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無言の情景  作者: 深瀬静流
9/12

9  稜介

 翌日、桜新町のマンションに帰ってみると、豊貴が部屋のすみにもぐりこんで、テレビとオーディオのプラグがささっているコンセントをいじくりまわしていた。細い指が、弛んだプラグの隙間にいまにもはまりそうで、稜介は声を上げそうになった。

 急いで走り寄って豊貴を抱き上げる。豊貴は稜介にきゃわきゃわ笑いかけて鼻の頭にかぶりついてきた。

 真近はなにをしているのだと腹をたてて振り返ると、ベランダでせっせと洗濯物を干していた。角ハンガーには豊貴のベビーウエアに混じってチエリのブラジャーやパンティーまであった。

 稜介の頭に血が上った。豊貴を抱いたまま、ソファにだらしなく寝そべって、ニヤニヤ笑っているチエリのところに歩み寄り、思い切りソファを蹴りつけた。ソファが三十センチほどずれたが、チエリは平然と稜介を見上げて笑っていた。

「岸田に洗濯させて、おまえはなにもしないでそうやってゴロゴロしていたのか」

 へらへら笑っているチエリにますます怒りがわいた。

「豊貴がコンセントをいじっていたのを見てただろ。豊貴が感電したらどうするんだ」

「感電なんかしないよ。心配性なんだから」

「子供の世話ぐらいちゃんとしろ。おまえの子供だろ、責任を持って育てろよ」

「一人じゃ無理だよ。助けてよ稜介」

 軽い調子の物言いに稜介の眉がさらに引き絞られた。

「なんで中央林間の家を出たんだ。なぜあそこで豊貴と暮らさないんだ。豊貴を保育園に入れて、おまえが働けば、親父の残してくれた貯金や生命保険があるんだから何とか暮らしていけるはずだろ。親子二人ぐらい、やっていけないはずがない」

「あの家は稜介が生まれて育った稜介の家だよ。稜介のものだ」

「親父がおまえと結婚したときから、あそこはおまえと豊貴の家になったんだよ」

 洗濯物を干し終えてリビングに戻ってきていた真近が、ぽかんとした。

「え、稜介はトンチのパパじゃなかったの?」

「俺は独身だ!」

 噛みつくように真近に言い返して、抱いていた豊貴をチエリに押しつけた。

「あの家に帰れ。今すぐ行け」

「いやだね。豊貴と二人じゃ広すぎるよ。稜介、一緒に暮らそうよ」

「世間の笑いものになるのは真っ平だ。俺はおまえみたいに面の皮が厚くできていないんでね」

「そういえば、サトルが店に来たわよ。サトルのこと覚えてるでしょ。稜介が高校の部活で一緒だったヤツ。サービスしたら大喜びしてたわよ。こんど高校の友達連れてくるってさ」

