれるのをどんなに(こいねが)った事か。背中は焦燥で汗ばんでくる。音子が一人で身支度を始めたのを確認した母親は部屋から(ようや)く出た。

 ()ぐに帳面を机上に置く。首を曲げて外を見れば、月がまだ消えていなかった。朝の月は白くて綺麗。なごり月。恍惚(こうこつ)と音子は見続けた。だが急に上瞼を引き上げる様に目を見開いた。筆を取って、一句を認める。

白夜(はくや)(づき) 未練(みれん)がましく 居座(いすわ)って 千代(ちよ)八千代(やちよ)の (わか)れを()しむ」

 隣にある二句を何度も読み返しては、こわばった顔を綻ばす。胸は高鳴り、手首の脈は強く打つ。恋ぐるしい時は手首が締め付けられるのが常であった。息が上がり、肺呼吸になる。鼻で軽く息を吸う。御御(おみ)御付(おつ)けの香りが障子の隙間からもれてくる塩味を嗅ぎ取った。

 引き出しに帳面を閉まって、音子は部屋着を羽織る。朝ごはんを食べようと、部屋を出た。

「お相手の御家までの道は覚えてるの」

 母は配膳をしながら聞いた。齷齪(あくせく)している。

「たぶん」

「多分じゃないでしょ」

 笑って音子は誤魔化した。(せわ)しい朝に其の態度はないだろうと言った顔で母親は眉間に皺を寄せた。

「まったく。お父さんは出先に行って今日もいないっていうのにね」

「へいきよ」

「平気なの」

 面倒くさい怠惰が後押しをした判断。だから、音子の平気を怠惰で信用した。音子は御御御付けを手に取った。野菜が沢山入っている。見ているだけで美味しそうだ。

「あついの」

「すこし」

 これっきり会話が続く事はなかった。


 冷たい風が肌を刺す。音子はお見合い相手の実家へ向かった。雪道をそぞろと歩く。溶け始めていたので、一面を薄く覆う程度しか積もっていなかった。ぬかるんだ道を歩き、音子の足跡は黒糖のような色を浮かべる。少し迷ったが、運よく家に到着。目印があったからだ。

「あら!初めまして。綺麗な召し物ね、お美しい限りです」

 相手の母親が門の前で迎えてくれた。一等の着物を召している。音子は敗北を覚えた。

「初めまして。佐々木音子と申します。何卒宜しくお願い致します。お母様の着物も素敵ですわ。蓮の花を流す意匠(いしょう)の方が素晴らしくてよ」

「そんなことないわ」

 言われ慣れしない笑みを浮かべて母親は照れた。身長は然程変わらない。庭で女中が雪をかいている。音子に一礼をしてから、手をまた動かした。対して音子の一礼は浅かった。手で裾を上げ乍ら玄関まで歩く。他愛もない社交的な挨拶に付き合い、ボロを出すまいと必死になった。

「お邪魔します」

「あがって頂戴。寒かったでしょ。お風呂にでもはいります?」

 いやらしく聞いてきた。

「えっ」

 これがお見合いなのだと、疑うこと無く音子は言われるがままに従った。風呂場へ案内をされて、殊に母親はその場を後にした。無知な音子は、断れずに湯船に浸かった。失礼なので早めにあがろうと、立ち上がる。

「あたしも入るわ」

 ガラッと戸を開けた母親。音子は咄嗟に乳房を隠して湯船に戻った。

「あら、気にしないでいいのよ。背中流してあげる」

「えっ。でも」

 音子は怖くなった。

「流すだけよ。こっちきて」

 従うしか無かった。拒絶した時の恐怖を避けたい。音子は能る限りに隠してしゃがんだ。でも、性器を優先的に隠すもんだからお腹の古傷が露わになる。

「その傷はどうしたの」

「ちょっと、火傷をしちゃって。後が残ったんです」

「そうなのね」

 母親の態度は一変した。音子は風呂から上がらされて、不躾(ぶしつけ)な態度で居間へ案内された。そこには既にお見合い相手があぐらをかいている。かなりの年上だ。音子の九つ上である。煙管(きせる)をふかして、音子をまじまじと見つめた。品定めをするように。

