8 稜介
ドアの閉まりかけに「稜介」と呼ぶチエリの声がリビングから聞こえた。かすかな音をたててドアが閉まってしまえば、その声も聞こえなくなった。
玄関ドアの前の外廊下を、右に進んで階段を下りた。日差しの中にでると、半袖からでている肌を太陽がじりじりと焼いてくる。行くあても思いつかなくて、とりあえず駅前に向かった。喫茶店に入って時間をつぶすのもいいし、本屋で新刊を何冊か買ってもいいと思った。太陽が真上から照りつけてくる時刻に汗まみれになって歩くのはいやだった。
商店街の賑やかな通りをぶらぶら歩いているうちに、ふと中央林間の実家に行ってみる気になった。駅の改札を通って一番線ホームに降りると、ちょうど電車がホームに滑り込んできたところだった。
冷房の利いた車内は空席が目立っていた。出入り口のそばの席に腰を下ろすと自然にため息がもれた。腕を組んで目を閉じる。中央林間までは乗り換えなしで四十七分だ。一眠りしていくのにちょうどよかった。
冷んやりとした車内で揺られていると、うとうとしてきた。稜介はそのまま浅い眠りに身をまかせた。電車が中央林間駅につくと、改札を抜けて相模カンツリー倶楽部のほうに足を向けた。
区画された宅地に庭付きの住宅が並ぶ道をしばらく歩き、建て売り住宅が二軒分ぐらい入りそうな敷地の門の前で立ち止まった。大谷石の塀を巡らせた敷地内には樹木が生い茂っていて家屋は見えなかった。厚みのある一枚板の観音開きの門扉には鍵がかかっていた。ジーンズのポケットからキーホルダーを出して、その中の一つで門の鍵を開けた。門から屋敷まで続いている敷石を踏んで進む。庭の樹木は一年の不在のあいだに乱暴なほど生い茂っていた。
玄関ドアの鍵を開けて中にはいると、一年分の締め切った空気が、煮詰めたように澱んでいた。稜介は家の中の窓を次々とあけていった。平屋だから家中の窓や引き戸を開けるのにたいして時間はかからなかった。最後に風呂場とトイレの小窓を開けて、居間に戻った。
畳にはうっすら埃りが乗っていた。その畳は、チエリがこの家に入ると決まったときに、父親の豊直が、家じゅうの畳を新しいものに取り替えたものだった。
一年前は清々しいイ草の匂いが家じゅうを満たしたものだったが、今は色褪せて埃の臭いがするばかりだった。
開けはなった掃き出し窓から、風が家の中を吹き抜けていく。家の中はチエリが生活していた当時のままだった。居間の掃き出し窓の軒下の物干し竿に、角ハンガーがぶら下がっていて、取り忘れたビジネスソックスが片方だけ風に揺れていた。色あせた靴下が、父親のはいていたものだと思ったとき、ふいに涙がこみ上げてきた。一年も風雨にさらされ続けていたのかと思うと、豊直が哀れだった。
八畳の居間には形ばかりの床の間があった。床の間の並びは押入になっている。五年前、母親がガンで亡くなったとき、その床の間をつぶして仏壇を入れた。
扉が閉まっている仏壇を開けると、母の位牌の隣に豊直の位牌が並んでいた。仏壇の下段の小引き出しから線香とプラスチックライターを取って火をつけ、線香立てにさす。鈴棒を取って殴るようにお鈴を叩いた。澄んだもの悲しい鉦の音が風にさらわれていく。稜介は唇をひき結んで仏壇の中に飾られた二枚の写真を睨みつけた。
一枚は五十歳の若さでなくなった母親の写真で、もう一枚は、父親とチエリの神前結婚式の写真だった。
稜介は父親とチエリの写真をつかむと、掃き出し窓のところへ行って、コンクリートの地面にそれを叩きつけた。怒りで胸がざわめいていた。仏壇の中に結婚式の写真を入れておくチエリの神経が理解できなかった。それも、母親の写真の隣に並べてだ。豊直が生きていたときからこのようにしていたのだろうか。そうだとしたら豊直も憎いと思った。
「ばか親父。チエリなんかにたぶらかされて」
吐き捨てると、洗面所の物入れから掃除機を引っ張りだして、裏庭に面している自分の使っていた部屋に行った。この家をでるとき、稜介は想い出の詰まった自分の部屋のドアに鍵をかけた。チエリに覗かれたくなかったのだ。