 あはは、とチエリが笑った。ますます稜介の表情が苦くなった。

「おまえ、今すぐここからいなくなれ」

「豊貴、お兄ちゃんは意地悪だね。でもね、お父さんは死んじゃったから、お兄ちゃんを頼るほかないんだよね」

 ね、豊貴、と哀れっぽく豊貴を抱きしめて見上げてくるチエリに、稜介はぐっと詰まった。

「トンチのお兄さん? 稜介はトンチのお兄さんなの?」

 首を傾げている真近をちらりとみて、稜介はうんざりしたように息を吐き出した。

「そうだよ。この女は、お袋を亡くして一人寂しく暮らしていた俺の親父をたらしこんで結婚したんだ。豊貴は親父の子供だ。つまり、俺の弟だ」

「どうして稜介と結婚しないで、稜介のお父さんと結婚したの。だって、トンチママは稜介が好きだよね」

 チエリに向かって不思議そうに訊ねる真近の言葉に、稜介は硬直した。

「あたしが稜介を好きだってよくわかったね真近。あたしは稜介と結婚したかったんだけど、稜介はあたしのことがキライだから、仕方なく稜介のお父さんと結婚したんだよ」

 プチッと何かが稜介の中で切れた。

「俺の親父のことを、仕方なくって、なんだよそれ」

 稜介はチエリに飛び掛っていった。

 豊貴ごとソファにもつれて首を締められているチエリから豊貴を奪って、真近は部屋のすみに逃げだした。

「やめなよ稜介!」

 真近は大きな声をだした。

「よくも親父を辱めたな。親父はおまえのことを本当に大切に思っていたんだぞ。生命保険の金額を知っているのか。命短い自分だから、あとに残されたチエリと豊貴のためにしてやれるのは、これくらいしかないっていったんだぞ。豊貴が生まれたとき、泣いて喜んだんだぞ。それなのに、仕方なく結婚したって、なんだよそれ」

 稜介は真っ赤な顔でチエリに馬乗りになって細い首を両手で締め上げ、ソファに頭を打ち付けた。

 チエリの長い髪が乱れて顔にかかり、稜介の手をはずそうとして、首に巻きついている手に爪を立てている。しかし、さほど苦しくないのか、チエリの唇には薄笑いが浮かんでいた。

「だって稜介、ちっとも遊んでくれなかったじゃない」

 動きを止めた稜介に、チエリが追い討ちをかけるように続けた。

「まじめな顔して、勉強もスポーツもよくできて、友達からは信頼されて、先生からもかわいがられて、言うことなしの優等生は、あたしのことを薄汚い野良犬みたいな目で見てたよね。腹の中で軽蔑しているくせに、あんた、ほんとはあたしと遊びたかったんでしょ。偽、善、者」

 けたたましい笑い声をあげたチエリから手を離して、稜介はよろりと立ち上がった。顔面は蒼白だった。

「だれが、おまえなんかと」

 怒りのあまり喉が詰まった。チエリに投げつけてやりたい言葉が頭の中で渦を巻いているのに、順序立てて言葉にできない。記憶の映像が稜介の内部ですごいスピードで流れていく。

 高校一年の時、初めてチエリから声をかけられた体育館の渡り廊下。

 部活帰りの夕暮れ時の公園で見た、チエリと上級生男子のベンチでの行為。

 意識したくなくても意識させられていく「あそぼうよ」と誘う言葉。

 チエリのような、異性にも生活にもだらしのない女と正反対の女性に、稜介から申し込んで始まった交際も、まわりにちらつくチエリのせいで何度も破局していった。我慢が切れてチエリを呼び出して、叩いてしまった二十歳のころの苦い出来事。

 就職して社会人になってからは、生活の変化に伴ってチエリの存在を忘れていた。仕事を覚えることに懸命だった。会社では、自分より年上の人々ばかりで神経を使い夢中で過ごした。

 就職して一年が過ぎたあたりで母の乳ガンが発見されて家族は衝撃を受けた。そのあたりから、またチエリの姿がちらつきだしたのだ。

「おまえには、いい思い出がない」

 我慢できないと稜介は、言葉にならない感情を奥歯の隙間ですりつぶした。

 ソファに座りなおしたチエリが、バカにするように顔をゆがめた。

「まさか、自分の不幸はみんなあたしのせいだとでもいうんじゃないでしょうね。昔のあれやこれやを、全部あたしに結びつけるのはやめてよね」

 大人なんだからさ、あたしたち、となだめるように舌の先で声を転がし、上目使いに見上げてくる。

 ずるい表情に頭が沸騰した。それなのに、媚びを含んだ目元や唇が、ぞくっとするほど色っぽかった。稜介は拳を握りしめて下におろしている腕に力を込めた。そうしないと二十歳の頃のように、またチエリを叩いてしまいそうだった。

 こういう顔を父親にも向けたのかと思うと、チエリの美しい顔も憎らしかった。死んだ母親がかわいそうだった。母親は亡くなっているからチエリとは関係ないようなものなのだが、こんな女に豊直をとられては草場の影で浮かばれないだろうと思った。そして豊貴が生まれたときの豊直の喜びかたを思い出すと胸がつぶれそうに痛んだ。豊直もかわいそうだと思った。