「初めまして、佐々木音子と申します」

「知っている。まあ、座れ」

 ヤニをすてながら、目で合図する。ここに座れと。

「今日は歌舞伎にでも行こうと考えてたんだがね、どうも雪が溶けて道がぬかるんでいやがる。今日はやめておこうか。また今度にしないかね」

 煙を音子にかけた。

「おっしゃる通りです。お任せ致します」

 音子は帰らされた。無垢な音子はお見合い相手の言葉を真に受けている。玄関まで見送りに来る者は皆無。

「お邪魔しました」

「きーつけてな」

 声だけが見送ってくれた。これが嫁ぐということなのだと、音子は少しだけ女の性分を恨むのであった。帰路の途中に母親と出会った。母親は買い出しに市場へ向かう途中だったのである。

「あら、早いわね」

「今日は道が悪いから、今度にしようって」

 母は呆れた顔で囁き、先を歩いた。

「フラれたのね」

 意味がわからなかった。音子の顔はかなり美しい方だ。それは自覚している。それに、礼儀作法も尽くしたつもり。負けたのは着物の値段だけで、他はすべてに勝ったという過信しか無かった。悔しいので音子は問い詰める事をよしとした。

「しらない。買い物いくの?なら、ついていく。まってて」

 母親は振り返って不思議そうに尋ねる。

「家に戻るの」

「そう、お小遣いもってく。金平(こんぺい)(とう)がたべたい」

 母親は二度手間な気もしなくはなかったが、音子の好きなようにさせた。何をしてきたかを問い詰めたいが、音子は都合よく話すので言動から分析する事にしたのだ。音子は走って家に戻る。靴を脱ぎ、小さな歩幅で机の引き出しを開けた。そして、帳面を取り出し(ふところ)に隠した。颯爽(さっそう)と家を出る。母親の小さな背中を確認して、速度を緩めた。

「ねね、お見合いの時にお風呂に入れさせられるのって普通なの」

 母親は唖然とした。歩みを止める。

「えっ、脱いだの?」

 母親が真剣に聞いてくるもんだから、音子は自分に非が無い事を強調した。

「怖かったもん」

「よかった、そんなとこには行っちゃいけません。なにが良家よ。お父さんの調べ不足ね」

 母親も母親で、自分に非がない事を強調する。情報が悪いのだと。二人は、自己(じこ)欺瞞(ぎまん)を隠しながら他愛もない話で市場へ向かった。白い息を切らして、二人は市場に到着。母親は食材を買いに左手へ、殊に音子は金平糖を買いに右手へ。音子と母親はこの分かれ道で合流するのが常であった。迷子になるほどの人込みでも無ければ、広さでもない。

 音子は手首の痛みを覚えた。緊張する。鼓動が高鳴る。金平糖屋さんが見えると、だんだんと胸も締め付けられていく。蓋し、店の周りに女子(おなご)が沢山いると心臓はおとなしくなるのであった。前髪を整えて、女子どもを搔き分ける。甘いものが好きで店に来ている奴はどうでもいい。そんな態度で店へと入る。

「いらっしゃい」

 音子よりも三つ上の綺麗な男が迎える。音子は目を伏せる。合わせられない。生暖かい帳面を取り出して、相手の胸に押し付けた。沢山いろんな事を話したい。それはもうどうでもよかった。今は触りたかった。それは男も同じである。

「音子、こっち来な」

「いく」

 店は他の人に任せて、二人は奥に入って行った。誰もいないのを確認すると、強く音子を抱きしめた。音子はウっと(うめ)く。乱暴に接吻した。音子は緊張して唇も舌も固くこわばった。フヤケル程に接吻して、二人はつよく抱き合う。

「いたいよ、(いさお)さん」

「すまない」

 自分の唇を舐め乍ら、勲は帳面を開く。恥ずかしくて音子はそっぽを向く。

「いい二句だね。素敵だ。音子は本当に可愛いよ」

「照れる」

 勲は机上に置いてある筆を取って、お返しをした。

太陽(たいよう)は (つき)()らして ()れさせる ()れない(つき)は 新月(しんげつ)ならざん」

 わざわざ帳面を閉じて渡した。音子はそれを見ない。この場で見ない。其れが音子の楽しみであった。(いさお)が作った時間は僅かなもので、立ち上がり乍ら音子の髪を撫でた。