キーホルダーの中から鍵を探してドアを開けると、ここも空気が苦しいほど淀んでいた。窓を開けたら、開いたドアの向こうに風が勢いよく流れていった。
なにも変わっていなかった。壁につけるようにおかれたベッド。腰高のチェストと本棚。中学生の頃までよく遊んだテレビゲームに、シリーズ物のマンガ本。全体が明るい水色で統一されていて、母が置いてくれた、からし色の大きなクッションがお気に入りで、そこに寝ころんでマンガを読んだものだった。
思い出は色褪せることなく稜介を包み込んだ。母が稜介を呼ぶ声まで聞こえてくるようだった。母が生きていたら、今のこの状況は存在しなかっただろう。少なくとも、豊直はチエリとは結婚しなかったはずだ。母に先立たれた寂しさに、チエリがつけ込んでこようとは考えもしなかった。まさか、こんなことまでするとは誰だって思わないだろう。常識をはずれている。
「ああ、そうか」と、稜介はつぶやいた。チエリに常識は通用しなかったんだ、と思い直した。
ベッドの上の布団とシーツをはがして、居間のほうにあるテラスの物干し竿に干し、マットレスもはずして風にあてた。洗面所の上にある配電盤のブレーカーを上げて電気を使えるようにし、物入れからはたきと雑巾とバケツを取って掃除を始めた。
雑巾がけをするのに水道の蛇口をひねると、茶色の錆びた水がでた。しばらく出しっぱなしにしていると澄んだ水に変わり、稜介は蛇口に口を付けて水を飲んだ。汗だらけの顔も洗って、食器棚の真ん中の引き出しからタオルをとって顔を拭い、首筋や胸元の汗も拭いた。
自分の部屋の掃除を終えて、居間と豊直の書斎とダイニングキッチンも掃除した。しかし、豊直とチエリが使っていた寝室のドアは閉めたままにしておいた。
一心不乱に掃除をしているいるうちに日が暮れだしていた。バケツの中の汚れ水を庭にまくと、砂埃が上がって土がじゅっと音をたてそうだった。外の水道に取り付けたままになっているホースで盛大に水をまいてやると、庭木が息を吹き返すように枝を持ち上げた。むき出しの地面がしっとりと湿ってきて、吹いてくる風が冷んやりしてきた。
ホースをしまって玄関だけ鍵をかけて家を出た。夕飯には早い時間だったが、昼飯を中途半端にしたために腹が空いてきていた。駅への途中の道にあるラーメン屋に入った。ビールを一本あけて、餃子とラーメンを食べてスポーツ新聞を読んでから店を出ると、日はすっかり暮れていた。
コンビニに寄って歯ブラシと缶コーヒーと翌朝の総菜パンを買った。生ぬるい風に吹かれて家までの道を歩いた。
途中で同じ県立高校に通っていた友人の母親とばったり会った。暗がりの街灯の弱々しい明かりにもかかわらず、友人の母親は稜介に気がついて声をかけてきた。
実家に戻ってきたのかと尋ねてきたので、家に風を通しにきただけだと答えたら、チエリさんは元気かと訊いてくる。親父が死んでから会っていないと答えた。赤ちゃんはどうしているのかとさらに訊いてくるので、よく知らないと適当にごまかした。
息子の高校の同級生と再婚した豊直のことは、近所の噂になるのは当然かもしれなかった。しかも、子供までできて赤ん坊が生まれるのと入れ違いに心筋梗塞で死んでしまったのだから、世間からすればお笑い草だろう。まだ話したそうにしている友人の母親に軽く頭を下げて歩きだした。
「サトルが会ったっていてたわよ、歌舞伎町のキャバクラで。元気にしてたってよチエリさん。坂木君、知ってた?」
まだ話したそうに声が追いかけてくる。聞こえないふりをして歩きつづけた。
世間はうるさい。男は耳をふさいで会社と家を往復すればすんでしまうが、女は家を中心とした小さな社会の中で生きている。面倒でやっかいな世間の付き合いを、女たちはどのようにかいくぐっているのだろうか。自分にはとてもできないと思った。同時にチエリにだってできないだろうと思った。
家に帰って、買ってきたものを冷蔵庫にしまってから、居間に寝ころんでテレビをつけた。野球のナイターにチャンネルを合わせて畳の上にごろりと横になった。網戸を吹き抜けてくる風の心地よさに目を閉じる。
庭の木立の暗がりの中で夏の虫が鳴いていて、テレビからはスタジアムの歓声と賑やかな応援の喧噪が流れてくる。
