伯爵の古き友人の誕生日パーティーに誘われたのですが、無茶ぶり過ぎて正直逃げ出したいです
*
翌日、心配していたエメが随分と朝早くにお屋敷に帰って来た。エメはいつもの執事服に着替えると家畜の餌やりにお庭に咲く花の手入れ、手慣れた手つきで朝食を作りテーブルに並べる。朝食の準備が終わるとお屋敷の掃除を順番に進めたーー………。
用意された食事をクロウ伯爵は黙々と食べている。
心優はそれを横でそっと見つめていた。タイミングを見て再度懐中時計のことを謝ろうとしたが、話しかけても伯爵はぶっきらぼうな返事を返すだけ。長い沈黙と重たい空気に包まれる。
すると、そんな二人を見たエメが「お皿洗いを手伝って欲しい」と心優を側に呼び寄せた。
「心優さんはずっとお屋敷にいてくださるのですか?」
エメは微笑む。心優の瞳は揺らぐ。
窓辺からそっと風が吹き、風でカーテンが広がる。キャンパスに描いたような真っ白な雲と澄み渡る青。青々とした瑞々しい葉が身を寄せゆっくりと葉を合わせる。彼女は僅かな唇を開き、囁くような声で呟いた。
「……そのつもりでしたが、クロウ伯爵に嫌われてしまったので、ここから追い出されるかもしれません」
流し台の水の音で言葉が少し書き消される。
「どうして?」
「クロウ伯爵からせっかくいただいた懐中時計を無くしてしまったのです。それからと言うものの伯爵に話かけてもまともに会話をてくれませんし‥‥」
「そう……」
エメはお皿を洗いながら、彼女にそっと尋ねる。
「懐中時計とはもしや表面に鴉の紋章が入ったものでしたか?」
鴉……そう言われてみればたしかそうだった気がする。それにしても伯爵の持ち物はつえといい鍵といい鴉の物が多いなぁとぼんやりと考え、お皿を洗っているとエメがまた微笑した。
「鴉の紋章はブラックジェイド家の紋章でございます。それに鴉の懐中時計は先祖代々引き継がれてきた物。クロウ伯爵もお祖父様からいただいた形見の品なのでしょう」
その言葉に愕然とする。
「そんな大切な物をどうして、この私に?」
「さぁ、それはわかりかねますが……」
エメは泡の付いた手を洗いタオルで手を拭く。自身の真っ白なブラウスの胸ポケットに手を入れると、白いハンカチを取り出した。折り畳まれたハンカチをゆっくりと広げると、心優が持つ鍵と同じ鍵が現れた。
「エメさんも鍵をもらったの?」
エメは笑う。
「はい、このお屋敷に雇われた初日に鍵を渡されました。私は遠慮したのですが『これからは家族の一員だから』と言って聞かないのです。心優さんも鍵を預けられたということは『家族の一員』として考えてくださっているのかもしれませんね?」
心優は首に下げた鍵を握りしめながら、黙って頷く。
「まだ、鍵を返すように言われていないということは、伯爵に何か考えがあるのでしょう。だからきっと大丈夫です。私たちはこれがある限り家族の一員です」
夕方5時が過ぎ今日も無事仕事が終わったので、夕食を済ませると、一本の電話が鳴った。
電話のそばにいたエメが受けとり、話の内容を聞くと伯爵に受話器を渡す。
《ガシャン……!!!》
電話を切ると伯爵の眉間にシワがよりさらに機嫌が悪くなっていく。
「ヤツが誕生日パーティーで婚約者を紹介したいそうだ」
「婚約者……!?!?」
「……ヤツがその気ならこっちにも考えがある」
「ミーユ!!!」
「へ? 私?」
「おまえの他に誰がいる! おまえ俺の婚約者のふりをしろ!」
「は、は、はいー?」
伯爵のむちゃぶりに開いた口がふさがらない。
先程まで誕生日パーティーの日はエメが馬車で待っているから、顔をみたらすぐに帰ると言っていたはず。いつの間に競争心が沸いてしまったのか。
エメに助けを求めても首を傾げて「あらあら困ったことになりましたねぇ」と苦笑している。ギラギラと目を輝かせたクロウ伯爵は心優の胸元を指差した。
「おまえは一夜限りの婚約者だ。パーティーでは俺に容易く声をかけることも、馴れ馴れしく『クロウさん』と呼ぶことも、図々しく手を握ることも全て許す! 思う存分婚約者のふりをして欲しい!」
伯爵のむちゃぶりに心優は心中で「私は伯爵の婚約者だなんて、恐れ多いこと望んでいませんけどーーーー!!??」と突っ込みをいれた。
伯爵は冷や汗を垂らす心優の側に詰め寄り、腰を屈めて瞳をじっと見つめる。久しぶりに間近で伯爵の顔を拝見する。黒い瞳に覗き込まれると心臓をわしづかみにされ石にされたようで硬直してしまったーー……。
「……ミーユ、やはり俺が怖いか?」
心優は気付かれないくらい少しだけ目線を右にずらす。
エメは二人の様子を伺い一人頭を深々と下げて静かに部屋から出て行った。
伯爵は非常に長いため息をつく。
目の前で萎縮する彼女に対して、彼自身ではどうしたらいいか分からず動揺と苛立ちを隠すように前髪をかきあげた。
「懐中時計の件はもう怒っていらっしゃらないのですか……?」
伯爵の手が止まる。
「はあ……!?」
心優は震える手をもう片方の手で握りしめ伯爵に思いを伝えた。
「先程、エメさんに私が無くしてしまった懐中時計は伯爵が先祖代々受け継がれている大切なものだと聞きました。そんな大切な物を私が無くしてしまってごめんなさい……」
「そんなことを気にしてたのか?」
「?」
「あんなボロっちぃもの、別に無くなっても全く気にならない」
「そ、そうなのですか?」
「それにだ、おまえ勝手に誤解しているようだが、俺の母親は小さい頃病気で亡くなったが、父親は現役だぞ。
父親は仕事や趣味で世界中を駆け巡っていて一年に数回帰ってくればいい方だ。まあ、もう何十年もそんな感じだから親父とも何とも思っていないけどな!
だからおまえにはあげた懐中時計など大切でも何でもない。おまえが不便そうにしてたから手に持っていた物を渡しただけだ」
そんな伯爵の昔話を聞いて、安心したような、がっかりしたような……心優にはかわいらしいアホ毛がピョンと跳ねる。
「それよりもだ! 再度聞く、ミーユ、俺がそんなに怖いか……?」
二階の階段からエメが二人の様子をそっと盗み聞きしていた。
「ふふふ……心優さん……早く伯爵の本当の姿に気づかれるといいのですが……それもまたささやかな老後の楽しみとして二人の様子を見守りましょうか……
それにしても今まで客一人たりともお屋敷に入れなかったあの伯爵が側に置きたい使用人として雇った心優さんには興味が沸きます。
それに今度は彼女に婚約者のふりをさせるとは……。伯爵にどんな心境の変化があったのでしょうね……ふふふふ……一体、二人はこれからどうなることやら……実に、楽しみですねぇ……」




