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無言の情景  作者: 深瀬静流
7/12

7  稜介

 深夜に帰宅した稜介は、玄関のスニーカーを見て力が抜けたように肩を落とした。

「帰ってきたのか」

 本当に野良猫のようなヤツだと思った。ふらっといなくなったかと思えばふらっと舞い戻って来る。しかも豊貴をこぶのように背中にくくりつけてだ。思わず笑っていた。

 照明を絞ったリビングを覗くと、カーペットの上に布団を敷いて、真近と豊貴が顔をくっつけるようにしてすやすや眠っていた。豊貴の腹の上には大判のバスタオルがかかっていて、真近はタオルケットをかけていた。どうも真近は、冷えた空調が好きらしく、室内の冷房が乳児には強いような気がして、二度ほど温度を上げておやすみモードに切り替えた。

 ネクタイをほどいてYシャツのボタンをはずしながらキッチンに歩いていって、冷蔵庫から缶ビールを出した。プルトップを抜いて、飲みながらリビングに戻る。ソファに腰を下ろして足下の二人を眺めながらビールを飲んだ。疲れのにじんだ切れ上がった目元が柔らかくほぐれていた。

 男にとっては難事業である育児も、負担を分けあってくれる相手がいれば気持ちに余裕ができた。チエリが無断で豊貴を置いていったときには、途方にくれて会社を休んだが、こうして豊貴と真近が寄り添って寝ている姿を見ると、ずっとこうだったと勘違いしそうになる。助け合える相手がいるということは、こんなにも気持ちが軽くなるものだということを、たいして感慨もないまま感じていた。

 感慨が沸かない原因は、のほほんと寝ている真近にあった。どこで、どのように育ったらこのようにとぼけた男に育つのやら不思議でならない。悪意や邪気がないことは、十日ほど一緒に暮らしてわかった。知恵が足りないのかもしれなかったが、生活していくぶんには支障がないのでかまわなかった。しかし、漢字の読み書きができないというのはどうなのだろう。計算のほうは、真近と初めて会ったとき、二千円を渡してコンビニに買い物に行かせたら、わずかな釣り銭を残してちゃっかり自分の食べ物も買って来たぐらいだから大丈夫みたいだ。とにかく、一度きちんと話を聞いてみようと思って立ち上がった。

 シャワーを浴びて、そのまま稜介は自分の部屋へ行ってベッドに横たわった。一本の缶ビールの酔いが程良く回り、久しぶりに心地よい睡魔が押し寄せてきた。稜介は穏やかで深い眠りに身を任せた。



 会社が休みになった土曜日、朝寝坊をして十時頃起きたら、真近はせっせと洗濯物をベランダに干しているところだった。豊貴はリビングで夢中になってボックスティッシュからティシュを引き抜いて遊んでいた。

 ダイニングテーブルには冷たくなったトーストとハムエッグとコーヒーがあった。真近はこれしか作れない。ときどき果物を追加したり、一本丸ごとのキュウリとマヨネーズが皿の上に乗っていたりするが、料理を覚える気はないらしい。そのくせ豊貴の離乳食だけはまめに手をかけている。チエリが書き残していった『赤ん坊の育てかた』にのっているレシピも、豊貴の成長に追いつかなくなっているようだ。下の歯が二本生えてきていて、歯茎がむず痒いのか、少し堅いものを喜ぶようになってきている。何でも口に入れるので、床はいつも掃除しておくようにいっているが、そういうところは雑で、豊貴がなにを口に入れようが棚のものを引きずり落として頭にこぶを作って泣こうが平気でいる。

 豊貴はティッシュを一箱からにして、辺り一面ティッシュだらけにして満足したらしく、スチールラックのところにはっていって、棚の上に並べてあるCDケースを派手にばらまいたところだった。騒々しい音が気に入ったようで床に座り込んで両手でケースをバンバンたたいて笑い声をあげ、それを見てほしくて、ベランダで洗濯物を干している真近にワオワオ声をかけている。

