月夜の道に
この世界には昔、百万回生きたお偉い猫様がいらっしゃったそうだ。残念ながら、僕たちは一度しか生きられない。だから、僕はおそらく、もうレーゼに会えない。
そして、百万回生きたその猫はずっと、《ねこ》だった。百万回生きて、一回も名前をもらわなかった、名無しの猫。
僕はまだ一回も生き終わっていない猫だけど、二つの名前がある。一つは今の名前。
「クラウン、ご飯」
クラウンというのが今の僕の名前だ。飼い主の優衣がつけてくれた。優衣が一階から呼ぶので、僕は返事をして階段を駆け下りていく。
四年前、僕は優衣と出会った。それ以来、優衣の飼い猫として生きている。今の僕に何一つ不自由はない。食べるものも安心して寝られる場所もある。ただ――。
――あの時、僕は逃げてはいけなかったのかもしれない。
僕が今ここで生きていることは、四年前、僕がまだクラウンでなかった時に、レーゼという猫を見捨てた結果だ。
結局レーゼを救えなかったとしても、最期まで彼女と一緒にいる道はあった。僕はその道ではなく、生き延びる道を選んだ。あの選択は、本当に間違っていなかったのか。これでよかったのか。
もちろん、僕を拾って命を救ってくれた優衣には感謝している。人間の言い回しを借りると「海より深く」だ。海がどれくらい深いのか知らないけど、そんなことは関係ない。そう言えるくらい、深く感謝している。でも。
――僕はここで生きていていいのか。
――あのとき、別の選択をしていたら。
答えのないその問いは、いつまでも僕を苛み続ける。
優衣と僕が出会ったのは四年前。そこに至るまでの経緯をどこから語るべきだろう。いろんな猫や人、ものが関係している。はっきり切り取ることはできない。けれど、どこかから始めないといけない。
僕がレーゼのことを考えるとき、思い出すのはいつも、あの満月の夜のことだ。
◆ ◆ ◆
十数匹の猫が、橋の下に集っていた。一年前、この集会に参加していた猫はもっと多かった。
暗闇にさす一筋の月光が、僕らを照らす光となって夢幻の世界へといざなってくれる。
「月が綺麗よ、クローネ」
レーゼが隣にきて、夜空を見上げながら言った。クローネというのが、この時の僕の名前だった。
「そうだね、でもレーゼのほうがずっと綺麗だから」
そう返すと、レーゼは夜空に瞬く星のように微笑んだ。
川のせせらぎは僕らを邪魔することなく静かに流れていく。僕はレーゼといるささやかな幸せを、確かに感じていた。
この猫の集会で一番の古参である長老が、川べりの箱――演壇になっている――に登って言った。
「今週の報告じゃ。お主らもすでに聞き知っているところではあろうが……モナットが捕まったらしい。保健所に運ばれるのを、見た者がおった」
長老の報告を聞いて、集会の中に一瞬のざわめきが起こり、怒鳴り声も聞こえ、少しして落ち着く。僕はその報告の内容を先に知っていた。それでも、怒りが起こらないわけではない。
「また俺たちのことが嫌いな人間どもか。あいつらは俺たちのことなんかこれっぽっちも考えやしない。ただ自分たちの邪魔になるからって、そんな理由で捕まえるなんて――」
気づいたらヴァルトが後ろにいた。燃え盛る怒りを抑えきれないらしく、前足の肉球を河原の石に叩きつける。普段であれば僕がなだめるところだけど、理由が理由だけに止めはしない。いっそ僕の怒りまで全部まとめて吐き出してくれればいい。
でも、こうして仲間が捕まっていなくなることも、もう日常の一部だった。同じようにして、一匹、二匹と仲間が減っていき、集会の規模はどんどん小さくなった。隣にいる猫が明日にはいなくなっているかもしれないし、自分がいなくなっているかもしれない。そんな恐怖と向き合いながら、生き延びる道を探す毎日。
ふと周りを見渡すと、シュテルンが見当たらなかった。そもそも今日は彼女を見ていない。たまたま見なかっただけ、と片付けるには、集会の規模は小さすぎた。シュテルンは捕まったモナットの恋人だった。モナットが捕まったことは先に知っているはずだ。悲しみに耐えきれずに、今回の集会には参加しなかったのかもしれない。いくら仲間が消えることが日常になったといっても、それが自分の恋人であった日には耐えられないだろう。僕だって、レーゼがいなくなったらと思うと……。
「ねぇ、クローネ」
「何?」
「死なないで、お願い。ずっと一緒にいて」
