重なる彼女への想い
ヒョウガ王子はセナを冷たい廊下に横に寝かせる。
「この街には医者などいない。それもか、住人だってほんの一握りしか住んでいない」
伯爵はすべての真相を知っていたのか沈黙している。
「わが国はもともと移住民族であった王がこの地に根を張ったことから歴史が始まる。本来は少数民族の集まりだったのだが、年を重ねるごとにひどくなる雪の量と食糧難の末ほとんどの者が過ごしやすい別の土地に移住してしまった。
われわれの食料の調達方法は雪が降らない日に野生のシカやイノシシ、ウサギの狩りをする。大量の狩りをして長期保存できるだけの食料を常備させておく。
それでも食料が足りない時は時間をかけて下の国まで出向き食料を買い付けに行く。本格的な冬場になれば、雪に覆われ外に出ることもできなくなる。
鳥も獣も人さえも本来は住むべき場所ではない。冬場の唯一の食料の調達方法は氷の下にいる魚しかない。
だが、海底に眠るのは肉食の大蛇。
普段は分厚い氷に覆われ溶けることがないが、狩りの途中にいつ襲われるかわからない恐怖。
それでもこの世とは思えないほど綺麗で幻想的な風景を好み、この地を選んだ先住民の意思を引き継がねば。
まさか国王が皆を置いて一人で逃げることはできない。
彼女は唯一の俺の生きる希望だったんだ」
ヒョウガ王子は手慣れた手つきで自分の衣服を破り、彼女の背中から流れる血を止血する。
「自分のことなら何でも自分でする。それがここの掟だ」
セナは苦しそうな目で王子を見つめている。
「私、助からないんだ。そうね、皆の顔を見ていれば何となく分かるわ。ヒョウガ王子……これで私はあなたからやっと解放される。
本当に迷惑な話だったけれど、昨日伝えてくれた愛には正直婚約者のことを忘れてしまいそうになったわ……もし、私に婚約者いなかったら、私、あなたのことが……」
ヒョウガ王子は彼女の頬にキスをする。
「俺を勝手に浮気相手にしないでくれ。俺はいつでも本気だ」
彼女がにっこりと笑うと体が七色に輝く。
「あれ? もしかしたらこれって……私、あの人の元へ帰れるのかしら?」
「セナ……いかないでくれ……君がいなくなったら、俺は寒くて冷たい城に一人ぼっちだ……セナ……お願いだから……」
すると、心優は嘆くヒョウガ王子の背中に寄り添った。
「私たちがあなたを一人にはさせませんわ、だから、もうセナを解放してあげましょう……」
セナはヒュウガ王子の頬に軽くキスを返す。
「私を好きになってくれてありがとう」
ヒョウガ王子が抱き締めようとした瞬間、彼女の体は透けてこの世界からいなくなったーー……。無残にも散らばるのは氷の欠片。氷の欠片が溶けてもいつまでも彼は氷の世界に囚われているーー……。
「セナは最後まで俺の想いには答えてくれないんだ。
心優、伯爵すまなかった。二人をこんな危険な目に合わせて、俺たちの私情に巻き込んでしまって……」
ヒョウガ王子は立ち上がって、二人に背を向けた。
思い扉の前に立つと幾重にも扉に鎖を巻き付け二度と扉が開かないように鍵をかける。
「俺はもう二度とこの扉が開くことのないよう、封印をしなければならない。二人は先に城に戻るといい」
ヒョウガ王子の寂しげな背中を見ていると、心優は胸が苦しくなって彼に声をかけようと思ったが、何も言葉が出てこなかった。
「ヒョウガ」
すると先ほどまで沈黙していた伯爵の口が開く。
「彼女はこの世界から消えたと同時に本来の場所へ戻っただけだ」
「伯爵、随分残酷な事を言うね。愛する人が側にいる君に何が分かるって言うんだ。彼女が消えた世界なんて俺はいらない。できればこのまま降り積もる雪と一緒に溶けてなくなりたい……」