「もう行くの」

 音子は目頭を熱くさせた。

「もう少しだけ話せるかもな」

 音子は必死に話題をつくった。

「きょうね、お見合いだったんだけどね。お風呂に入れられて、向こうのお母様に身体をジロジロみられたの。火傷の事を聞いてきて、なんかそれから態度が冷たくなったのよ」

 必死な音子を優しく抱きしめた。嫉妬を覚えそうになったが、束縛欲が上回った。

「音子の身体を確かめたんだよ。火傷があったから、不健康そうって判断したんだろうな。その傷って俺がつけたやつだよね。確か、二人で小さいときに焚火に当たってたら火が飛んできてね。それが音子の服にかかって、大変だったな。俺が音子をおんぶしながら町医さんに診せたんだな」

「そう!」

 二人は時間を忘れて、彦星と織姫になった。

「なんだって、肉は戻らないとか言うからね。責任取って俺は挙手したんだ。俺の肉を使えと。そしたら、少し凹むけどいいかと念を押してきた。俺は怖くなったよ。けど、お尻の肉だから良きかなと。いや、音子を愛しているからそんなことはどうでもいい。あんまし大きな声ではいえないけどな」

 勲は表へ向かった。

「もっと話したい」

「その傷のお陰で、お見合いは失敗となったわけだ。よきよき。俺も早く丁稚(でっち)から解放されたいよ。自分で商売ができるようになったら、音子を奪い去ってやる」

「安心して。結婚しても会いに行くから」

 勲は苦笑交じりで店に戻った。音子は裏門から出て、母親の元へ戻る。母親を探す。見つからない。道中に音子はハッと気づいた。金平糖を買ってない。急いで裏門から戻ると、勲は他の女と接吻をしていた。

「聡子さんは本当に可愛いね。なんなら、寝室に行かないか。店は任せてしまえ。おいで」

 自分の母親が勲と(ねんご)ろになっていた。浮気された、不倫をしている。二匹の動物は二階へと上がる。吐息交じりの甘い声が聞え始めた。身体が妙に震える。帳面にも振動が伝わる。音子は震えた。寒いからではない、寂しいからでもない、興奮しているのだ。貧血気味に視界が暗くなる。それでも音子は踏ん張った。裏門から店の中へと入り、金平糖を手に取った。金平糖が震える。

「五文だよ」

 店番が言った。懐から巾着袋を取り出して、五文取り出す。掴めない。震えて握れないのだ。巾着袋ごと渡して店番に取らせた。

「はい、五文ね。まいど」

 眩暈をしながら店を出た。

「まてまて嬢ちゃん。金平糖忘れるバカがどこにいるんだい」

「あっ」

「あっじゃないよ。気は確かか」

 店番は少しかがんで音子と目線を合わせる。焦点がどうも合わない。帳面だけは大事に持っているのだが、金平糖は今にも落としそうだ。

「親御さんはどこさ」

「しらない」

 追いかけるように店番は聞く。

「しらないじゃないよ。不思議な嬢ちゃんだ。店の前に座っていいから、(しばら)くそこにいな」

 二足歩行がやっとな音子は、地べたにしゃがんだ。顔色がわるい。青白くて、目は一等黒くなっていた。身体も震えている。カタ〳〵と歯も震えた。店番は音子を白痴だと頓悟(とんご)した。受け答えもできない、それにかなりの美人であることから斯様に判断したのであった。

 繁殖が済んだ母親は、着物を召して下へと降りた。実は今日に限った事じゃない。いつもの事であった。裏門から出て、合流場所へと向かう。当然に金平糖屋の表を通る。音子が店の前で座っているのを見た。

「遅いから迎えに来たよ」

 母親は嘘をついた。丸くて甘い声色を聞いた音子は、不気味に顔を上げる。

「足が動かない」

「一三歳にもなって、駄々こねるんじゃないよ」

 母親が音子の小さな手を引っ張る。立ち上がらせた。いや、汚らわしい手を振りほどきたくて、音子は立ち上がっただけの事。

「機嫌いいね」

 皮肉交じりにお礼を言った。そぞろと帰宅しながらの会話だ。お互いに嘘と本音を混じり合わせた滑稽(こっけい)。音子はまだ興奮して震えている。

「いつ帰ってくるの」

 暗殺するように問い詰めた。

「だれ」

「父さん」

 不意をついたつもりだが、女の演技は素晴らしかった。

「朝鮮の方に行ってるから、三か月ってところよ」

 木造の如く母親は微動だにせず、むしろ音子の質問に探りを入れて来た。

「どうして」

「なんでもない」

 上手を取られたことに、音子は自分の子供らしさに苛立ちを覚えた。また身体が震える。憤怒だ。怒りで身震いしているのだ。悔しかった。法律でも今日の出来事は裁けない。誰も守ってくれない。自分で音子は強くなるしかなかった。強くなるためには血を流さなければならない。自傷行為をするしかない。音子は家に帰ったら恋する手首を切り刻もうと(おもんばか)るのであった。