 五十五歳でチエリと再婚した豊直は、ほんとうならまだまだ元気で家族を支えていたはずなのだ。それなのに、どうしてこううまく行かないのだろう。チエリの存在が邪魔でならなかった。

 玄関のインターホンのチャイムがなったが、チエリを睨みつけていた稜介には、チャイムの音が聞こえなかった。真近は豊貴を抱いて玄関にでた。職業の見当がつかない男が二人、白ワイシャツにノーネクタイで玄関前に立っていた。

 撫でつけた髪型といい、眉を細く剃りあげた目つきの悪さといい、肩と膝の関節の力が抜けたような立ち姿は、堅気の社会人には見えなかった。二十代後半から三十代半ばぐらいの年齢の二人は、豊貴を抱いて玄関に立っている真近に薄ら笑いを浮かべた。

「こちらに坂木チエリさんがいるでしょ。ちょっと呼んでもらえませんかね」

 ワイシャツの袖をまくった手首に太いゴールドの重そうなブレスレットをした若いほうが、ブレスレットを揺らしながら額の汗を手の甲で拭った。

 もう一人の男のほうは、流れる汗を拭いもせずに、口を引き結んで茫洋とした目を廊下の奥に投げかけていた。

「トンチママ、お客さんだよ」

 真近は男たちを見ながら大きな声をだした。世間に疎い真近ではあったが、生白い肌をした来訪者はなんとなく怖かった。

「聞こえていないみたいだから、オニイちゃんがつれてきてよ。暑くて苛ついているから早くしてね」

 ブレスレットの男が言い終わらないうちに廊下に足音がして、チエリが飛び出してきた。

「探したぜチエリ。用件はわかってるよな」

 話す役割はブレスレットの男の担当なのか、もう一人のほうはしゃべらなかった。しゃべる男よりもしゃべらない男のほうが不気味だった。

 チエリはいきなり男たちに体当たりすると、裸足のまま逃げ出した。全速力で無人の外廊下を走りだしたチエリの胴を、無口な男がすくい上げるように捕まえた。手馴れてすばやい動きだった。きつく腕で胴を締めあげられてチエリのからだが二つに折れた。

「稜介、大変だ。早く来て」

 真近の叫び声で玄関に出てみると、外廊下で知らない男たちとチエリがもみ合っていた。

「なんなんだ、あんたたちは」

 サンダルを突っかけて歩み寄り、男の手からチエリをもぎはなそうとした。

「旦那さんですか。この人ね、店の売り上げをくすねて逃げたんですよ。上からえらく叱られちゃって、なんとしてもその金を返してもらわないと、こっちがやばいことになるんですわ」

 ブレスレットの男が割り込んできて稜介の前に立ちふさがった。

「チエリが店の金を盗んで逃げたっていうのか」

「そう言ってるでしょ」

 後ろから胴を締めあげられているチエリが、髪を振り乱して稜介のほうに身をねじった。

「ちがうよ。あたしじゃないんだ。サヤカが盗んだんだよ。あたしは巻き添えをくっただけなんだ。サヤカをつかまえなよ。金を盗んだのはサヤカなんだからさ」

「サヤカならつかまえたよ。おまえに見張りを頼まれて小遣いをもらっただけだって言ってたぜ」

「サヤカは嘘をついてるんだよ。あたしの言っていることのほうが正しいんだ」

「あの日は決算日で売り掛けの金がまとまって入っていたから、おまえの借金も少しは減ったんじゃないのか。どうせ二丁目の男にでも貢いでるんだろ」

「ちがう、ちがう」

 チエリは狂ったように暴れて男の腕から逃れようとした。

「借金ってなんだチエリ」

 稜介の顔は怒りで真っ赤になっていた。無口な男に押さえ込まれて暴れているチエリを見て、真近に抱かれていた豊貴が怯えて泣き出した。稜介まで大声を出したものだから豊貴の泣き声は甲高いサイレンのように建物に響いた。

「子供の泣き声は目立つから泣き止ませてもらえませんかね」

 ブレスレットの男が豊貴を抱いた真近のほうに近づいた。

「やめて、豊貴に近寄らないで。子供に手を出さないで」

 引き裂くような声を張り上げてチエリが叫んだ。稜介がチエリを拘束している男に飛びかかっていく。チエリを中に挟んで稜介と無口な男がもみ合った。その無口な男が口を開いた。

