6 理近
真近が逃げ出した翌日、会社の帰りに駅前の書店に寄って、真近が言っていた駅の周辺地図を購入した。このままですますつもりはなかった。マンションを虱潰しに探して回るつもりだった。書店のアルバイト店員が袋に入れてくれた地図を持って、一度は素通りしてきた駅にもう一度戻った。
電車が着くたびに大勢の乗客がホームに吐き出されて改札を通過していく。一日の労働の疲れが滲む表情を、まぶしすぎる照明にさらしながら家路に急ぐ人々の隙間をぬって、理近は券売機の上の路線図に向かった。歩きながら、目は向こうにある路線図の上をさまよって目的の駅名を探していた。
「岸田。おい」
誰かに肩をたたかれて振り向いたら、班長の河本が笑っていた。
「あ、班長。いま帰りですか」
おぼつかなく頭を下げてから河本の隣を見ると、同じ職場の男たちが何人か一緒だった。河本とたいして年の違わない連れの男たちは、みな人のいい笑みを浮かべていた。どうやら連れ立って飲みに行くらしかった。
「どうもお疲れさまです。じゃ俺は」
ぺこりと頭を下げて行こうとすると、河本も同じように帰るそぶりをした。
「わるいけど、俺やめとくわ。こんどまたな」
河本は仲間に軽く手を上げて言った。
「おう。じゃ、またな」
連れの男たちはいやな顔をすることもなく、あっさりと背中を向けて駅を出ていった。
「じゃ、俺も」
去っていく男たちを追うように歩きだそうとした理近の肩に、河本の手が乗った。
「まあまあ。独り者なんだから、そう急ぐこともないだろ」
そう言って、改札から出てくる人の流れのじゃまにならないようにさりげなく誘導して、ホームに入るほうの改札に押しやられた。
「どうせ帰っても一人なんだろ。俺の家に行こう。大した料理はないけど、家庭料理ってやつを食べにこいよ」
「いや、いいですよ」
慌てて肩の手を振り払うようにはずしたら、こんどは肘を掴まれた。
「遠慮するなって。このところ、ちゃんと食べてないだろ。痩せたものな」
「いや、そんなことないです。ちゃんと食ってるし」
肘を払おうとしたらぎゅっと掴まれて、理近は顔をしかめた。河本は人はいいのだが、独善的なところがあってしつこかった。かまわれることが嫌いな理近には、もっとも苦手なタイプだった。
「遠慮するな。もともと痩せてるのに顔がとがってきたってことは体重が落ちているということだろ。ちょうどいいところで会ったよな。行こう。俺の家はここから三つ目の駅だから近くていいだろ」
なあ岸田、と河本は理近の肘を引っ張って改札をくぐった。
引きずられて改札に体半分のめったら、スイングドアが通せんぼするように腰の前でばたんと閉じた。肘はまだ河本に掴まれたままだった。
「早くカードを出せよ」
「いや、俺、徒歩通勤なんでカードは持ってないんですよ」
形ばかり見せつけるようにポケットの中をまさぐってみせる。これで河本もあきらめてくれるだろうとジーンズのポケットを探ったら、何かが指に当たった。取り出してみると、JRのプリペイドカードだった。
「あるじゃないか。行こう」
真近を探して歩いていたときに入れっぱなしになっていたカードだった。断わる口実を失ってしまった以上、悪あがきしても仕方がないと観念したが、個人的に親しくもない上司の家に行って、緊張しながら飯を食っても喉を通るとは思えなかった。いやだという気持ちが態度に現れているにもかかわらず、河本は機嫌がよかった。
電車に乗って三つ目の駅で降りると、河本は線路に沿ってしばらく歩いた。
「ここいらへんの畑はみんなうちの畑なんだ」
線路際の街灯の弱い明かりの向こうに広がる畑には、梅の木が整然と植わっていて、青青とした緑の葉を茂らせていた。どれくらいの広さのある畑なのかよくわからないが、梅の木が植えてある一角のさらに向こうは、トマトやキュウリ、枝豆などの夏野菜が収穫の盛りを迎えていた。
「班長の家は農家なんですか」
何か言わなければ悪いと思って訊いてみたが、自分に関係のないことなので興味はなかった。河本はやがて見えてきた七階建ての大型マンションのほうを指さした。
「俺の家は代々百姓だ。ほら、我が家が見えてきた」
「百姓やって、マンション暮らしですか」
河本は、あははと笑った。
代々百姓をしているというくらいだから、この辺り一帯の土地は河本のものなのかもしれなかった。畑の周りを、マンションのほかにも同じデザインの建て売り住宅が、菓子箱のように並んでいた。
線路沿いの道が先ほどの大型マンションに遮られるかたちで突き当たると、道は左方向に直角に曲がった。マンションの塀を共有するかたちで一軒の大きな二階家が隣に建っていた。
「ついたぞ」
