お屋敷の朝御飯事情
《ピチチチチ……》
「心優……」
「ん……お母さん……?」
「心優……!」
「お母さん? お願い……もう少しだけ……寝かせて……?」
「……ミーユ!!」
この太く低音で男らしい声はお母さんではない。
心優は驚いて目を見開くと視界に入った情報の全てを頭の中で迅速に処理する。そして、自分は『異世界転移』したことを思い出した。
「ミーユ……!! ちょっと下りて来い……!!」
ミーユとは一瞬誰のことかと思ったが、彼は何度もその名前を呼ぶので次第に『だれ』を呼んでいるかが明確になった。そして彼が不機嫌になる前に急かされるように階段を下りて声の主の方へ走って行く。
「は、は、はいっ……! 今、行きます……!」
心優はボサボサ頭の中で顔も洗わぬまま階段を下りて、一階の声の主の元へ駆け寄った。そして何やら焦げ臭い臭いがする。まさか火事かと思い慌ててドアを開けた。
「うわっ、すごい煙……!! ゴホッ、ゴホ、ゴホッ……!! クロウ伯爵無事ですか!? これはいったいどうされました?」
黒い煙を手で扇いで寝間着の袖で鼻を覆いながら厨房に立っている一人の不機嫌な紳士に声をかける。
彼はフライパンを片手に持ち一人固まっていた。
すぐに心優は窓を開けて換気をする。煙は窓の隙間から外に逃げ出し、だんだんと事の状況が見えてきた。
「……まっくろコゲコゲだ」
「……は?」
心優はぽかーんと口を開けてクロウ伯爵が手に持っているフライパンに目を向けた。フライパンの上には固い炭の固まりがのっている。
「なぜだ……! なぜうまくいかない……! 一つめは成功したのに……!!」
心優はお皿に盛られている『黄色い固まり』を見つめた。そしてそのとなりにはぐちゃぐちゃに割れた卵の殻らしきものが二つ。
「まさかこれ……卵……? 」
その言葉を聞いて隣に立っている人がすごい形相でこちらを睨み、不機嫌オーラを出したので口を塞いだ。
「クロウ伯爵、まだ卵はありますか……?」
長い髪を片方だけ耳にかけるとクロウ伯爵はかごの中から卵を一個無言で取り出すと心優に渡す。元の世界と全く同じ、真っ白くてコロンとした手のひらサイズのかわいらしい鶏の卵だ。
固い台の上で卵の真ん中を軽く二回、コツコツとたたくと軽くひびが入り、ひび割れた部分に親指と人差し指を添え両手を使って優しく殻を二つに割る。
心優は焦げたフライパンを一度綺麗にしてから、再び薪ストーブの上に置き、フライパンが少しだけ熱くなった後に混ぜた卵を投入する。
フライパンの上にスルンと卵が落ちて、ジュワッと音が鳴る。
フライパンの上で大きくヘラでかき混ぜて、半熟になったところを見計らってお皿にのせる。
「俺は実に良い人材を使用人にしたようだ」
既にテーブルの上にはパンとソーセージ、ベイクドビーンズ、マッシュルームが皿に盛り付けられて置かれている。
心優が作ったスクランブルエッグは彼女の椅子の前に置かれた。
「やはり朝食はスクランブルエッグがないとな」
「私のために作ろうとしてくれたのですか?」
だが、クロウ伯爵は心優の質問には答えてくれず、椅子に座り両手を合わせ朝食を口にした。
心優は厨房に残されたお皿を両手で持つと、自分の席の手前に置かれたお皿と交換して、スクランブルエッグを伯爵に渡す。
「いただきます」
クロウ伯爵はチラッとこちらを見たが、気にすることなくソーセージを食べている。そして、心優の作ったスクランブルエッグが口に運ばれる。
「エメの作る料理に比べると大分庶民的な味だが、おまえの料理も悪くないな」
クロウ伯爵は心優の作ったスクランブルエッグを実においしそうに食べていた。
彼の名は『クロウ・ブラックジェイド伯爵』。乙女ゲームの世界では『黒翡翠の悪魔』と街の住人に呼ばれ意味嫌われている。
「ミーユ、ちょっと手を差し出せ」
「……?」
心優が小さな両手を合わせ前に出すと、クロウ伯爵はズボンのポケットから何かを取りだし、彼女の手の中に渡す。
「この屋敷の合鍵だ」
少し重みのある古びた金色のアンティークの鍵。鍵の先端には二枚の翼を広げた嘴の鋭い鳥の紋章が装飾されてあり、瞳の部分に宝石が埋め込まれているのか光に当たるとキラキラと輝く。
「こんな大切なものいただけません……!! 第一私のお仕事は使用人です。お屋敷を走り回っている合間に無くしてしまったら大変ですし……」
「お子ちゃまはお子ちゃまらしく紐にくくりつけて、首から下げておくといい。これならなくさないだろ? ミーユ」
心優は彼の言葉に従い鍵を首から下げることにした。これじゃあまるで『鍵っ子』だ。お子様扱いされるのは全然納得出来ないけど、もうひとつ気になるのは……。
「私はミーユではなく、心優です。ミユウ!」
「ミーユ、これは愛称だ。俺はおまえに親しみを込めてそう呼ぶことにした。ミーユ、この屋敷は無駄に広い、だらだらと朝食を取っていたら夕方5時までに仕事が終わらなくなるぞ」
「へ……?」
心優は時計の針を確認した。
《午前11時5分》
「クロウ伯爵……! 朝食どころか、もう昼食の時間じゃないですか……!」
クロウ伯爵は銀のスプーンでスープを音を立てずに静かに飲んでいる。
「……ミーユ、今日はいい天気だ。今、洗濯物を干したらすぐに乾くぞ」
初日から寝坊しました。黒埼心優。私は99パーセント攻略不可であるクロウ伯爵の使用人です。