 堅くなってしまったトーストをコーヒーで流し込みながら、稜介はそんな豊貴と真近を眺めた。もう部屋の中がちらけていようが、取り込んだ洗濯物が山になっていようが、気にならなくなっていた。

 洗濯ものを干し終わって部屋に入ってきた真近は、ティシュとCDが散乱している床を器用によけて、リビングの隅に畳んである布団をベランダに持っていった。

「主婦みたいだな」

 感心したようにつぶやいた。布団をベランダに干し終えて戻ってくると、額に浮かんだ汗を腕で拭いながら、冷蔵庫を開けてチューブに入ったアイスキャンデーを取り出し、歯で先端を噛みきってガリガリ砕いて食べ始めた。

「家の人には何て言ってきたんだ」

「ん?」

「ん、じゃなくて。家の人に黙って出てきたわけじゃないだろ。こんなに何日も家を空けているんだから、家族にはそれなりに話してきているんだろ」

 真近は困ったようにそっぽを向いた。

「無断でここにいるわけじゃないよな」

「手紙、置いてきた」

「ここの住所と電話番号を置いてきただろうな」

「住所、知らない。電話番号知らない」

「あ、いけね」

 稜介は自分の失態に気づいて舌打ちした。真近には住所も携帯の番号も教えていなかった。自分の部屋に戻って机の引き出しから会社の名刺を一枚取って、裏にマンションの住所と携帯の番号を書き込んだ。それを持って廊下に出たとき、玄関の鍵がカチャリと開く音がして稜介は振り向いた。

 マンションの鍵のスペアは真近に持たせてある。ほかに持っているとしたら、勝手に鍵屋をよんで鍵を作らせたチエリしかいない。稜介は身構えた。

 勢いよくドアが開き、真っ赤なトートバックを肩に掛けたチエリが入ってきた。

「あら、稜介。どうしたのそんなところに突っ立って。豊貴は元気にしている?」

 赤茶色に染めた長い髪を揺らして、ヒールの高いミュールを蹴るようにして脱ぎ、肩紐だけで引っかかっているようなサマードレスをひるがえして稜介の脇をすり抜ける。すれ違うときに甘い香水の匂いがしてクラっときた。甘さの中に麝香が混じっていて、動物的な官能の匂いがした。

「豊貴ー! 豊貴、豊貴!」

 リビングから派手なチエリの声がしたので行ってみると、豊貴を高く持ち上げてグルグル回っているチエリに、真近がキョトンとしていた。豊貴は驚いて体をすくめてじっとチエリを見下ろしている。チエリなど忘れたとばかりに泣いてやればいいと思ったが、どうやら豊貴は母親を思いだしたらしく、手足をばたつかせてアウアウ声を上げ始めた。

「豊貴、会いたかったよー。ママだよ。ちょっと見ないあいだに大きくなったねえ。こんなに重くなちゃって、ますますかわいくなちゃって、稜介に似てきたねえ。やっぱり血がつながっているんだね」

 チエリは真っ赤な口紅を塗った唇で豊貴の頬に音を立ててキスをした。ふっくらした乳児の頬にべたりと口紅がついた。稜介はチエリから豊貴を取り上げた。

「汚いことをするな。口紅を落とせ。そして手を洗ってこい」

「なにが汚いよ。人をばい菌みたいにさ。ねえ豊貴」

 チエリはこれ見よがしに反対側の頬っぺにチュッとすると、豊貴が声を上げて笑って喜んだ。

「ほら、豊貴も喜んでるし。稜介にもしてあげようか」

 背伸びして口をとがらせて稜介の顔に近づけて来るのを嫌そうに避けて、ティシュを拾って豊貴の頬をぬぐった。

 笑いながらチエリはキッチンに行って冷蔵庫を覗いた。缶ビールをとって栓を抜き、喉をならして飲んだあと、呆けたようにシンクのへりに寄りかかってチューブアイスをくわえている真近に目を止めた。