「旦那さんは知らないかもしれませんがね、奥さんはあちこちに借金を作って追いかけられてるんですよ。返す金がないなら店の金を盗まなくても、いい働き口を世話しますよ。肉体労働なんですが、金にはなります。一年ほどみっちり客をとれば、借金はきれいになくなるでしょう」

 無口だと思っていた男が、押し殺した声で恐ろしいことを言った。

 男が話しているあいだだけおとなしくなって話を聞いていたチエリが、渾身の力で暴れて逃げようともがきだした。豊貴が怯えてひきつる泣き声をあげ、真近は竦みあがってがたがたふるえた。

 男に取り押さえられているチエリが、母親とだぶって見えた。真近と理近の目の前で母親が警察官に逮捕された記憶は遠くない。高校卒業を間近にひかえた理近が、就職の心配をしているさなかの出来事だった。兄弟は互いにすがりつくように身を寄せて、警察官に連行されていく荒んだ母親を見送ったのだった。そのときの、骨までふるえるような恐ろしさがよみがえってくる。真近は豊貴をしっかり抱きしめて玄関の中に後退りした。

「チエリ、借金ってほんとうか」

 稜介がチエリの肩を掴んでゆすぶった。

「金は盗んでない。借金は本当だよ」

「金は盗んでないんだな」

「盗んでないって言っただろ。サヤカに見張りを頼まれたのはあたしのほうだよ。あんなはした金しかくれないでさ、けちなヤツだよサヤカは。風俗に売られるのはサヤカのほうさ」

 暴れて逃れようとしているチエリに、どれほどの危機感があるのかはわからないが、平凡な家庭に育って大学を卒業し、一流会社で働いている稜介には、無口な男の底冷えのする話が現実のものとは思えなかった。

「いくらだ。いくら盗んだんだ」

「盗んでないっていっただろ」

「いいから言えよ」

「たったの三百万ぽっちだよ。それっぽっちのはした金で脅しやがって。なにが風俗に売ってやるだ、笑わせるな」

 毒づいて暴れるチエリの薄物のスカートの裾がめくれあがって、すらりと長い真っ白な足が付け根まで見えた。肩紐だけで着ているようなワンピースの、むき出しの肩の丸みがつやつや光っている。胴を締めあげられている細いウエストや柔らかそうな胸の膨らみを、稜介は急に意識しだした。

 風俗に売られるという可能性を考えてみようとしたが、うまく頭が働かなかった。そんなことよりも、警察に通報してこの場を納めてもらうほうがいいと思ったし、とりあえずチエリの盗んだ金を返してから、チエリの借金の詳細をきいて弁護士に相談するのがいいと思った。

 しかし、実際に稜介のとった行動は、部屋に駆け戻って机の引き出しから銀行の通帳と印鑑を取ってくることだった。

 外廊下に駆け戻って、チエリを拘束している男にそれを突きつけた。

「持っていけ。チエリに手をだすな」

「通帳と印鑑をもらってもあとが面倒なんでね。窓口で振り込んでよ」

 そう言って、ブレスレットの男が、ワイシャツの胸ポケットから小さなメモをだして押し付けてきた。

「これが振込先のメモ。あしたじゅうに振り込んでね。でないと、また来るよ。ここにも、会社にも、金を振り込むまで催促にくるからね」

 ブレスレットの男が言い終わるのをまってから、チエリを掴まえていた男が手を放した。チエリはすぐさま泣いている豊貴に駆けよって抱きとり、部屋の中に入ってしまった。

 稜介は、手すりのところに佇んで、歩き去っていく男達が見えなくなるまで睨みつけていた。ドアのところで、鼻水をすすりながら、涙をこぶしでぬぐっている真近に気づいて、一緒に部屋の中に入った。