一人でいると、思い出したくないことが泡玉のように浮かんできた。
あれは高校に入学して間もない頃だった。必修の柔道の授業を終えて更衣室で着替え終わって、教室に戻る途中の渡り廊下で、稜介はチエリに声をかけられたのだった。
そばにいたのは男子ばかりだったので、渡り廊下の柱にだらしなく寄りかかっているチエリは目立った。
背中まである髪は、脱色しているのかパサパサの薄茶色で、髪の生え際は二センチほど黒くなっており、パーマは禁止にもかかわらず、ふわふわと膨らんで誘うように揺らめいていた。衣替えしたばかりの夏制服の襟元のボタンを大胆にはずいていて、プリーツスカートの丈は思い切り短かった。
チエリはガムをくちゃくちゃかみながら「ねえ」と声をかけてきた。
稜介はあたりを見回して、どうやら自分に言っているらしいとわかって足を止めた。
「ねえ、あんた、坂木稜介っていうんでしょ」
そのとき稜介は、柱に寄りかかって体を斜めにしているチエリの、短いスカートからのびている太股の白さに気を取られていた。だから反応が遅れた。
「そうだけど」
目を上げて、それがどうしたというように眉を寄せる稜介に、チエリはいやらしい笑みを浮かべた。バカにするような、誘うような、大人びた笑みだった。
「あたし、あんたのこと知ってるよ。北中の頃から知ってた」
稜介は返事をせず、睨むようにチエリを見返しながら、なにを言うつもりなのかと思っていた。
「あたし、D組の木村チエリ。こんど一緒に遊ぼうよ」
稜介は無言のままチエリに背を向けて歩きだした。
「だんまりかよ坂木稜介。あたしの名前、覚えろよな。チエリだかんな」
チエリの大きな声が稜介の背中に刺さった。級友の太田が寄ってきて横に並んだ。
「なんだよあいつ。あいつ、評判悪いんだぜ。有名なんだ。一緒に遊んだりするなよな」
太田は苦い顔をしていたが、口調にはチエリへの反感よりも、声をかけられた稜介への羨望が混じっていた。どんなふうに評判が悪いのかは知らないが、太田はチエリなんか相手にしていないどころか、チエリへの好奇心でいっぱいのようだった。稜介はチエリの髪の根本が黒くなっているところや、はだけたような襟元や、学校でくちゃくちゃガムを噛んでいるような態度を不快に感じた。それなのに、真っ白な太股だけは魅力的だと思った。
チエリを決定的に意識しだしたのは、それから一ヶ月ほどたった頃だった。
季節は七月にかわり、沖縄の梅雨が開けたと気象庁ではいっていたが、関東では梅雨が明けるには一週間ほどかかりそうな空模様で、雨は降らないものの曇天が続いていた。
空気は湿り気を帯びていて汗がなかなか乾かず、部活で校庭を走り回ったあとの体の火照りが抜けずに、げっそりしながら夕暮れの道を帰途についていた。
いつも歩いている通学路の途中にちょっとした森のような自然公園があった。公園はコンクリートの太い杭に鉄パイプを通した柵で敷地を囲んでいたが、低い柵はひとまたぎで入れるので、どこからでも公園に入っていけた。その公園を斜めに突っ切っていくと家への近道になるので、稜介はいつも柵を跨いで近道を利用していた。夕方や夜などは痴漢注意の看板が立っているくらい物騒なのだが、まだ日があるうちは、公園の樹木の隙間を歩いていくのにためらいはなかった。
柵を跨いで樹木の中を少し歩くと、レンガを敷き詰めた遊歩道が見えてくるので、そこからは遊歩道を歩いた。所々ベンチがおいてあって、遊歩道が取り囲んでいる真ん中には丸い噴水があり、風が吹くと噴水の水が細かい霧になって降りかかった。
遠くのほうの遊歩道には夕方の犬の散歩に歩いている人がいたが、近くには誰もいなくて、噴水の水音とセミの鳴き声が、沈みかった西日の中で奇妙な静かさを醸していた。
黙々と足下を見ながら歩いていた稜介は、二つ向こうのベンチに人がいるのに気がついて何気なく顔をあげた。
同じ高校の制服を着ている男女が大胆に抱擁していた。男子が上級生であることは、女子におおいかぶさって口を吸っている横顔でわかった。男子はすっかり夢中になっていて、抱き寄せた女子の短いプリーツスカートをたぐり寄せて、素肌の太股を撫でさすっていた。