「見て、鶴」

 母が指さす。現実に目を向けると、水浴びをしている丹頂(たんちょう)がいた。絵で見た事があっても、実物を見るのは初めて。小魚を丸吞みしていた。いや、吐いては飲んでと繰り返している。大きさが合わないのだろう。食事中なので、人を恐れる素振りがない。二人は近くまで歩み寄った。

「赤いところみて」

 音子に言われて見た母親は、吐き気を催した。羽毛だと思っていたが、皮膚が露出して血液がにじみ出ているだけだったのだ。頬っぺたから首まで母親は鳥肌が立った。ぞわぞわする。

「つぶつぶしてる。見なきゃよかった」

 急に母親はその場で嘔吐した。丹頂のせいなのか、それとも悪阻(つわり)なのか。妊娠したかもしれない。母親は丹頂のせいにしたかったので、艶の無い声で音子に命令した。

「あれを殺して頂戴!」

「えっ」

「はやく!」

 近くにある大きな石を持ち上げて、音子はおもいっきり食事中の鶴の赤い頭へ落した。鶴は重力に従って倒れ込む。即死だ。眼球が衝撃で飛び出ている。かなりの圧力がかかったのだろう。窪んだ眼から血を流し、その赤い血を見ていると音子は強くなれた気がした。

「おいおい!おまえなにやってんだ!」

 村人の男が怒号を音子に浴びせた。音子は訳も分からず罪悪感を覚える。

「気は確かか?こいつは鶴だぞ。鶴を殺すことは人を殺すよりも罪が重いんだぜ。知らない訳ないよな。ほらこい、(まち)奉行(ぶぎょう)のとこに行くぞ。俺たちが疑われたらたまったもんじゃないからね」

 母親はその場で吐いている。音子に気をかけている程の余裕がないのだ。音子は禁制の鶴を殺してはいけない事を知らなかった。社会を教えるべき母親に、社会からはじき出されてしまったのだ。

「見ろ。母親がお前のバカな言動でおかしくなってら」

「いたい!」

 強く手首をつかまれて、恋とは違った痛みを覚える。音子はそのまま連れていかれた。寒い冬の道で、肩を落として歩くのであった。


 音子の知らいない道だ。見知らぬ景色を人知れず歩く。ここまでくれば逃げる事は無いと安心したのか、男は音子の手首を離した。痛がらせた事に罪を感じたからだ。男が先を歩き、その五寸後ろで音子がついていく。町から外れた森の方へ向かっている。段々と積雪量が多くなる。足を取られて疲れる。音子は男の足跡を重ねるように歩くのであった。雪を踏む音は、音子にはない。雪が固まっているので歩きやすかった。男は後ろを頻りに向くというわけでもなく、ただ、音子の体力を考慮しながらの速さで前を歩く。

「ここまで来れば、もういいだろ」

 倒木に腰を下ろした。羽織っていた薄着を敷いて、其処に男は顎で座れと合図した。

「いいの」

「いいよ」

 女の子として扱ってくれたのは初めてかもしれない。母には娘として、父には経済的な策略として、勲には愛玩として、それ以上のそれ以下の何者でもなかった。冷たい石に敷かれた服のほつれで手遊びをしながら照れた。寒いから頬は紅潮としているのか、それとも女の顔になったのかは定かではない。もじもじ遊んでいると、男は竹筒を手渡した。

「あついの」

 音子は聞いた。

「もう冷えた」

 素っ気なく答えた。やはり音子は今までに出会ってきた人間と比較を始めてしまう。喉が渇いているのはお互い様だ。だが、男は先に自分を優先してくれる。目の前にいる男は、自分を地獄の一丁目に連行する案内人なのに、なぜか地獄の一丁目が楽な様な気もして、どこか楽園的な魅惑もあり、あるいは美しい夢を見れる気がした。

「悪い人間も善い人間もいない。環境で人は良くも悪くもなるんだよ。お嬢ちゃん・・・」

「音子って呼んで」

「すまん、音子さん。女ってもんは可哀そうとしか俺には思えない。男を信じなきゃ生きていけないんだからな。裏切られたから、もう男を信用しないなんて言えば、死んでしまう。生きる為に男を信じる。だが、また裏切られる。死にたくない。また信じる。遊ばれる。そうすると、女は女として生きるのをやめて、男のように生きるようになる」

