無脊椎の空と生物の夢
世の中には、発光する生物が数多くいるが、その自らが発する光を利用し、夜空に擬態する昆虫がいる。オセアニア地方に生息しており、和名はツチボタル。正式にはグロウワームという名で、ホタルではなくハエの一種だ。グロウワームの幼虫は、洞窟の中などに生息している。洞窟の天井に自らが出す粘着質の分泌液を付着させ、それで作り出したチューブ状のものの中で暮らし、発光するのだ。暗い洞窟の中、上空で輝く無数の光は、正しく夜空に煌めく無数の星と見紛うばかり。無限に広がる空間を連想させるその光を見た小さな虫は、そちらに向かって飛べば広大な空間を移動できるはずだと勘違いし、チューブの各所から垂れ下がったカーテン状の粘着物に絡め取られ、生きたまま幼虫の餌食となって、その生涯を終えることとなる。皮肉なことに、かつてその罠を使用して成長したツチボタルの成虫ですらこの罠に引っかかってしまう。
ある大学の研究室。昆虫図鑑の説明を読み終えた拓馬は溜息を吐くと、『グロウワーム』と書かれた昆虫の名の前に☆マークを付け、立ち上がった。このところ、拓馬は毎日図鑑を読み耽っている。
「どうかなさいましたか、前原教授?」
助手の水上涼香が尋ねてくる。
「いや、何でもない。私はもう眠るから、そこに置いてあるシャーレとピペットを片付けておいてくれ。それと、その隣のビーカーにはダルマミジンコがいるから、それもしまうように。それが終わったら帰っていいよ。私はここに泊まるから。」
「はい。やっておきます。でも、教授……」
「ん?」
「くれぐれも、お体には気をつけて下さいね。」
「ああ、分かっているさ。じゃあ、後はよろしく頼むよ、水上君。」
拓馬は研究室を後にする。水上は拓馬に命じられたとおり、コバルトブルーの液体が付着したシャーレとピペットを洗い、乾燥棚に置いた。そして、ビーカーも片づけると、
「お疲れ様でした。」
と誰にともなく呟き、研究室を出た。
毎日図鑑を読んでいるだけで、どう考えても真面目に研究を行っているようには見えない拓馬だが、彼は世界的に有名な無脊椎動物研究の権威だった。彼は原生動物、海綿動物、刺胞動物、環形動物、節足動物、軟体動物、棘皮動物など、全35門からなる無脊椎動物について、27歳であるにもかかわらず、常人のそれを遥かに超えた量の知識を持ち、その全ての生態を知っている、と言っても過言では無かった。彼は大学時代に、原生動物ゾウリムシ、海綿動物イソカイメン、刺胞動物ウンバチイソギンチャク、環形動物ミミズ、節足動物タカアシガニ、軟体動物アオリイカ、棘皮動物バフンウニの7種の生物の生態を調べ上げると、それを300ページ以上に及ぶ卒業論文にまとめ、首席で卒業した。その後、彼は大学院も修了し、その2年後には大学教授となった。異例だが、彼は大学の全ての教授に気に入られており、また論文の内容も正確極まりなかった為、異論を挟まれることもなく教授の座に就いた。彼は常に研究室に籠っており、助手も拓馬が教授の座に就いてから稀に行っていた講義の全てに顔を出していた唯一の学生で、先日大学を卒業した水上涼香ただ一人だけ。水上はとても口が堅い為、研究について何を聞いても答えず、拓馬がなんの研究を行っているか知る者はいなかった。
「お早うございます、教授。」
「ああ、水上君。お早う。」
翌日、水上が出勤すると、拓馬はいつものように図鑑を読みながらコーヒーを飲んでいた。今日読んでいるのは『海洋生物図鑑』。
「今日は何をお調べになっているのですか?」
「別にこれといったものは調べていないよ。私は夢を達成する為に調べているだけさ。」
拓馬の夢。それは全ての無脊椎動物の生態を調べ尽くし、自らの手で世界中にいる全ての無脊椎動物の図鑑を作り上げること。この事を知っているのも水上のみだ。
「教授は夢があって羨ましいです。私にはやりたいことなんかありません。」
