蜂蜜の夢に溺れる
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気がついたら自室のベッドの上で眠っていた。窓から見えるカエデの葉は赤く色付き、木と木の間からゆっくりと朝日が登る。
寝ている間に大量の汗をかいたのか首筋からタラリと水滴が落ちる。窓の隙間から冷たい風が吹き込み彼女の体温を下げる。
頭の中のもやもやとした霧が少しずつ晴れ、新たな自分がゆっくりと瞳を開け覚醒する。
「私は……いったい、ここで……何していたんだっけ?」
心優はゆっくりとベッドから起き上がり辺りを見渡す。黒い壁紙、黒い家具、そしてハンガーにかけられている灰色の仕事着ーー……。
「そうだーー……。私はクロウ伯爵に拾われて、お屋敷にメイドとして雇われたーー……」
記憶は戻らないが朝の習慣を体が覚えていて、彼女は仕事着に着替える。黒い手袋をはめて伯爵からいただいた鍵と懐中時計を首にぶら下げる。懐中時計の針を確認すると部屋から出ようとする。
エプロンのポケットが少しだけ重たい。何か入っていることに気がつくと、ポケットの中に手を入れる。
半透明の液体が入った小瓶。それは、昨晩エメからいただいた物だった。小瓶を斜めにすると中の液体がゆっくりトロリと傾く。蓋を開けて中の香りを確認し、小指を少しだけ液体につけると舐める。
「これは、蜂蜜ーー……?」
蜂蜜の濃厚な甘い味が口の中に広がり、さまざまな記憶が溢れてくる。忘れてはいけない自分の軽率な判断で失ってしまった友人のこと。王子に淡い恋を抱いていた友人を救うためとは言え、二人を引き離してしまったこと。
思わず瓶の蓋を閉めて、ポケットにしまう。
甘い蜂蜜は適量を間違うとただただ苦いだけだったーー……。
気を引き閉めて心優は自分の部屋から出る。
伯爵の部屋のドアはまだ閉まっている。
王子の部屋のドアも空いていない。
心優は足音を立てぬよう廊下を静かに歩くと、階段を下りて一階の窓のカーテンを開ける。
夏の暑さはすっかり落ち着いていてすがすがしい風が吹く。気持ち良い爽やかな秋晴れだ。
朝食の準備をするにはまだ早いので先に家畜の餌やりと庭に咲く花に水をあげる。
お庭に立って辺りをぐるりと見渡す。お屋敷のまわりに咲くイチョウやカエデ。金木犀の香りが風にのせられて彼女を包み込む。
エメが普段手が空いた時に育てている趣味の花壇には、シクラメンやたくさんのハーブが咲いていた。
彼女が竹箒でお庭の掃除をしていると二階の部屋のカーテンが開けられる。部屋の位置からも伯爵が起きたのだと分かった。
カエデの葉がヒラリヒラリと落ち黄色と朱色の世界に埋もれる。次の休みには木の実やドングリやキノコを拾いに行こう。もしかしたら自然のリスに会えるかもしれないと胸をワクワクとさせていた。
するとお屋敷の前に豪奢な馬車が止まる。二頭の白馬に銀色の馬車。客人だとすぐに分かり、エプロンに着いた枯れ葉を落とし箒を立て掛けて客人の前に歩み寄った。
「えっ……!?」
すると、馬車のドアが開き否応なく心優は体を馬車の中へ引きずり込まれる。
「心優!!!!」
全てを見ていた伯爵がお屋敷から出て、すぐに追おうとしたが、馬車は心優を連れてどこかへ行ってしまった。
慌ててカナリア王子も駆け寄るが時すでに遅し。
異変に気づいた伯爵は馬小屋から一匹の黒馬に乗って追いかけようとする。
背の高い馬は王子の前で二、三往復した後、伯爵が馬の手綱を強く引く。二足で地面に茫然と立つ王子の胸ぐらを掴み伯爵は毒を吐いた。
「心優を連れ去ったやつはおまえの仲間か?」
王子は首を振わせる。
「僕の仲間なんかじゃない! 仲間だったら無言で連れ去ったりしていない!」
伯爵はその言葉に怒りがこみ上げる。
「おまえが違うと否定したら馬車の胴両側の紋章、銀の雉は一体どこの国の紋章だ!?!?」
王子は言葉を飲み込む。
ことが過ぎては王子を責めても意味がないことを知っている伯爵は自分の後ろに王子を乗せて、馬車の車輪と馬の蹄の足跡を辿った。
『カナリア王子ご無事でいらしたのですね。私ご安心致しました。おそらくですが、彼らの行き先はラハール港です。リーフ国のラハール港にカナリア王子の婚約者が乗車した船が寄港しております。連れ去ったのは『銀の雉』。きっと婚約者の執事でございましょう……』
樹木の向こうから純白の一頭の白馬がこちらに向かって身を寄せていた。背中に大きな拳銃を担いだ、女性が二人に淡々と説明をする。