 (かげ)りが見え始めた。寂しい笑みを男は浮かべている。確かにこの男は顔も綺麗だが、ズダズダに引き裂かれたような、目には見えない何かがあった。その何かが音子には見えた。事物とも、仕草にも現れない。いや、男はそれが現れない様に必死に堪えている。そんな気がした。

「なんていうの」

「名前か、俺は佐々木小次郎」

 佐々木一族を教養のある音子は存じていた。徳川家に仕える由緒ある武士一族だ。混乱した。何から聞けばいいのか、寒さも忘れて必死に頭を働かせた。

「そうなのね。初めましてでいいのかしらん」

 小次郎は音子が混乱しているのを悟った。目が合わないのは照れだろう。手遊びも誤魔化し、同様に前髪をいじっているのもそれに近しいものと推理した。だが、身体が震えていた。これは寒さではなく、恐怖によるものだとわかった。

「かたや流刑地に行くか、かたや俺を信じるか、かたや親の元へ帰るか。三択だ」

 音子は即答。

「信じる」

「懸命な判断だ。男を信じるのは最後にさせてやる。どうする、今頃は音子の母親は鶴殺しの罪でとっつかまっているだろうな。それは音子が逃げたからだよ」

 逃げた。音子はこの言葉が一番嫌い。お見合いからも逃げて、愛する男を寝取られても逃げて、恐怖から逃げて鶴を殺してしまい、濡れ衣を着させたことからも自分は逃げようとしている。鶴が眼球を飛ばして、長いくちばしから泡をふいている光景が焼き付いてしまい、逃げたという言葉で残酷な光景が脳裏をよぎる。目には鶴が見えて、耳からは母親の喘ぎ声が聞こえてくる。唇からは勲の味がして、お尻からは小次郎の服の温もりが伝わる。

「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!」

 音子は奇怪になった。

「大丈夫だよ」

 小次郎が優しく抱擁してやると、その大きな胸で音子は咽び泣いた。

「音子は悪くない」

「しってる」

 小さな頭を強く抱えた。

「音子は悪くない」

「そうよ」

 耳元で小次郎は囁く。

「悪くない」

「うるさい!」

 音子は小次郎をおもいっきり突き放した。だが、小次郎はその倍の力で抱きしめる。

「悪くない」

「うるさい、うるさい、うるさい!悪いのよ」

「音子は悪くない」

「ごめんさい・・・」

 吃逆(しゃっくり)させながら、可愛く泣く。小次郎は優しく抱いた。(えん)()な後ろ髪を撫でる。甘い香りがする。だが、小次郎は女を羨ましく思った。女は泣けるが、男は泣く事を許されない。だから、小次郎は音子の涙に自分を移入させた。かわりに泣いてもらおうと。慰めている様で、或る意味自分すらも同時に慰めていた。

「環境が悪ければ逃げるしかない。鶴を殺したのは環境が悪かったからだよ。音子は悪くない。環境が悪いと悪い人間が生まれちゃうんだ。だからね、二人で善い環境をつくろう」

「つくる」

 最後の言葉を追ってきたので、小次郎は今までの話を理解しているのか心配になった。その心配は的中で、音子には小次郎の哲学はどうでもいい。女として扱ってくれれば、それでよかった。あとは自分を必要としてほしかった。いや、自分だけを必要としてほしかった。

「なんでもするよ」

 音子は小次郎の楽園になると決める。小次郎だけの家になりたかった。小次郎だけの帰る場所になると英断する。同時に女としてもらえたら、それ以上のものはいらない。

「俺の相棒になるんだ」

「おっしゃる通りにします」

 二人はこうして愛し合うのであった。


 翌月。月の物が来なかった。音子は例の帳面を開いて、筆を取った。が、離した。手がかじかんでいる。冬も本格的となり、一段と冷え込んでいた。火桶で指を温める。隣で小次郎が寝ている。起きる気配がない。まずは一句を認めてから、小次郎を起こすことにした。今日から小次郎は、戦の準備で忙しいというのもある。それもあってか、小次郎のお父さんも見えるそうだ。音子は礼を尽くす心持になっていた。そのついでに、いや、ついでが一番大事なのだが、月の物が来ない事を言おうと思っていた。