「で、あんた、なんでここにいるの。あんた、豊貴をかっぱらって逃げたガキでしょ」

 真近は助けを求めるように稜介のほうを向いた。

「豊貴の面倒を見ていてくれているんだよ。ベビーシッターがいなけりゃ会社に行けないだろ」

「へえ、居座っちゃたんだ。結構やるじゃない。稜介は世間知らずのお坊っちゃんだから、だますの簡単だものね」

「俺と同じ歳のくせに大きな口をたたくなよ。豊貴を引き取りに来たんだろ。さっさと連れて帰れよ」

「それがさ、家賃滞納したらアパート、追い出されちゃってさ。たった一ヶ月分払わなかっただけでだよ? 信じらんないよね。一ヶ月滞納したぐらいで出ていけなんて鬼だよね」

「働いていながら、なんで部屋代が払えないんだ」

「いろいろあってね」

 チエリは小馬鹿にしたように笑いながらソファに腰をかけて足を組み、バックから煙草をだして口にくわえた。

 稜介が豊貴を真近に押し付けてチエリに歩み寄る。カルチェのライターで火をつける前に煙草をむしり取った。

「ここは禁煙だ。子供のいるところで煙草を吸うなんて、どういう神経をしているんだ。それでも母親か」

「へええ、すっかり育児が板に付いちゃってるじゃない。子育てもやればできるじゃない」

「ふざけるな」

 稜介の拳にぎゅっと力が入った。パジャマ代わりに着ている洗い晒したTシャツの、はだけた襟元に、チエリはねっとりとした視線を絡めた。そのまま視線は稜介の全身をなめて素足の足の甲で止まった。

「あいかわらずきれいな足をしてるね。真っ白な肌をして、指が長くて、爪は深爪なほど短く切っていて、土踏まずが切れあがっていて踵までピンク色だ。でこぼこ道や、荒れはてた道なんか歩いたこともない、柔らかそうな足をしてるよ。あたしとは大違いだ」

 皮肉めいた笑みを浮かべて見上げると、稜介は勘性な青筋を額に浮かべて口元をねじ曲げていた。

「下手な例え話はよせよ。おまえは好きで今のような暮らしをしているんだろ。だらしのない生活をしているから家賃も払えなくなって追い出されるんだ。昔から、そうっだたよな、チエリ」

「昔からそうだったんだよ、あたしは」

 あははと、チエリは笑いだした。おかしくて楽しくてしかたがないというように笑いながら、キッチンにいる真近に歩いていって豊貴を抱きとった。

「豊貴、かわいいねえ。毎日なにしていたの。あら、ちょっと見ない間に歯がはえて」

 乱暴に揺すりながら話しかけると、豊貴はうれしそうにきゃわきゃわ騒いだ。そのようすを真近は瞬きもせずに見つめていた。真近のきらきら輝く瞳には、母子への憧憬が浮かんでいた。豊貴がうれしそうにきゃわきゃわすると、真近まで胸のあたりがきゃわきゃわして、楽しくてうれしくて幸せで、一緒に飛び跳ねていた。

「あいつ、なにやってるんだ」

 稜介はしらけた顔で真近の小躍りしている様子に舌打ちし、チエリの存在に目を背けた。

「岸田」と呼ぶと、真近はすぐに稜介のところにやってきた。ソフトパンツのポケットから名刺をだしてわたす。

「これ、裏にここの住所と俺の携帯の番号が書いてある。おまえの住所と電話番号も教えろ」

「電話、ないよ」

「ないのか?」

「岸田っていうの? その子」

 チエリが話に割り込んできた。

「岸田なにっていうのよ。下の名前よ」

「マチカです」

 かしこまって真近が答えるとチエリが笑った。

「マチカか。わたしは坂木チエリ。豊貴をみてくれてアリガトね」

「はい!」

「礼ぐらいで喜ぶな。あんなの母親失格だ」

 稜介が憎らしそうに言い捨ててもチエリはけろっとしていた。稜介はチエリのことを母親失格といったが、真近はそうは思わなかった。チエリのかわいがりかたはちょっと乱暴だが、子供をかわいがるようすに嘘はないと思った。真近にとって、子供に暴力をふるわない母親はいい母親で、子供を抱いて楽しそうに笑い声をあげる母親は夢のような存在だった。