「大丈夫、きっと君のもとに戻ってくる。レーゼこそ――」
「きっとなんて言わないで、絶対、ね」
「わかってるよ。絶対戻ってくる。だって……」
その後は、あえて口に出さずともわかっている。そう言わんばかりにレーゼが抱き着いてきた。
「ずっと一緒」
感じたのは、彼女の温もりだった。
「クローネ、レーゼ。集会終わったからな。皆さん注意しましょう的な、いつもの説教だけで」
ヴァルトの声だった。その声を聞くと、途端にレーゼが僕から離れた。これは、ヴァルトを恨んでもいいよね――。
僕がにらむと、ヴァルトが気まずそうに明後日の方向を向き、鳴らない口笛を吹いていた。逃げ方が下手すぎる。もはや恨む気も失せた。
「今日はどこに行きたい?」
僕はレーゼに問いかける。そうは言っても、そう多く選択肢があるわけでもない。
「そうね、久しぶりに南の空き地にいってみましょ。今なら、コオロギがたくさん出てるかもしれないから」
僕たちは猫だから、虫や小動物を狩って食べるのは当然のことだ。その辺り、お間違いなく。
「そこに行くなら、行きがけに蘇芳さんの家に寄ればいいか」
蘇芳さんとは、この近くに住んでいる、僕たちのために毎晩食べ物を出してくれる人だ。昔はそんな人がそこら中にいたのに、最近ではめっきり減ってしまったと長老が語っていた。僕が生まれたときから今のような感じだったから、減ったという感覚はない。
こうして蘇芳さんがどのような人なのか語ることはできるものの、実は僕は蘇芳さんにあったことがない。他の猫がそう呼んでいたから、僕も習ってそう呼んでいるというだけだ。それどころか、集会に参加する猫の中でも、蘇芳さんにあったことがあるのは長老くらいしかいない。僕たちにとって「蘇芳さん」はこっそり食べ物を出しておいてくれる、謎で、伝説に近い存在だった。
この時期はまだ獲物があちこちにいるからいい。でも冬になって食べ物が手に入りづらくなると、蘇芳さんのくれる食べ物は貴重な栄養源となる。
「行きましょ」
レーゼがはしばみ色の大きな目を爛々と輝かせて催促した。彼女の目は、ハンターのそれだった。もちろん、僕だってハンターとしては負けはしない。
「行こうか」
僕たちは月夜のもとで走り出す。
人間の言い回しで「風よりも速く」というものがある。ものすごく速いことを表す言葉らしいけれど、猫にとってその表現はあまり速くない。僕たちは普段から風よりも速く走る。僕たちより速い風といえば、それは台風か嵐だ。まさか台風より速く走れとは言わないだろう。走る前に吹き飛ばされてしまう。
僕とレーゼは、月夜の街を風より速く走っていた。それは特段速いわけでもなかった。
建物と建物の間を駆け抜け、塀を跳び越え、目的地へと向かっていく。道なんて関係ない。そんなものに囚われて動きを鈍くするのは人間くらいのものだ。すり抜けたり跳び越えたりすれば、街の中はどこだって走れる。
「レーゼ」
蘇芳さんの家の前の大きな通りを横切るとことだった。走っている車の前に猫が飛び出してきて驚いた経験があることだろう。心配いらない。僕たちだって、車に轢かれないようにちゃんと注意している。止まる必要がないくらいに速く走っているというだけの話だ。
「いいよ」
最低限の言葉で意思疎通を図り、車が行って次の車が来るまでの一瞬の隙をくぐり抜け、蘇芳さんの家の庭へ飛び込んだ。
蘇芳さんの家の庭は年中芝生が丁寧に整備されている。地面にはレンガのような赤茶色のタイルが円形に組んであって、庭の中心には白い石の彫刻があった。二羽のニワトリ……というわけではなく、フクロウだ。残念ながら、あまりセンスがいいとは言えない。でも、その周りに植えられている花は細やかな手入れが行き届いており、その配置が見事だった。
花は猫にとって食べるものではないかって? 失敬な、僕たちだって芸術を鑑賞することくらいできる。その辺に適当に植えられた花なら食べるけど、本当に綺麗なものは食べない。猫に花壇の花を食べられたなら、その人はセンスがなかったということだ。
それに、ここでのルールは長老に叩きこまれている。僕たちは蘇芳さんのくれる食べ物をありがたく頂戴する。その代わり絶対に庭を荒らしてはならない。誰かが庭を荒らしたが最後、もう何ももらえなくなる。子供のころ、そう教わった。
月夜を背負ったフクロウの彫刻。シチュエーションは完璧。それなのに幻想的というわけでもフクロウに威厳があるわけでもないのは、フクロウの眼があまりにも巨大だからだった。