「水上君はいつも私を助けてくれるじゃないか。それだけでいい。君が助手であることを私は誇りに思うよ。」
拓馬が言うと、水上は、
「いえ、そんな……」
と頬を赤らめた。そして、
「教授、今読んでいるのは何という生物の説明ですか?」
と聞いた。
「ウミケムシという名の生物の説明だよ。ケムシと言っても節足動物の昆虫類に分類される訳ではなく、ミミズやゴカイやヒルと同じ環形動物だ。体の側部に体毛を持ち、警戒すると毛を逆立てる。刺された瞬間に毒が注入されるため、毒針を抜いても毒は残り、激しい痛みと痒み、火傷の後のような腫れに襲われる。毒の種類はコンプラニンで、注入される毒の量も少ないから死ぬ事は無い。応急処置も剛毛を抜き、流水で洗い流す、という比較的簡単な方法だ。ただ、死んでも毒は残るから亡骸にも触らない方が良いだろうな。」
拓馬は話しながら、『ウミケムシ』と書かれた環形動物の名の前に☆マークを付ける。そしてまたページを捲り始めた。
「いつも不思議だったのですが、教授が偶に生物名の前に付けるそのマーク、何なんですか?」
「ああ、これは私がまだ会ったことのない生物に付けているのさ。やはり私の目指す完全なる『無脊椎動物図鑑』、それに載せる写真も説明文も、私と水上君だけの手で作り上げたいからね。」
「わ、私もその作成に参加することになっているのですか?」
「不満かい? やりたくないなら強制はしないが……」
「いえ、そんなことはありません。ただ、私のような若輩者が教授の夢に協力など……」
「君だからこそ私は協力してほしいのだよ、水上君。私の講義に欠かさず出席し続けてくれたのは君だけだ。それに、私の研究をずっと傍で支えてくれたじゃないか。君がいなければ、私は今の世界に知られる『無脊椎動物の権威である前原拓馬』にはなれていなかった。」
「私が手伝わせて頂く前から教授は既に無脊椎動物の権威でしたよ。私の協力など、微々たるものです。せいぜい眠気覚ましの濃いコーヒーを淹れるぐらいしかしていませんし。教授の中には世界中に知られる素質が元からあったんです。」
「塵も積もれば山となる、だ。今日の私があるのは、君の協力があったからに他ならない。」
拓馬は拳を握りしめて断言する。
「私の研究を見続けてきたのも君だ。私の夢を叶える為には君の協力が必要なんだよ。」
「教授にそこまで仰って頂けるなら、私も自信が出てきました。精一杯、協力させて頂きます!」
「ありがとう。じゃあ、早速なんだが、こっちの図鑑を調べてみてくれ。このリストには私が教授になる前の二年間で出会い、写真に納めた生物の名が書いてある。この表に載っていない生物を探して、その生物の名の前に☆マークを付け、名を書き出してくれ。」
拓馬は、水上の前に200枚以上はありそうな紙の束と、分厚い図鑑を10冊ほど置いた。
「教授、これを全部ですか?」
「ああ、今日は出来れば『猛毒生物図鑑』一冊でいいよ。急いではいないから。重要なのは早さよりも正確性さ。」
それだけ言うと拓馬はノートパソコンを立ち上げ、指の動きを目で追うのが大変な程の高速でタイピングを始めた。水上がそっと覗き込むと、そこにはもの凄い勢いで完成していく無脊椎動物のデータがあった。
「今打ち込んでいるのは海綿動物のデータだ。大学生時代に調べたイソカイメンについては十分なデータが揃っているからもう調査は必要ないが、他はしっかりと調査しなければならなかったからね。」
拓馬は右手でキーボードを叩きつつ、左手でパソコンの横に積まれているノートの山を軽く叩いた。20冊を下らない冊数だ。水上はそのノートの量を見て、拓馬がどれだけ真剣に夢と向き合っているかを改めて感じ取った。そして、その夢に協力させてもらえるということに誇りを感じた。彼女は図鑑を捲り、拓馬が会ったことのない生物の名を探し始めたのだった。