 真近は、豊貴を膝に乗せてダイニングテーブルのイスに腰掛けているチエリに吸い寄せられた。

「マチカ、おなかがすいているんだけど、何か食べさせてよ。ラーメン一杯食べるお金も持ってなくてさ」

「トーストとハムエッグとコーヒーしかできないよ」

「それでいいよ」

「はい」

 いそいそとしたくをはじめる真近に稜介は顔をしかめた。

「チエリのいうことなんかきかなくていい。腹がへっているなら自分でやらせろ」

 チエリは豊貴をダイニングテーブルの上にのせると、真近を冷蔵庫からどかせた。

「岸田、豊貴がテーブルから落ちるぞ」

 大きな声をだしていながら、稜介は自分で動くのはしゃくに障るらしく、真近の注意を促した。真近は慌てて豊貴を抱き上げた。

「チエリに油断するなよ。こいつに豊貴を任せていたらとんでもないことになるぞ」

 チエリがクスクス笑いながら冷蔵庫から食材を取り出し、鍋やフライパンをいじっていたと思ったら、瞬く間にありあわせのもので三人分のチャーハンとオニオンのコンソメスープをつくってしまった。

「稜介、着替えて顔を洗っておいでよ。もうすぐお昼だよ。ちょっと早いけど、お昼にしよう。マチカも食べな」

「はい」

「ゆうがた、涼しくなったらおつかいに行こう。今夜はなに食がべたい?」

「あ、おいしい」

 豊貴を膝に抱いたまま、さっそくスプーンをとって食べはじめた真近の手を、チエリは軽くはたいた。

「まだ食べたらだめだよ。稜介がきてからみんなでいただきますをするんだよ」

「はい」

 スプーンを皿に置いて稜介が着替えて戻ってくるのを待ったが、膝の上の豊貴は目の前の皿に手伸ばしてチャーハンの中につっこみ、ぐちゃぐちゃにして遊びはじめた。

「トンチ、だめだよ。これはご飯だからね」

 米粒と油だらけの手にスプーンを握らせると、皿をたたいて騒々しい音を立てる。耳に刺さってうるさいが、真近は叱らないし、チエリはちらけてひどい有様になってしまった真近のチャーハンを見て笑い転げている。

 着替え終わった稜介がやってきて、ちらけたテーブルにげっそりしながらイスに座り、やはり豊貴の好きなようにさせて自分のスプーンを手に取った。

「いただきます」

 稜介の言葉に合わせてチエリも「いただきます」と言って食べはじめた。

「いただきまーす」

 真近はうれしくなって大きな声でいただきますをいうと、豊貴からスプーンを取り返して食べはじめた。

「今日中に出ていけよな」

 食べながら、ふてくされたように言う稜介に、チエリは返事をしなかった。出ていけといわれても出ていくつもりはもうとうないことは稜介にもわかっていたが、牽制だけはしておかないといけない。それでなくともチエリの図々しさは並外れているのだから。

 チエリとのあれこれを思い出して、稜介は食欲をなくした。チエリの作ったものは旨かったが、昔のことが頭に浮かぶとやりきれなくなってきた。皿の半分を残した時点でスプーンを置いた。イスを引いて立ち上がる。部屋に行って財布と携帯をジーンズのポケットに入れ、キーホルダーを持ってふらりと外にでた。


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