「いつ来ても不気味だね、このフクロウは」
「そんなこと言わないの。それに、昼間来ると周りの花が虹みたいに広がってるわよ」
「結局、フクロウのことはフォローしてないよね、それ」
僕たちのために出してくれる食べ物は、いつもこの円形の庭の端にある。ここにはいつ来ても食べ物があった。いつ出しているのかは知らない。本人に会ったことがないのだから、知らなくて当然だ。蘇芳さんとは何者なのか、ということさえ、最近では疑問に思わなくなってきた。
「今日は鶏ささみみたい」
「さすが、僕の好みをよくわかってる」
猫は基本的に、体に悪くなければなんだって食べる。けれど、誰にだって多少は好みがある。僕は鶏ささみが大好きだ。
「私とクローネが来ることがわかってたわけじゃないし、たまたまじゃないかな……」
レーゼが意外な発言をした。彼女は普段、感覚的な言い方が多い。多少の驚きを覚えつつ、鶏ささみを一枚くわえ、食べる。
「ほら、レーゼも」
食べ物を分け合うのは清き正しき猫の流儀だ。その辺り、仲間内で争ってばかりいるどこかの動物とは違う。
月夜の下で巨大な眼を見開いているフクロウに別れを告げ、僕たちはその庭を後にした。
その夜、コオロギはたくさん獲れた。その時の話をしても、君たちにはあまり気持ちのいいものではないだろう。僕は人間の感覚を優衣の飼い猫となってから学んだ。人間は時に虫を気持ち悪いと感じるということ。僕にとって虫は食べ物だから、気持ち悪いという感覚は全くもって理解不能だ。ありえない。
でも、人間のそんな感覚は知識として知っているから、ここでコオロギ狩りの話をするのは止めておこう。
朝が近づき、満月が森の中に沈む。日の光が水平線で揺らぐころ、僕はレーゼと一緒に、廃駅舎の屋根の下で丸まって寝た。ここが、僕たちの寝床だった。僕たちを襲う人間が入ってこない、安全な寝床だった。
僕は、そんな毎日を、生きるのに必死でもレーゼがいるから幸せだといえる毎日を、当然のように過ごしていた。時には保健所の職員に追われることもあったし、街の中の猫捕獲器にかかりそうになることもあった。けれど、その度に走って逃げ切ったし、捕獲器を壊したり、金具をいじって開けたりして脱出した。今の僕は、捕獲器に入る前に装置を壊して、餌だけ取って悠々と出てくることすらできる。だから、レーゼとああやって約束はしたけれど、そんなに憂慮していたわけでもなかった。
いくら仲間が捕まることがたびたびあったとしても、それが自分にも起こりうると感じるのは、頭では理解していても難しい。誰だってそうだろう。僕も、他人事のように思っていた。だけど……。
そのうち、手遅れになってから気づくのも、みんな同じだ。
太陽が山の木々を赤く燃やしながら沈み、昨日より少し欠けたはずの月が海から出てきて、夜空に高く昇っていた。
僕はレーゼと一緒に駅のごみ箱を漁っていた。残念なことに、駅員が数時間ごとにごみを回収してしまうものだから、最近はあまり収穫がない。
「どうせ燃やすなら僕たちにくれればいいのに」
思わず漏らした僕に、レーゼは苦笑とも落胆ともつかない曖昧な表情をして返した。
「向こうにとってみれば、私たちは邪魔な存在でしかないのよ。それはクローネもわかってるでしょ」
「それはそうなんだけどさ」
わかってはいるけど、納得できないのも事実だ。そんな話をしながら、今日の予定を立てる。もう月の昇りきった時間。こんな遅くに予定を考えるのは、僕の寝起きがあまりにも悪かったからだ。
「どうする? シュテルンのところに顔を出してもいいと思うけど」
モナットの恋人だったシュテルンには、モナットが捕まって以降、会っていない。寝床に一人で籠もっているのは、体にも心にもよくない。会えば励ますなり慰めるなりできる。
「いや、また今度にしましょ。まだモナットがいなくなって日が浅いし、それに、私たちが二人で行くのは……あまりよくないと思うのよ」
雌猫の心理は雌同士が一番わかるはずだ。僕たち雄にはさっぱりわからない思考の筋道が当然のように立っていることも少なくない。理解できない考え方は、無理に理解しなくてもいい。
「そっか」
僕は否定でも肯定でもない返事をすると、シュテルンの寝床以外で今日向かう場所を考えていた。今日は猫の集会はないけれど、起きるのが遅かったからあまり遠出はできない。