 チエリはリビングの床に豊貴を置いて、自分の荷物をかき集めて詰めこんでいるところだった。

「なにしてるんだ」

 稜介が声をかけると、食器棚に行って引き出しにしまってある生活費の袋を開け、入っている札と小銭を抜いた。

「みればわかるだろ。逃げるんだよ。あいつらに捕まったらマジやばいって」

 収まりかけていた怒りが再び再燃し始めた。稜介の我慢の限界がきれた。腹が立ちすぎて、泣きたくなるような無力感と悲しみに襲われた。

「俺が今さっき言ったことを聞いていなかったのか。三百万は俺が返してやるから、逃げなくてもいいんだよ」

「相変わらず世間知らずのお坊ちゃんだね。あいつらは、いったん金づるを掴んだら、骨までしゃぶる奴らなんだよ」

「なんでおまえはそうなんだ。なんでまともな仕事につこうとしないんだ。最後はどうなるか、考えたことはないのかよ」

 稜介の声は悲鳴に近かった。助けようとしているのに、チエリはキッチンを引っ掻き回して、そんなものを持っていってどうするつもりだというようなものまで、手当たりしだいにバッグにぎゅうぎゅう詰めていく。

「借金を返す手伝いをしてやるから、まともに暮らせよ」

「まともってなに。まともな暮らしってどんな暮らしよ。あたしはあたしが住みやすい世界で暮らしているだけじゃないか」

「豊貴はどうするんだ。おまえは母親だろ」

「親はなくても子は育つって言うだろ。面倒だったら養護施設にでも入れちゃっていいよ。施設がきまったら会いに行くからさ」

 冷蔵庫からスモモをとってかじりながら、稜介の横を通り過ぎようとしたチエリの頬を、思い切り叩いていた。

 スモモが撥ねとび、フローリングの床に転がっていく。チエリは頬を押さえて物凄い目で稜介を睨みつけた。

「なにすんだよ」

「出て行け。俺の前に二度と現れるな。豊貴は俺が育てる。おまえなんか、母親じゃない」

 チエリは口の中のスモモのかけらを床に吐き捨てた。スモモの細かい粒が血泡にまみれて真っ赤だった。ぶたれた頬を手でこすりながら、痛そうに口元を歪めた。

「出ていってやるさ。豊貴なんかくれてやるよ。弟なんだから、だいじに育てな」

 稜介がチエリの首根っこを鷲掴みにして、重いものを引きずるように乱暴に玄関に引きずって行き、靴を履く猶予も与えずに外に突き飛ばした。放り投げられたチエリは、二三回コンクリートの廊下を転がってから止まり、はいつくばったまま悔しそうに稜介を睨みつけてきた。

「義理の母親なのに、ずいぶんひどいことをするじゃないか。わたしは坂木チエリだよ。一生坂木の籍から抜けるつもりはないからね」

 稜介は、玄関に転がっているチエリのミュールを掴んでチエリに投げつけた。とっさに両腕で自分をかばって身を伏せる。むき出しのチエリの肩に当たったミュールのピンヒールが、肌に傷をつけて血が広がった。もう片方のミュールを掴んで再び投げつけようとするのを見て、チエリは弾かれたように逃げ出した。

 それを見ていた真近は、涙と鼻水でぐしょぐしょになって、引きつけをおこしたように泣いている豊貴を稜介に押しつけ、いったん部屋に戻ってチエリのトートバックを取ってくると、外廊下に散らばっているミュールを拾って、チエリのあとを追おうとした。

「岸田」

 稜介に呼び止められて振り向くと、豊貴を片腕で抱いた稜介がズボンのポケットから財布を出して、入っている札全部とクレジットカードを真近に差し出した。

「三百万はすぐに振り込む」

「カードを渡していいの」

 そう真近が問うと、興奮で肩をあえがせた稜介が、くしゃりと表情を崩して泣きそうな声を出した。

「いいから、行け」

 真近は走り出した。

 階段をかけ降り、チエリのあとを追った。

 すぐに稜介のマンションは見えなくなった。住宅やコンビニ、商店が混在しているバス通りの歩道を、裸足で歩いているチエリがいた。裸足の足の裏が舗装道路にすりむけて痛いのか、あるいは日に炙られた道の熱さが辛いのか、チエリの歩き方はたどたどしかった。今にもしゃがみ込んでしまいそうな後ろ姿は、みすぼらしく見えた。しかし、真近が呼び止めたら、チエリは背中を延ばして、振り向いた顔にはいつものニヤニヤ笑いを浮かべていた。