「教授、『猛毒生物図鑑』はチェックし終わりました。」
「ありがとう、助かったよ。コーヒーを淹れたから、飲んでくれ。」
「ありがとうございます。」
「ふむ……キラービー、オオスズメバチ、ツマアカスズメバチ、オブトサソリ、マダラサソリ、カギノテクラゲ、ハブクラゲ、アンボイナガイ、ベッコウイモガイ、オニヒトデ、ガンガゼ、ラッパウニ、スベスベマンジュウガニ、ウモレオウギガニか。全て合っているな。」
「あ、合っている? どういう事でしょうか?」
「実は今までにも、他人に手伝わせてみようとしたことはあったのだが、毎回必ず間違っていたんだ。君を信用していない訳ではないのだが、正確性が必要な仕事だからね。実は、そのリストはダミーなんだ。その『猛毒生物図鑑』にも、私が出会ったことのない生物は掲載されていない。写真提供者の欄を見てごらん。」
「え? ……あっ、これの写真提供者は教授じゃないですか!」
「その通り。そこに載っている無脊椎動物の写真を提供したのは私なんだよ。教授になる前に撮った写真を提供して貰えないかと研究機関に頼まれてね。」
拓馬は引き出しから分厚い紙の束を取り出すと、ひらひらと振って、
「こっちが本物のリストだよ。」
と、水上に渡した。
「君は一つも間違えずにしっかり仕事を終えた。試すような真似をしてすまなかったね。素晴らしいよ。これなら安心して調査を任せられる。」
拓馬は晴れやかな笑みを浮かべた。
「今日はもう帰ってもいいよ。本格的に、明日から調査を始める。」
そう言われ、水上はコーヒーを飲み干すと、
「分かりました。今日は帰らせて頂きます。教授、御疲れ様でした。」
と、研究室を後にした。教授には敵わないな……といったような苦笑いを浮かべながら。
一週間後、水上は拓馬から与えられた10冊の図鑑を隈なく探し尽くし、チェックをした。結果、拓馬がまだ写真として納めることができていない生物は、残りあと4種ということが分かった。昆虫が1種、海棲生物が3種。
「残りも少ない。私の夢が達成される日は近いぞ。」
「でも、写真が無いんですよね? どうするんですか?」
「その地へ行って、我々の手で撮るしかない。」
「撮りに行くんですか?」
「無論、その通り。我々の手で作るのだから、写真も我々の手で撮るんだよ。水上君、明日は5日分の服とパスポートを持って来てくれたまえ。」
「まさか……」
「おっと、それ以上は言わないように。さあ、今日はもう上がってくれて構わないよ。」
「……分かりました。」
水上は、何か釈然としない気持ちを抱えつつも、研究室を出て家路についた。
翌日、水上が大学に到着すると、白衣を身に付けた拓馬が、トランクを携えて門の前に立っていた。近くにはタクシーが止まっている。
「お早うございます、教授。」
「ああ、お早う、水上君。今日はちゃんと5日分の着替えとパスポートを持って来たかい?」
「はい。今日は何をするんですか?」
「写真を撮りに行くんだ。」
「え? それって……」
「まだ会ったことのない全ての無脊椎動物をこの手で写真に納めるのさ! さ、水上君! 港へ行くぞ!」
「やっぱり5日分の着替えはその為でしたか……」
水上は呆れたような顔をしつつも、タクシーに乗り込んだ。
「ここから一番近い港まで。道路交通法の範囲内でぶっ飛ばしてくれ。」
拓馬が言うと、タクシーは間髪入れずに港へと走り出した。
「何でわざわざオーストラリアに行くんですか? 日本の近海にいる生物もいますよね?」
「それはそうだが、日本近海は彼らの元いた場所ではない。できる限りその生物の本来の生息地で撮りたいじゃないか。」
拓馬は船の操縦席で水上をチラリとも見ずにそう言った。その目は魚群探知機の方を向いている。魚でなくとも水棲生物は魚群探知機での探知が可能の為、拓馬は魚群探知機から目を離さない。ゴーストと呼ばれる存在しない影を映すこともあるが、魚群探知機以上に頼りになる器具を搭載する程の資金など拓馬の財布にも水上の財布にも研究室にもなかった。