「とりあえず、蘇芳さんの家に行こうか。昨日の今日では、コオロギも減ってるだろうし」
「蘇芳さんの家、昨日も行ったばかりなのに、また行くの?」
レーゼの声は、呆れているというわけではなく、なぜか不安そうだった。
「いつものことじゃないか。どうしてまた」
「そっか、何か……嫌な予感がするのよ」
レーゼの声は暗闇に溶けて消えそうだった。ちょっとした不安、という程度ではないようだ。
「うん、嫌ならいいよ。別のところを――」
「いや、行きましょ。気のせいよ、きっと」
不安を振り払ったのか、いつもと同じ笑みを見せてくれる。レーゼがいいというのなら、僕に反対する理由はない。
彼女の、夜空にきらめく星のようなに、僕は魅せられていた。そう、初めて出会った時から。
「いいなら行こうか。途中で誰かに会うかも」
「シュテルンが元気になってるといいけど……」
僕たちは今日も月夜の下を駆ける。変わらない一日は、今日も過ぎていく。
道中、ヴァルトに遭遇した。
「こんばんは、ヴァルト」
「よぉ、クローネ、レーゼ――って、気楽に挨拶してる場合じゃねぇだろ」
「どうした?」
「どうしたって、聞いてないのか。お前らが寝床にしてる廃駅舎が近々取り壊されるって――」
「まさか!」「嘘でしょ!」
僕とレーゼは同時に叫んだ。驚愕や怒り、そして失意。いろいろな感情の混じった叫びだった。
「残念ながら、本当らしい。困ったことに、と言うところか」
「どうしよう、ヴァルト」
レーゼがヴァルトに聞いた。僕じゃダメか、レーゼ。ヴァルトに乗り換えるか。
「どうするって、人間が入ってくる前に寝床替えるしかないだろ」
「そっか……。早くから情報ありがと」
「俺が持ってても役に立たない話だしな。いいってことよ」
彼はぶっきらぼうにそう言ってその場を立ち去ろうとした。
「待って、ヴァルト」
僕が呼び止める。
「どうした、また何か相談でも」
「相談ってほどのことでもないんだけど。シュテルンに会ってないか?」
「いや、会ってないな。悪いな、力になれなくて」
「そんなことないさ」
一瞬でもレーゼを盗られた感じがしたからあまり感謝したくないけれど、紳士たる僕はそんなことはおくびにも出さない。ヴァルトにお礼を言って、僕たちは目的地へと再出発した。
ヴァルトは……ヴァルトがどんな道を歩いて今の生活へと行き着いたのか、僕は知らない。
蘇芳さんの家の庭のフクロウは今日も雄々しく翼を広げていらっしゃった。……その、あまりにも巨大な眼を除けば。同じ大きな目でも、レーゼの目とは全然違う。
「チーズだ、このにおいは」
僕はチーズが嫌いだ。それこそ、においだけでわかるくらいに。チーズを嫌いになった経緯は、ここでは関係ない。
「レーゼ、食べてきていいよ。僕はその辺で虫でも出てないか探してくるから」
「じゃあ、もらってくるわね」
そう言うとレーゼは僕から離れて、チーズの入っている器のところへ向かった。
「さて、僕は」
この庭の植物を食べるようなことは絶対に禁止だ。だけど、この庭にいる虫を探して食べることは問題ないはず。
「鉢植えの下にでも、いるかな」
そのために鉢植えをひっくり返すようなことがあってはならない。爪の入りそうなところを探し、下にいる虫を掻き出す。慎重に……。
――ガシャン。
「きゃぁぁっ」
何かの落ちる音と、レーゼの悲鳴が同時に聞こえた。
僕は体をのけ反らせて跳び上がり、着地するが否やレーゼがいるはずの方向へと駆けた。
「どうした!?」
レーゼの尻尾が見えた。その手前には――。
猫捕獲器の、鉄柵があった。
初めて見るタイプの捕獲器であることが、走りながらでもわかった。いつも見ているものと形が全然違う。それでも、基本的な仕組みは同じはず。走っている勢いのまま正確にタックルすれば、壊せる。
「いけっっ」
あらん限りの力を込めてぶつかった。それなのに、壊れない。
「レーゼ、待って。すぐに開けるから」
僕は捕獲器の金具をガチャガチャといじって、脱出口を作ろうと試みる。
油断していた。毎日食べ物を出しておいてくれる蘇芳さんに、危険はないと思っていた。
――裏切りの蘇芳さん。
いや、そうじゃない。蘇芳さんなんて、本当はそんな人、存在しないのかもしれない。会ったこともない、仮想の存在。それなのに、ここまで信頼してしまうなんて。
僕は捕獲器と格闘し続けた。そして、月は森に沈み、海から太陽が昇る。
