プロローグ*瀬嶺 心優(セミネ ミユウ)
《午後11時13分ーー……》
一人で過ごすには広すぎる空間。欲しいものは何でも手に入るのに胸にはいつもどこかポッカリとした穴が空いていた。ソファーに深く腰をかけ胸に空いた寂しさをふさぐように柔らかなクッションを抱き締めるーー……。
今日の夕御飯は、昼間彼に聞いておいた『リクエスト料理』の味付け肉と野菜の炒め物、マカロニサラダ、生春巻きがお皿に盛られラップで巻かれてテーブルに並べてあった。携帯には「遅くても11時には帰れるから」と連絡があったので、そろそろ帰ってくると思いテーブルに並べたのだが時間になっても家主が帰ってくる様子はない。
もちろん彼が帰ってきたらすぐにお風呂に入れるようにとお風呂の準備も万端で脱衣所には洗い立ての綺麗なバスタオルとパジャマも並べて棚に置いておいた。
きっともう少ししたら帰ってくるはずだと眠たい目を擦って、ブランケットを膝にかけてソファーの背もたれに寄りかかる。
このままここで寝てしまおうか、それとも先にベッドで寝てしまおうかと悩んでいると心優はいつの間にか眠ってしまっていた。
《午前12時30分ーー……》
玄関の鍵が「カチャ」と開き家主が帰宅する。急遽持たされた折り畳み傘のおかげでずぶ濡れになることはなかったが、グレーのトレンチコートは肩に少し雨水が付いていて、何か拭ける物はないかとポケットやら鞄の中を探る。
「心優……」
家主は明かりのついた居間を見て「もしかしたら彼女が気づいてくれるかもしれない」と思い彼女の名前を呼ぶ。しばらくして、返事が返ってこないことを確認すると腕時計の針を見て諦めた。玄関先で濡れたコートを脱いで、マットの上に乱雑に放置して居間の扉を開けるーー……。
いつもと変わらない綺麗に磨かれたフローリング。髪の毛一つ落ちていないカーペット。きちんとラップでくるんでテーブルに置いてある昼間自分が頼んだ『リクエスト料理』。皿からラップを少し外して指でつまんで食べると、冷めてもうまみは変わらず家主の好きな味だったーー……。
しかし、いつもそこで出迎えてくれるはずの彼女の姿がないーー……。
ブランケットにクッション。今ここにいた形跡はあるのに、そこに彼女はいなかったーー……。
先に寝てしまったのかと思い、二階に上がり寝室のドアを開ける。枕元に置かれた二人の記念写真。古い友人にもらったウェディングベア。二つ寄り添うように並べられたベッド。彼女のお気に入りの小花柄の毛布を持ち上げてみても彼女の姿は見つからない。
「そうか」と気づき、お風呂場へ行ってみても、風呂の準備は済んでいるもののやはり誰もいない。「まさか」と思い、浴室の曇りガラスのドアを開け、浴槽の中のふたを開けて覗き込んで見ても、温められたお風呂の中には誰もいなかったーー……。
ここにいるべき人がどこにもいないと分かると急に心拍数が上がり心臓がドクドクと脈を打つ。家主は、キッチン、トイレ、書斎、客室、庭先……様々な所を隈無く探しても彼女はどこにもいないのだーー……。
家主は再び玄関に戻り『彼女の靴』を確認する。普段履いているかわいらしい小さい茶色の靴は玄関先にそろえて置いてあった。下駄箱を確認しても無くなった靴はない。
混乱した頭で自分を落ち着かせるため呪文のように「大丈夫、大丈夫」と繰り返した。そして知人に連絡を取ろうとソファーに座り携帯を触ると何かがフローリングに転がり落ちたーー……。
《カラン、カランーー……》
それはこの世に一つしかない彼女が彼の『妻』である証。銀色の『結婚指輪』がソファーから床に転がり落ちたのだーー……。
それを見て家主『彼女の夫』は顔面蒼白になるーー……。
「俺の妻が指輪を残していなくなってしまったーー……」