「ウミケムシは太平洋南西部からインド洋にかけて分布している。ちょうど通過するから、ついでに調査してしまおう。」
「ウミケムシ、ってあのコンプラニンを持つ有毒環形動物ですか?」
「ああ。五界説に則って正確に細分するなら動物界環形動物門多毛類ウミケムシ科に属する。夜行性で、昼は海底から顔のみを覗かせていることが多いな。投げ釣りの際に外道としてかかることがままあるらしいが、写真を撮る為に針から外す際に刺される可能性がある。刺されたところで我々が死ぬことはないが、やはり危ないし、釣り上げたらウミケムシの方が死んでしまうかもしれない。やはり生体を水中で撮りたいね。泳いでいる方が躍動感もあるし。」
「でしたら、夜に潜るのがベストかと思います。」
「夜か……まあ、どうせ魚群探知機から目を離すことなんてできないし、丁度この付近にはまだ写真が無いオーストラリアウンバチクラゲとタガヤサンミナシガイもいるからいいか。ここはもう南半球だからオーストラリアにもすぐ到着するし、明日の午前4時30分まで停泊しよう。」
「オーストラリアウンバチクラゲとタガヤサンミナシガイもこの辺りに分布しているんですか?」
「ああ。オーストラリアウンバチクラゲはインド洋南部からオーストラリア西方近海に、タガヤサンミナシガイはインド洋と太平洋に分布している。最近は地球温暖化の影響もあって少し生息域がずれてきてはいるが、基本的には変わらないだろう。因みに、オーストラリアウンバチクラゲはタンパク質性毒を持ち、刺された場合は10分くらいで死に至る。世界で最も多くの人間を殺している最強のクラゲだ。タガヤサンミナシガイの方はコノトキシンを持ち、こっちも刺されたらまず間違いなく死ぬね。アンボイナガイに次いで、世界で2番目に毒が強い貝だから。」
死ぬ死ぬ言っている割に、拓馬は涼しい顔だ。
「なんで出会ったことが無いのに、そんなに詳細な情報をご存知なんですか?」
「詳細な情報? この程度は常識だろう?」
拓馬はキョトンとした顔で水上に聞く。
「教授の常識は私のような世間一般的な人間の常識とは格が違うようですね……まあ、それは兎も角、そんな危険生物を相手のフィールドである海で撮ろうなんて、凄く危ないんじゃないですか?」
「これだって夢を達成させるためだ。例え有毒生物が相手でも、引くことはできない。これは戦い、絶対に負けられない戦いなんだよ。それも、ただの掛け声だけでは勝てない戦いだ。」
「何で有毒生物ばかり残っているんですかね?」
「それは私にだって分からない。神のみぞ知る、あるいは生命の神秘、って奴じゃないか?」
拓馬は漁船のエンジンを止めると、意味深な笑みを浮かべた。
「よし、ウミケムシ、タガヤサンミナシガイ、オーストラリアウンバチクラゲの写真は撮れたね。大いなる収穫だ。生体の捕獲もできたし、万々歳だ。」
午前3時50分、拓馬は水中カメラと捕獲した生物を眺めながら上機嫌だ。
「良かったですね、教授。」
「ああ。また夢の達成に一歩近付いた。あとはオーストラリアでグロウワームを幼虫、成虫共に写真に納められればクリアだ。日本に帰れるよ。」
「残りの生物はグロウワーム、ですか?」
「ああ。夜空に擬態するハエの一種で、和名はツチボタルだ。とても綺麗らしいよ。まるで、この夜空のようにね。」
拓馬は甲板にしゃがみ込むと、水上が淹れてくれた濃いコーヒーを飲みながら空を見上げた。北半球の日本では見ることのできない星座が輝いている。
「こんなふうに、ですか……まさか夜空に擬態するなんて。」
「正しく生命の神秘だ。やはり生命は秘密に満ちているな。」
「教授、夢を達成されたら、どうなさるお心算なのですか?」