夜が明ける――。
「クローネ、もういいよ。私を置いて行って」
「ダメだ、そんなことはできない」
僕の体は、すでにボロボロに傷ついていた。一晩中、金具をいじったり、ぶつかったりしていたのだから当然だ。それでも、捕獲器は開く気配を見せない。
人間は活動をはじめ、僕たちは眠る時間。
もはや体力は残っていない。気力だけで動いている。
そのとき、僕らの上に長い影が差した。思わず見上げる。この庭で初めて見る、人間だった。
「おぉ、本当に猫が引っかかってるじゃねぇか」
この、丁寧な手入れの行き届いた庭の持ち主とは思えない、乱暴な言葉遣いとだらしない身なりだった。
「爺さんの趣味で猫を集められるなんざ、たまったもんじゃねぇ。……と、おまけにもう一匹いるじゃねぇか」
そう言い放つと、男は引き返して庭を出て行った。
「今のうちに逃げて、クローネ。早く」
「そんな! そうしたら君は」
「私はいいから、早く」
男はすぐに戻ってきた。その手には、緑色の網が携えられていた。
「早く逃げてっ」
レーゼが後ろで言うけれど、それはできない。僕は全身の毛を逆立てて男を威嚇する。けれど、男は気にも留めない。
男がこちらに来て、レーゼの入った檻を一旦持ち上げて中身を確認し、乱暴に地面に落とした。
迂闊に噛みつくこともできない。下手すると自分からあの網に入っていくことになりかねない。
男が網を投げる。
僕はボロボロの体に鞭を打って転がり、回避する。
「逃げてっ」
レーゼが叫んだ。僕がここでいくら抵抗しても、レーゼを檻から脱出させることは、できない。
男はまた網を投げてくる。傷ついた今の体では、これ以上、回避を続けられそうになかった。
「ごめん、絶対助けるからっ」
そう叫ぶしかなかった。レーゼと男に背を向け、庭の出口へ走って逃げる。そして、車道へと飛び出す。
いつもなら抜けられる隙間。でも、今の僕はあまりにも動きが鈍っていた。通り抜けるのに失敗した。
僕が車に弾き飛ばされたその一瞬だけ、時間がゆっくりと流れていた。男はレーゼをどこか――十中八九、保健所――に連れていくつもりらしい。檻を持って庭を出ようとしていた。もう僕を追ってはこないようだった。
僕は地面に叩きつけられ、そこですべての力を使い果たした。
◆ ◆ ◆
あの後のことを、僕はよく覚えていない。
確実なのは、僕は生き残ったということだ。車道に倒れていたところを、まだ小さかった優衣が見つけて、動物病院へと連れて行ってくれたらしい。僕は命を救われた。倒れていたところに車が来なかったこと、そこを優衣が通りがかったこと。すべてが、一つの奇跡だ。
ただ、その奇跡は、いいことだけをもたらしたわけではない。優衣との出会いは、そのまま、レーゼとの別れを意味した。レーゼがどこに連れていかれたのか。そして、誰かに引き取られたのか、それとも殺されたのか。今の僕に、知る術はない。
拾われてからしばらくの間、僕は外に出られなかった。それでも、半年くらいして怪我がすっかり治ると、外出を許された。寝床だった廃駅舎や集会所だった橋の下など、思い当たる場所はすべて回ったけれど、ヴァルトにもシュテルンにも、長老にも会えなかった。半年の間に何があったのかはわからない。僕は野良には戻れなかった。
もう一つ、大事なことがある。優衣と優衣の母親が、僕に新しい名前をくれた。
――クラウン。
それは、もとの名前、クローネに、少し響きが似ている気がした。
そうして優衣の飼い猫、クラウンとなって四年。今の生活は、僕の変わらない毎日となっていた。
僕はあの日、レーゼを見捨てた。いくらレーゼが逃げるように言ったとしても、見捨てたことは紛れもない事実だ。
――絶対助ける。
別れ際のその叫びも、嘘になった。
確かにあの日、僕がどんなに抵抗しても、レーゼは救えなかっただろう。
それでも、僕だけが生き延びてよかったのだろうか。
それとも、死ぬ覚悟でレーゼと行くべきだっただろうか。
――答えは誰も教えてくれない。
月夜は何も語らなかった。
お読みいただきありがとうございました。
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本作は「夜猫」シリーズの一作目です。
よろしければ、シリーズ内の他の作品も読んでいただければ幸いです。シリーズ作品には、今作で登場した猫や人も登場します。