黒翡翠の悪魔、クロウ伯爵との出会い
「……おい」
「うーん……」
「……早く、起きろ」
「うーん……もうちょっとー……」
眠い目をうっすらと開けると前髪の長い黒髪の男性がこちらをじっと見つめている。
「ああーー……良かった、無事おうちに帰ってきたんだね。おかえりなさい……」
そう言っていつも通り肩に手を回し彼を抱きしめようとしたーー……。
「おい、止めろ。おまえ俺とだれかと間違えているようだ。いい加減、早く目を覚ませ」
そう言われて軽くおでこを指で弾かれる。
《ピシャッ……》
「いっ、痛っ……!!」
おでこに手をあてて声の主を確かめる。
椿の花のように艶のある黒髪は肩まで伸びていて、透明感のある透き通った肌。心優のおでこを軽くたたいた指は長く細い。ピアノを弾く指かと思うくらい繊細だった。灰色のワイシャツに赤のネクタイ。灰色の生地に縦に銀のストライプ柄が入ったベストに黒い外套を着ている。
「おまえどうしてこんな森の中で眠っている? ここでだれかを待っているのか……?」
「え……?」
良く見ると座っているのはふかふかのソファーなどではない。長く野ざらしにされ錆びた鉄のベンチに……雨に濡れた両足。太股まで隠れる長袖のワンピースを着ていた。
《ザァーーーー……》
見知らぬ男性は黒い傘を差し、薄着の心優が濡れないようにと自分が雨に濡れても傘の大半を彼女に貸してくれていた。
「ここでだれか待っているのかーー……?」
《ザァーーーー……》
「だれかを待っているーー……? そう、そうだ……!! 私、ずっとあの人を待っていたの……!! でも、待っていても全然戻って来てくれないの……!!」
見知らぬ男は頭をかしげる。道の果てまで遠くを眺めてみたが誰一人として人が来る気配はない。
「ここでちょっと待ってろ」
見知らぬ男性は自分の外套を心優の肩に掛けると傘を握らせてどしゃ降りの雨の中へ消えていった。
肩に掛けられた外套は冷たい風を防いでくれて、着ていた人の温もりを感じて少しだけ暖かい。
男性が走って行った先を見ると、真っ黒な馬車が道の隅に止まっている。黒いシルクハットを被り雨具を身に付けた馭者と何かを話しているようだ。
話が終わったのか男性は整備されていない地面を綺麗な革靴が泥だらけになろうとも気にすることなくまた急いでこちらへ走ってきた。
「ここへ来る途中、やはりそれらしき人とはすれ違わなかった。おまえがずっとここで待っていても風邪を引くだけだ。良ければ家まで送るが乗るか……?」
男性は雨に濡れた前髪を掻き上げる。さきほどは長い前髪でよく見えなかったが、前髪を掻き上げると実に『美男子』であることが分かった。瞳の色は黒翡翠の宝石のように深い黒。その瞳は誰にも媚びることがなく自分で考え結論を出し、今まで一人で生きてきた芯の強い眼差しだった。
まるで見た人の心を支配してしまうような深みのある色。
さっと黒いショートグローブを身に付けた右手を心優に差し出す。しかし、心優は記憶が一分欠落しているため、その手を取っていいものなのか冷静な判断ができずにいた。
「おうちが……どこだか全く思い出せないんです……」
「……なんだと?」
心優は記憶を少しでも思い出させようとして現状を把握する。背の高い雑木林に右左には果てしなく長い一本の道。彼女はそこにポツリと置かれたベンチに座っていたようだった。
「名前は思い出せるかーー……?」
「黒埼心優……16歳。私立星明学園に通う高校1年生。好きな学科は国語と家庭科……あとは……」
「待て待て、一遍に言われても聞きなれない国の言葉で理解がしにくい。もしかして、おまえ遠く別の国の者なのか……?」
心優は頭の中に浮かぶ記憶を整理しようと覚えていることを次々と呟いた。しかし、何度繰り返しても自分のことは分かるのに。『どこから来た』ことと『誰を待っているか』だけ思い出せない。
「……趣味は手芸と読書と……乙女ゲーム……!!!」
しかも、余計なことまでしっかりと覚えているのに。
「はぁーー……。どうやら面倒な物を拾ってしまったようだ。分かった。分かった。取り合えず俺についてこい。時間が経てば思い出すこともあるだろう」
心優には今頼れる人は目の前の見知らぬ男性しかいなかった。
再度、差し出された手を握ろうとするーー……。
「あなたはいい人ですか、悪い人ですかーー……?」
男性は目を細めて苦渋の表情でこう答えたーー……。
「俺はクロウ・ブラックジェイド。ここらへんの住人には『黒翡翠の悪魔』とうわさされているーー……。……まぁ、世間一般の評価から解釈するといい人ではないな……」
「黒翡翠の悪魔ーー……?」
どこかで聞いたことがある名前に少しずつ記憶が甦ってくる。
「ああ、やっぱり俺の名前を耳にしたことはあるか。本人がずっと屋敷にこもっていてもうわさだけは一人歩きするものなのだなーー……」
そう言うとクロウ伯爵は心優の肩を抱き抱えた。
「俺の肩に捕まれ。素足では歩くことも困難だろう。俺が馬車まで運んでやるからありがたく思え」
伯爵は傘を持った心優を軽々と抱き抱え、お姫様抱っこをして馬車へと急いだ。ガッチリとした腕に包容力のある鍛えられた胸。少女漫画に出てくる男性のような整った顔形。若干切れ長のつり目がちだが、睫毛は長く、良く見ると毛先がくるんとカールしている。彼は人並外れた『美形』なのだと心優は認識した。
でも、まさかーー……。
「すまない、早急にお屋敷に戻って欲しい」
《ザァーーー……》
「かしこまりました。クロウ伯爵」
《ザァーー……》
「……ん? どうした? やはり寒いか?」
「まさかあなたがクロウ・ブラックジェイド伯爵ですか……?」
「何度も言わせるな、俺の名はクロウ・ブラックジェイドだ」
dream・workerが開発した乙女ゲームの中に唯一どうしようもない『駄作』があった。
そのゲームのタイトルは『清き乙女は王子様に寵愛される』だ。そして『駄作』の原因でもあるどうしょうもない『陰キャラ』の存在。そう、それが『クロウ・ブラックジェイド』。
まさか、まさか、自分が『乙女ゲームの世界』に入ってしまうなんて夢にも思わなかった。
そして目の前にいる人こそーー……。99パーセント攻略不可能だと言われる『黒翡翠の悪魔、クロウ・ブラックジェイド』本人だったーー……。