「私の人生に予定は存在しない。やりたいことを、やりたいだけやる。それが私の生き方だよ。」
「強いて言うなら、何かないんですか?」
「強いて言うなら、か。私が次にやりたいことは……」
拓馬は、
「まあ、普通の学者ならば次は新種の発見だろう。私だって新種を発見したい気持ちはあるよ。だが、それよりも……」
と言うと、少し口ごもり、
「水上君の夢を手伝いたい。君は私の研究に3年もの間興味を示し、協力し続けてくれた。私はその借りを返させてもらいたいね。」
と呟くように言った。
「私の夢、ですか?」
「ああ。君にだって夢はあるだろう?」
「私は前に言ったような気がします。私にはやりたいことなんかありません、と。」
「なら質問で返そう。強いて言うなら?」
拓馬は少し悪戯っぽい笑みを浮かべて問う。
「強いて言うなら……私は教授の研究を手伝いたい。教授の研究に協力できるのなら、私にとってそれは最高の栄誉であり、それだけで幸せですから。大好きな生物たちに囲まれて、大好きな研究をしていられる。しかも、それがずっと憧れ続けた世界的な権威の教授、前原拓馬の役に立つ。それ以上の幸せはありません。私の夢は、教授の研究を手伝い続けることです。教授の研究を手助けさせて頂くのはかなりハードですが、もう無茶ぶりには慣れました。ついていくことくらい何でもありませんよ。」
「ハハハ、頼もしいことを言ってくれるね。ならばまず、私の無脊椎動物図鑑を完成させ、新たな夢を見つけなければな。それで水上君の夢が達成に近付くのならば尚更だ。」
そう言うと、拓馬は船のエンジンをかけ、操縦席に座った。
「全速前進!」
拓馬が操縦桿を握り、船は海の上を滑っていった。
「おお、これがグロウワームか……」
オーストラリアの洞窟の中。拓馬は感動したような顔でそう呟いた。洞窟の中だというのに、それを感じさせないような無数の光が瞬いている。
「こんなに美しい夜空のような光景を無脊椎動物が作り出すなんて……」
水上も感動顔だ。
「素晴らしい。やはり生命は神秘の宝庫だな。」
拓馬はデジタル一眼レフカメラを取り出し、フラッシュを焚かずにグロウワームが作り出す夜空を撮影し始めた。
「うむ……これでは夜空の写真に見えてしまうかもしれないな……まあ、先程本当の夜空は撮ったし、並べて掲載すれば問題ないだろう。」
拓馬はそう言うと、更に何枚かグロウワームを写真に納めるのだった。
「まさか一晩で成虫まで写真に納められるとは思わなかったよ。これは嬉しい誤算だ。では水上君、すまないが写真を選んでおいてくれるかい?」
「はい、お任せください。」
「じゃあ、頼んだよ。」
拓馬は操縦桿を握り、船を進める。水上は揺れる船の上で、ウミケムシ、オーストラリアウンバチクラゲ、タガヤサンミナシガイ、グロウワームの写真を選び始めた。拓馬の図鑑に載せる写真なのだから、躍動感と無脊椎動物の魅力があるものが良いだろう。水中の有毒生物も、星空のようなグロウワームも。
「教授の輝かしい軌跡の1ページになるのだから、慎重に選ばないと……」
水上は一枚一枚、じっくりと吟味して選んでゆく。ぶれたものも躍動感の一部として捉え、しっかりと細部に至るまで丹念に確認。ようやく選び終わった時には、もう船は日本の領海に入っていた。
「水上君、そろそろ選べたかい?」
拓馬が操縦桿を握ったまま、そう聞いてくる。
「はい。オーストラリアウンバチクラゲは身体が透明っぽくて見え辛いですが、比較的分かりやすいものを選びました。その他は色彩がはっきりしているので、一番躍動感があるものを。」
笑顔で選んだ写真を差し出す水上。拓馬はそれに目を通すと、
「うん、いい写真だ。良く選んでくれたね、水上君。」
と言って、満足そうに頷いた。