稜介は顔をしかめてそのまま歩きすぎようとして足を早めた。
二人のいるベンチが近づいてきたとき、男子の手がスカートの中にもぐりこんだ。
「やめろよな、ここ公園だぜ」
クスクス笑いながら、男のような言葉づかいで男子の手を払いのけた女子が、身を起こしたので顔が見えた。チエリだった。稜介の足が止まった。チエリは稜介には気がついていないようだった。
上級生の男子は笑いながら再びチエリの上に被さっていって自分の体でチエリの上半身を隠した。そしてまた太股を撫で始めた。
今にもスカートの中が見えそうなほどずり上がったチエリの肌の白さに、稜介の心臓がとくんと跳ねた。目が吸い寄せられて離せなかった。額にじわりと汗が浮かび、膨れ上がって玉になった。その汗の玉が滴り落ちたとき、稜介はつかつかとベンチに歩み寄って、乱暴にベンチを蹴飛ばしていた。それからはっと我に返って逃げ出した。
後ろで二人が立ち上がる気配がした。
「坂木稜介!」
チエリが叫んだ。稜介はためらいながら立ち止まって振り向いた。チエリが両手を振り回して飛び跳ねながら、うれしそうに笑っていた。
「坂木稜介! こんど一緒に遊ぼうぜ!」
チエリは以前と同じことをまた言った。
「おまえとなんか遊ばないよ」
稜介は言い返した。上級生の男子は、チエリの後ろで両手をポケットにいれてぼんやり稜介を眺めていた。
「坂木稜介! ほんとにこんど遊ぼうな」
またチエリが言った。稜介はきびすを返して走り出した。走らなければ「遊ぼうな」という言葉に捕まってしまいそうだった。走りながら、なぜチエリはいつも遊ぼうと誘うのだろうと思った。チエリと遊ぶということは、さっきの上級生の男子のようなことをして遊ぶということなのだろうか。チエリを抱きすくめてキスをして、太股を撫で回してから、スカートの中に手を入れるようなことをするということなのだろうか。チエリはそういうことが好きで、誰とでもそうやって遊ぶのだろうか。
その夜、稜介はなかなか寝付けなかった。
チエリは会うたびに「遊ぼう」といい続けた。
木村チエリは坂木稜介を追いかけ回しているという噂が定着して、さんざんからかわれて辟易する一方、チエリのほうは付き合いう相手をとっかえひっかえしてみんなから失笑されてれていた。
高校を卒業して大学生になれば、チエリとの奇妙な関係も終わると楽観していた稜介は、意外なほど執念深いチエリに翻弄されることになる。
高校一年の時から十二年間、チエリは稜介の人生に食い込み続けてきた。なにがチエリをそこまでさせるのだろう。自分はチエリに何かしただろうか。これといって特徴のない平凡な自分が、特にチエリを引きつけるものを持っているとは思えなかった。
稜介はいきなり大きくなったテレビの歓声に瞬きした。ナイター中継をみながら、過去の記憶を長いこと追っていたことに気がついて身を起こした。
肘枕で寝そべっていたので頭の下にしいていた左腕の肩の関節がぎしぎしした。
こんなに深く鮮明にチエリのことを追憶するなんて、きっと実家に帰ってきたからだと思った。稜介が生まれて育ったこの家は、稜介が社会人になって一年が過ぎたあたりから暗い陰に覆われてくる。あんなに元気で活動的な母だったので、豊直の会社の主婦健診で要再検査の通知を受けたときも、病院へ行って検査してきたときも、豊直と稜介は楽観していた。
乳ガンと診断されてはじめて、ことの重大さを受け止めた。早期なら、今の医学は進んでいるから大丈夫だと母を励まし続けたが、母の最期はあっけなかった。
ああ、また辛い記憶を思い出してしまった、と稜介はため息をついて立ち上がった。
テレビを消し、家中の戸締まりをして自分の部屋に向かった。エアコンのスイッチを入れると、旧型のエアコンは低い作動音をたてて冷気を吹き出し始めた。子供の頃に読んだマンガ本の一巻めを本棚から引っ張りだしてベッドに横になった。
天才騎手が主人公の長編シリーズは、子供の頃の稜介の愛読書で、まんが本は角が擦り切れて紙は黄ばんでいた。稜介はマンガを読むのに集中した。頭の中から嫌な思い出を追い出したかった。