 チエリは顎をしゃくって、歩道橋で渡った向こう側の道路際にある児童公園に真近を誘った。

 児童公園には砂場とゾウの滑り台とブランコとベンチがあり、日差しが真上にさしかかった時間帯のせいか誰も遊んでいなかった。

 チエリは木陰の下のベンチに腰を下ろした。真近がその隣に座るのを待ってから「まいったね」といって、広げた両膝のあいだに唾を吐いた。

 乾ききって白っぽくなっている地面に、血の混じった唾が落ちた。チエリは軽く首を回してから、ついでのように肩もまわした。

「稜介のやつ、本気で叩くものだから口の中が切れちゃったよ。首も肩も変だ。男が本気で叩くと、すごいね」

 なぜかうれしそうにチエリが笑った。チエリの叩かれた頬は赤く腫れ上がって手のあとがついていた。

「昔さ、稜介に叩かれたことがあったんだよ。稜介が女の子と付き合うたびに、あたしがじゃまするものでキレたんだけどね、そのときだって手加減して叩いたんだよ。それが豊貴のことが絡んでくるとなると、加減ができなくなんるんだよね」

 あいつ、やさしいから。と言ってチエリは車道を行き交っている車の流れを茫洋と眺めた。

「トンチをどうするの。トンチがいたら稜介は会社に行けないよ。稜介はトンチを絶対施設になんかやらないと思うし」

「真近がいるじゃないか。豊貴の世話をして稜介を助けてよ」

「いいけど、トンチがかわいそうだよ。子供にはやさしいお母さんが必要なのに」

 チエリは無言で遠くを見つめていた。どんな感情が去来しているのか、窺うことのできない無表情の中に、チエリのこれまでの人生が淡く浮かんでいるような気がした。けして楽ではない、それなのにそんな自堕落な生き方しかできない性分の陰に、稜介への執着を断ち切れずにきた苦悩がにじんでいるようにもみえた。

 真近はチエリのトートバックを勝手に開いて、中からタオルハンカチを探し出すと、砂場のそばにある水道に行ってハンカチを濡らして戻ってきた。

 ミュールを投げつけられた肩のかすり傷の血をふき取ってから、水道に戻ってハンカチをすすぎなおし、チエリの前にしゃがみ込んで丁寧にハンカチで足の裏を拭いてミュールを履かせた。もう一度ハンカチをすすいできて、もう片足も同じようにした。

「僕にはわからないな」

「なにが」

 ミュールを履かせ終わっても、しゃがんだままでいる真近の呟きに、チエリが笑いながら聞き返した。

「稜介のことが好きなくせに、どうして稜介のお父さんと結婚したのか。」

「そんなの簡単だよ。稜介は結婚してくれなかったけど、豊直さんは結婚してくれたからだよ」

「それもなんかへんだよ」

 チエリがあやすように真近の髪をくしゃりと掴んで頭をゆすぶった。

 真近はチエリの手を軽く払ってベンチに座りなおした。

「へんでおかしなことなんて、この世の中にはゴマンとあるさ。豊貴を頼むね。稜介をたすけてあげてね」

「ほんとに行っちゃうの」

「今度という今度は、マジで稜介を怒らせちゃったからね」

 そう言ってチエリは立ち上がった。スカートの汚れを払うようにはたいて、トートバッグに手をのばす。真近も立ち上がりながらズボンのポケットから稜介からの預かり物を取り出した。

「これ、稜介が」

 差し出されたカードと現金に、チエリがぱっと笑顔になった。

「あは、やっぱり稜介はお人好しだね」

「三百万はすぐに振り込むってさ」

「うん」

 無造作に受け取ってトートバッグの底に押しこんだ。

「じゃあ、ね」とチエリは片手をあげて歩き出した。


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