「カトレア!?」
風で靡く、1つに結ばれた金の髪。切れ長の翠の瞳。女性のわりには背が高く肩から真っ白なローブを被っていた。馬にまたがい、皮でできたエンジニアブーツで馬の鐙に足を乗せ、踏ん張る。彼女は背中に一本のライフル銃を背負っていた。
伯爵を乗せた黒馬は足が速い、それにも負けずにカトレアの馬も歩幅を合わせる。自分が乗っている馬を上手に伯爵と王子の黒馬の速度に合わせ、狩人は手綱を握るもう片方の手を王子に向ける。
「むっ、無理……」
「無理ではない!!! 可能だから誘導している!」
伯爵も隣に並ぶ白馬の速度に合わせるといつまでも女々しく尻込みしている王子の背中をわざとトンと軽く押した。
王子は女の子らしい悲鳴をあげたが、伯爵は落ちないようにと首根っこを掴み、無事に移動するまで背中を支え、向こうで待っている狩人に引き渡す。狩人もがっしりと彼の体を支えて何とか自分の背中に乗せることが出来た。
すると身軽になった伯爵はさらに馬のスピードをあげて、馬車を追いかける。狩人と王子が乗った白馬はあっという間に引き離されると狩人は後から大きな声で叫んだ。
「クロウ伯爵! あなたのことはうわさには聞いている! 巻き込んでしまって申し訳ない! 私たちは後から行くから先に行っててくれ! 場所はラハール港だ!」
クロウ伯爵はじっと前を見据え体制を低くして走り去って行った。
残された狩人はゆっくりゆっくりと馬の速度を落とす。不思議と思った王子が声をかけると狩人の顔色が真っ青だった。
「カトレア! 一旦お城に戻ろう……! そのような状態では……」
「いけません。関係のない方を巻き込んでしまいました。しかも、巻き込んだ相手は黒翡翠の悪魔の住人。めったに外出しないあの方が必死で追いかけるのですからそれ相当の人物なはずーー……。
婚約者様が何をたくらんでいるのかは分かりかねますが、彼女に何かあったとしたら金糸雀の紋章が真っ二つにされることでしょうーー……。
最善を尽くして問題を解決してからお城に戻ることにしましょう。なあに、私は大丈夫です。なにせ、この世界では不死身なのですからーー……」
彼女の眼帯で隠された右目が物語を語るーー……。
彼女は見知らぬ世界に降り立ち、はじまりの街でしばらく過ごした後狩り暮らしを始めた。立ち寄った酒場でとある男にライフル銃を譲り受けた時からすぐに感覚を取り戻し、銃が妙に手に馴染みすぐに鳥を撃ち落とすことができた。
働いたお金で馬を入手し、うっそうとした森の中に空き家を見つけると必要最低限必要な物を道具屋で揃え一人で野生のイノシシやシカを追いかけナイフでさばいた。獣の血は川で洗い、新鮮なうちに焼いたり燻製にしたりととにかく彼女は器用だった。
彼女は森を散策しながらリーフ国より西の敷地に来ていた。そして、一人の男の子と出会う。
彼女はいつも通り狩りをした後、日が暮れるので早めに帰ろうとしていた。その時である、男の子の背後に巨大な月の輪熊が現れて彼に襲い掛かった。
彼女は身を挺して男の子を庇う。熊の鋭い爪は彼女の右目を引き裂き、熊が一瞬怯んだ隙を見て銃の引き金を弾く。見事に銃弾は熊の急所に当たったが、彼女の右目は深く損傷し治ることはなかったーー……。
利き目を失ったことで以前と同じく狩りが出来なくなり、男の子は責任を感じ自分の城へ招いたーー……。
特注の本皮半円眼帯。自分が助けた男の子に渡された金糸雀の刺繍。彼は実にかわいらしい容姿をしていたが彼女の右目に眼帯を結ぶと悪戯にほほ笑む。
「……眼帯は王冠。君は今日から、僕のお姫様だ」
彼は本来の正装姿に戻り、王座に座り「この格好は堅苦しくて苦手」と苦渋の表情をする。彼が一国の王子だと知り、彼女は彼の手首に永遠の忠誠を誓ったーー……。
彼女は常にカナリア王子の一歩後ろで待機していた。
王子が「怖い先生とはフェインシングで戦いたくない」と言えば、先生の変わりとなり心を鬼にして厳しく指導し、「婚約者と二人っきりになりたくない」と言われれば、二人だけの憩いの時間も然り気無く後から日傘を射したり、お茶を注ぐふりをして付いて回った。
彼女は熊に襲われた時、確かに『死』を覚悟した。
医者からは奇跡だと言われていたが、後に度重なる瀕死状態からの生還の末、自分は不死身だと言うことを実感する。
普通の人間なら立っているのもぎりぎりだと言うのに、小さな王子を背中に乗せて彼女は馬を走らせる。彼女の名は『カトレア』。異世界転移してきた三番目のヒロインだーー……。