(つき)(もの) ()ないと(さと)り ()()ける 十月(とつき)十日(とおか)を (こいねが)うかな」

 閉じた。過去の帳面は千切られており、これは小次郎の色に染まったことを意味していた。女の恋愛は上書きなのかもしれない。

「今日は父さんが来るから、適当に挨拶をしてくれ」

 騒がしい音に目覚めて、小次郎が囁く。寝癖を直すように音子は髪を撫でた。

「そうしますね」

 音子は目覚めが良くなった。立ち上がっては、冷たい水を小次郎に渡す。まるで、自分の過去を見ている様であったが、どこか可愛らしく、どこかあどけなかった。音子は小次郎の布団の中に飛び込んだ。おもいっきり抱きしめる。その倍の力で小次郎が抱きしめた。二人は手のひらに乗る程の水晶玉に閉じこもってしまい、それは誰にも見られぬ純潔さで、あるいは誰も目を開けられない程の輝きであった。本当に二人は小屋に閉じこもってしまったのだが、(いくさ)が小次郎を目覚めさせる。男という生き物は、法螺(ほら)の音が聞えたら寝床から飛び起きて、飲まず食わずで戦わなければいけない性分なのだ。それを寂しく待つのが女というのが、恋愛というものである。

 馬の樋爪が地面を駆ける音が聞えて来た。小次郎は飛び起きる。驚いたのは音子だ。小次郎の蹶起(けっき)に気を集中させてから、瞬時に樋爪の音に意識した。次第に大きくなる。

「お父さんだ。俺が時間を作るから、最低限の身だしなみをしてもらえるかね。すまない」

 小次郎は優しく音子を抱きしめた。

「大丈夫よ。むしろもっと早く起きればよかったですね。あたしこそすみません」

 よしと言って、各々の義務に取り掛かった。音子は台所の鏡を見ながら白粉を塗った。バタンという音が聞える。小次郎が外で時間を稼いでくれているのだろう。無駄骨にならぬように音子は急ぐ。紅差し指で口紅も塗る。髪は適当な(かんざし)を刺して整えた。ハッカを奥歯で潰して、口臭も良い香りにした。兎に角急いだ。爪は伸びてない。布団を急いで片して、お茶の準備をする。匂いが籠っていたので、裏の戸を開けて換気した。もちろん静かに開ける。

「いやいや、お父様。紹介したい女性がいるのですがね。名家ですよ」

「おうそうか。どれどれ」

 扉が一寸あいた。音子は正座して、気を張る。一寸あいた隙間から小次郎は家を除き、音子が笑顔を向けていたのでおもいっきり開けた。

「初めまして。佐々木音子と申します」

「おい嘘だろ」

 お父さんは唖然としている。小次郎は訳が分からなかった。音子も想定外の返事に顔を上げると、目の前には自分の父親がいたのだ。眉毛は濃くて、音子と同じ(つぶ)らな瞳をしている。耳の形も同じだ。自分の父が目の前にいた。

「音子、とにかく。お母さんには内緒にしておくれ」

 音子は咽び泣いた。一瞬で解る。早く違うという言葉を男の誰でもいいから言って欲しかった。身体は頗る震えて、泣き崩れてしまった。

「お父様。つまり、音子とは腹違いという事ですか」

 小次郎が滑舌を悪くして聞いた。

「すまない」

 音子が聞きたいのは其れじゃない。自分でも言えない。だから、気づいて欲しかった。もう、お化けのように白粉が剝がれていた。

「お前たちは兄妹なんだが。音子、痩せてないか。よしんば、いや、そんな事があってはならぬ」

 その続きを言えという炯々(けいけい)とし目つきで訴えた。小次郎の方が勇気はあったのか、音子に近づく。

「触らないで!」

 音子は小次郎を避けた。純血を守ろうとすれば、自然の摂理に負けてしまう。だが美しい。透明な水と水が合わさる程に美しいものはない。混血、殊に混合水は強いかもしれないが、しかし、美しくないのだ。音子と小次郎は美しかった。それは純血というそれだけの事であった。

「まさか、きてないのか」

 音子は帳面をお父さんに放った。落ちて開いた場所に一句が認められているのを読む。そして頓悟した。

「おまえ、音子、身ごもっているのかい」

 声を震わせながら父が聞く。

 音子は落涙させながら小さな小さな声で囁いた。語尾は誰も聞こえないほどに。

「いやだ

      落ちる

            落ちていく

                     助けて

                       もうだめ・・・」


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