研究室に戻った拓馬と水上は、今までに溜めたデータの整理に奔走した。まずは無脊椎動物の全35門における動物の位置づけ、門、目、科、属、種の分類。更に説明文や生息地などの誤字脱字の訂正、新たなデータの挿入など。3日間全く眠らずに作業した結果、ほとんどのデータを整理することができた。
「あとはグロウワームの位置づけだな……これ程美しいものに擬態する無脊椎動物は他にはいないから、出来るだけ目に触れやすいところに置きたいと思うのだが……」
拓馬は苦悶の表情を作る。ゲンジボタルやヘイケボタルと並べてやれば美しさがより際立っていいかとも思うのだが、この種は和名がツチボタルであっても生物学上はハエであり、ホタルと近縁ではない。しかし、図鑑の最初にハエが来るというのもしっくりこない。目立ち、且つ美しさを際立たせられる位置が考えつかないのだ。
「水上君はどう思うかね?」
「私ですか? 私は……」
水上はしばし考え込むような表情を作った後、
「いっそ、最後というのはどうでしょうか?」
「最後かい?」
「はい。水中や水辺の無脊椎動物と陸上の無脊椎動物で大別し、その中で更に門、目、科、属、種の別をつけていけばいいかと。それも、大きさの順で並べていけばグロウワームは節足動物門の中でもかなり小さいので、最後に来ても不自然ではありません。図鑑の最後のページにある、無脊椎動物が作り出す星空は心に残ると思うのですが……いかがでしょうか?」
水上のこの提案に、拓斗は目を輝かせた。
「確かに、それならば不自然さを残さずにグロウワームの美しさを引き立てることができる……さすがだ、水上君! ならばさっそく並び替えだ! 手伝ってくれ!」
「了解しました。」
拓馬と水上は、飛び立つ前の飛行機のように猛然と写真の並び替えをするのだった。
「ふう、終わりましたね、教授。」
「ああ。全てを並べ替えるのは大変だったな。3日の徹夜分をリセットして更に3日徹夜。作業中は眠気など感じなかったが、終わったとなると流石に睡魔に襲われるか……水上君、コーヒーを淹れてくれないか?」
「はい。そう仰ると思っていましたので、既に準備できています。」
「君は本当に優秀だな。君が助手で私は誇らしいよ。」
コーヒーの入ったカップを傾けながら拓馬は呟くように言う。
「ともあれこれで完成だ。あとは出版すれば、私の現在の夢は達成されたことになる。」
「これは私にとっても最初の成果ですから、生涯忘れない思い出になりそうです。」
「ハハハ、私の助手を続ける君に簡単に忘れられては困るな。」
拓馬は愉快そうに笑う。つられて水上も笑った。
「さて、ではこれの出版手続きを取っておいてくれ。それが終わったら帰っていいよ。私はここに泊まる。」
「あの、教授……」
「うん? 何だい?」
「私はここに泊まってはいけないのですか?」
「泊まりたいのかい?」
「教授が許可してくださるなら……」
「ならば水上君、君はソファを使いたまえ。私は床で眠る。先に行っているよ。」
そう言うと、拓馬は寝袋を持って研究室を後にした。
「教授は恐らく気付いていらっしゃらないのでしょうね、私の心の内を……」
水上はそう呟くと、図鑑の出版手続きを取り始めた。
「いつも教授のお手伝いをさせて頂いているのは私なのに……教授の講義をずっと聞かせて頂いていたのも私だけなのに……」
水上はどこか釈然としないような表情を浮かべながらも、手続きを続ける。そして、いつもと同じように誰にともなく頭を下げると、研究室の隣の部屋へと向かった。
「教授、失礼します。」
水上がそう言ってドアを開けると、拓馬は寝袋に入った状態で天井を見上げていた。
「あれ? 教授、まだお休みになっていらっしゃらなかったのですか?」
「ああ。水上君が何かつぶやいていたから気になってしまってね。盗み聞きのような形になってしまったことは謝るよ。」
「えっ? 教授、全部聞こえていたんですか?」