「……心優、悪いが先に部屋に戻っていてくれないか? 俺は王子と決着を付けなきゃいけないことがある。まあ、無実の俺らをここまで連れて来たお礼をたっぷりとしてあげなくてはな」
心優は後ろ髪を引かれる思いだったがここは男同士で話したいこともあるのだろうと自分自身を納得させて伯爵と別れた。
彼女が去った後、どこからか冷たい風が二人に吹き荒れる。
「伯爵、俺を責めるつもりなら話は終わりだ」
「責めるつもりはない。奇遇なことに俺もおまえと同じ立場なんだ」
「なんだと……?」
「心優はな、もともとこの世界の人間ではない。半年前屋敷近くで雨に打たれずぶ濡れになっていた所を偶然通りかかった俺が助けた。
待てどもいっこうに現れぬ待ち人。そして、リーフ国のイーグリットに調べて貰った所、『心優』など珍しい名前の女性の出生届及び住民登録がされていない。
知人の力を借りて他の国にも調べさせて貰ったのだが、彼女は他の国の者でもない。
それはつまり、彼女も異国の地から来たセナと同じなのだよ」
「セナと……同じ運命……」
「そうだ。心優もいつかは元の世界に戻ってしまう。
けどな、俺はそれでいいと思っている」
「はは、黒翡翠の悪魔のことだから、小娘が一人消えようとも普段の生活には支障ない。気にしないということか? その考えには共感できないな」
伯爵の眉がピクリと動く。彼の理解力の無さに伯爵は深くため息をついた。ーーそして、またゆっくりと語りかける。
「恐らく彼女が消えたら、俺はもう二度と誰も好きになどならないだろう。生涯独身で過ごす、そのつもりだ。
……でも、彼女には……
俺のことなど早く忘れて新たに好きな人を作って貰いたい」
「忘れて欲しいだなんて、全く理解できないな」
「暗く閉ざされた屋敷に突如現れた優しい光、思いやりのある彼女を育てたのは俺ではない。本来いるべき人の元に彼女を返すべきだと俺は思う。そしてそこで元の形に戻り幸せになって欲しい」
「……自分の側に置いておくという考えはないのか?」
「彼女が幸せなら俺は構わない。
彼女の幸せを想って、残りの人生を一人で生きていける」
ここまで伯爵の話を聞いて、ヒョウガ王子は彼の厚い眼差しに自分自身を比べてしまい、自分が否定されたような気がしていたたまれなくなる。
「伯爵」
「どうした?」
ヒョウガ王子は肩を震わせている。
言葉が胸につまって上手く出てこない。
「そんなの……そんなの綺麗事だ……! 実際、愛する人が消えたら……俺の立場に立ってみたらわかる。胸が張り裂けそうになるほど苦しくて、痛くて、辛くて、それでも一人で生きていくなんてありえない!! それを俺に押し付ける伯爵もどうかしている!!」
氷の上で氷小狼は吠える。拳を握りしめ、震えながら。鋭い爪でギリギリと地面にしがみつくその姿はまさに狼のようだ。
固い毛を逆立てて孤独と恐怖にまわりへの威嚇を止めようとはしない。固く閉鎖されていく心の扉。
「ヒョウガ、人を愛するということはそういうことなんだよ。
なあに、おまえも俺も独りぼっちにはならない。
俺たちはどこへいても繋がっているからな」
伯爵の言葉を聞いて、複雑な思いが心の扉を閉める制御装置となった。伯爵はそれだけ言い残すと彼女の後を追いかけた。
目の前の固い扉を、握りしめた拳で叩きつける。
胸の痛みを誤魔化すように、何度も、何度も。強く。殴る。
手の皮膚が擦りきれて、血痕が付着し赤く滲む氷小狼の紋章。
鋭い爪で引っ掻いても消えない呪われた宿命に彼は落胆し崩れ落ちる。そして、床に落ちていたセナが持っていた鏡に気がつく。
どこからか微かな月夜の光が射し、小さく縮こまった背中を照らす。肩は震え、頬からは一粒の涙が流れたーー……。