「まあね。手伝ってるのも講義を聞いていたのも私だけなのに……って言っているのは聞こえたよ。その後は聞こえなかったけど。」
拓馬のこの言葉に、水上の顔がポーッと上気した。
「き、聞こえていらっしゃってもそういうことは言わないのがマナーなのではないんですか?」
水上は照れ隠しで少し怒ったように言う。しかし、その言葉に拓馬は首を傾げた。
「そうなのかい? 残念ながら私はほとんど人付き合いをしないし、無脊椎動物を追って生活した後は無脊椎動物に囲まれた状態で生きてきたから、水上君の言う『マナー』というものは知らないね。」
「教授は都合が悪くなるとすぐそうやってはぐらかされますね。悪い癖ですよ。」
「ほう、そうなのか。私はどうやら日常生活を水上君に教わらなければならないようだ。」
「むう……そんなことを言われたら私は言葉を返せないじゃないですか。ズルいですよ、教授。」
「そんなことはないと思うが。私はどうやら『日常生活常識欠乏症』なるものに罹患しているようだからね。」
水上の論を拓馬は飄々として躱す。
「教授、屁理屈ばかり捏ねないでください。」
「…………」
「今度は無視ですか、教授?」
「…………」
「あれ? もしかして……」
「zzz……」
「もう眠ってる!?」
もはや呆れを通り越して感心してしまう水上だった。
「んん……」
翌朝、水上が目を覚ますと、既に拓馬の姿はなかった。机の上に紙切れが置かれていたので、それを手に取ると、それは拓馬の置手紙だった。
『水上涼香君へ
これまで私の研究に付き合ってくれてありがとう。君のおかげで私は、今世に知られている全ての無脊椎動物を図鑑にまとめるという夢を達成することができた。もう十分だ。いつまでも私の研究に縛られ続けないでいい。これからは水上君も自分の夢を見つけ、それに向かって邁進したまえ。私の研究を手伝うこと、以外で。私は新たな夢を見つける為、しばらく海外へ行ってくるよ。また新たな夢を見つけ、私が戻ってきたときにまだ君が私を受け入れてくれるならば、その時はまた研究を手伝って貰えると嬉しい。私がいなくてももう君は立派な無脊椎動物の研究者だ。これからの君の生物学会という大空での羽ばたきを期待しているよ。
教授 前原拓馬
追伸:決して私を追いかけないように。そして、研究室には入らないように。』
これを読んだ水上の顔から血の気が引いた。拓馬が水上を置いていなくなる。それは水上にとって、ある意味で死よりもつらい事なのだ。
「教授……分かりました。私は教授には縛られません。」
そう呟くと、水上は廊下へ出、研究室のドアを躊躇いなく開けた。すると、そこには、
「ずいぶん遅かったな、水上君。」
なぜか海外へ行ってしまっているはずの拓馬がいた。
「き、教授? なぜいらっしゃるんですか?」
「ここは私の研究室だよ。いてはいけない理由でもあるのかい?」
「い、いえ……そんなことはありませんが、置手紙が……」
「置手紙? 何の話だい?」
「これです!」
水上は机の上に置いてあった拓馬の置手紙を差し出す。すると拓馬は、
「ああ、これは昨日の夜に書いたものだな。」
と言った。
「また試すような真似をしてすまないね。君がこれを読んで、本当に私に縛られないかどうか確かめさせて貰った。まあ、その手紙の内容に関しては気にする必要はない。水上君の方から私のもとを去るならともかく、私が水上君に離れてほしいなどとは、決して言わないからね。」
「教授、そこまで私を信頼して……?」
「当たり前じゃないか。私の研究にずっと興味を示し、手助けをし続けてくれた可愛い教え子を私の方から切れる訳がないだろう?」
拓馬はさも当然のようにそう言う。
「水上君、これからも私を支えてくれるね?」
拓馬の言葉に、水上はしっかりと頷いた。
「はい! これからも、教授が夢を叶えるお手伝いを精一杯させて頂きます!」