河本は植木屋の手が入った生垣を回って庭に入っていった。テニスコートぐらいある庭だった。正面の母屋の左側に納屋のような建物があった。昔風の縁側のある母屋は、一階の軒下まで届くよしずが立てかけてあって、屋内の明かりはよしずの隙間から暖かく漏れていた。
「なんだ、マンションかとおもったら」
からかわれたとわかって苦笑がもれた。
「だから俺の家は百姓だといっただろ」
河本は愉快そうに肩をはねあげて、アルミ製の玄関引き戸をあけた。
玄関はさすがに土間ではなく、化粧タイルが敷き詰めてあった。ゆうに六畳ほどあろうかと思われる玄関には、婦人もののサンダルが二足、脇に揃えてあって、若者が好んではくメーカーのスニーカーが一足、上がり口の真ん中に不揃いのまま脱ぎ捨てられてあった。
河本はそのスニーカーの横に自分の革靴を脱ぎ、正面にある二階への階段脇の廊下を進んで、奥に「帰ったぞ」と声をかけた。奥から「お帰りなさい」と河本の妻の弘子の声が帰ってきて「客を連れてきたぞ」と言ったら、エプロンで手を拭きながら、慌てたように廊下に出てきた。
「あらまあまあ、いらっしゃいませ」
河本と違って、顔も体もふっくら丸くて声まで丸く、鈴を転がすように賑やかだった。
「突然おじゃまして、すみません」
玄関に立ったままぎこちなく頭を下げたら、河本が「いいから」といって、靴を脱ぐのをせかせて縁側のほうの廊下から居間に理近を連れていった。
居間の座卓にはすでに食事の用意ができていた。茶箪笥や飾り棚が壁に並んでいて、大型のテレビがドンと壁の中央を閉めていたが、居間が広いからかなり大きいテレビもちょうどいいようだった。家具とテレビが並んでいる壁を除いた三面は襖を開け放していて、電気の消えている暗い部屋が居間の向こうに続いていた。
料理の乗った座卓を囲んで座布団が四枚おかれてあり、河本は長方形の短い一辺のいちばんテレビが見やすい位置に腰を下ろした。そこが河本の定席であるらしかった。
理近が遠慮して縁側に近い場所に座ろうとしたら、こちらに来いといわれた。
縁側のほうの席は河本から遠いうえに、帰りやすそうだったので、理近はそこから動かなかったが、弘子が盆に水滴を滴らせたビール瓶とコップを二つ乗せて現れ、卓に置きながら「もっと、こちらへどうぞ。遠慮なさらずに」というものだから、仕方なく移動した。
気詰まりでならなかったが、河本がテレビをつけて野球中継をかけたので、幾分息がつけた。
「智子はどうした」
河本が理近にコップを持たせてビールをついでくるので、理近は慌てて遠慮した。
「いや、俺、酒は飲めないんです」
「もうすぐ降りてくるでしょ。それよりお父さん、こちら、もしかしてまだ二十歳になっていないのかしら。それだったらお酒を勧めたらいけないわ」
弘子が理近の前に箸置きを置いて漆塗りの丸箸を置きながら河本をたしなめた。
「岸田はもう二十歳を過ぎたよな」
「はい。十日ほど前に二十歳になりました」
「もう少し歳上かと思ったわ」
いきなり若い娘の声が話に割り込んできたので、廊下側の敷居のところをみると、二十四、五歳の娘が立っていた。
「あら、智子。そんなとこに突っ立ていないで、こちらにいらっしゃい」
弘子と違って、ほっそりした体つきをしていて、顔立ちはきつめだった。肩より少し長い髪をうなじで一つにまとめていて、襟の付いた綿ギンガムの半袖のブラウスに涼しげなスカートをはき、手に団扇を持っていた。
智子という河本の娘は、理近と目が合ったとき、わずかに息を飲む気配を見せた。それから急に目をそらして耳の辺りを赤く染めた。
「智子、智弘を呼んでちょうだい。ご飯にしましょう」
「お母さんが呼んでよ」
智子はふくれたように口元をとがらせてテーブルに歩み寄ると、理近の正面に座った。
「お帰りなさい、お父さん」
智子は河本のコップにビールをつぎたし、次に理近のコップにビール瓶の先を向けた。
「どうぞ」
「いや、俺は」
口を付けていないコップにつごうとするので、眉をひそめて智子を窺うと、智子はいたずらっぽく笑っていた。笑うときつい印象だったのが途端に可愛らしい印象に変わった。化粧をしていない素顔が年よりも若くみえた。
河本家の食卓は、大皿にたっぷり盛りつけた唐揚げやサラダや煮物を、取り箸で各自が自分の小皿に取り分けて食べるようになっていた。農家というだけあって、自分の家でつけたたくあんや葉物野菜のゴマ和えなども並んでいた。
「好きな物を自由に取って食べてね」
弘子は理近の前に小皿を何枚か置いて言うと、天井のほうに向かって大声を出した。
「智弘。ご飯ですよ。降りてきなさい」
智子が炊飯ジャーのふたを開けると、ふわりと湯気の固まりがあがり、炊き立てのご飯のいい匂いがした。
「父の名前が智次でわたしが智子、弟は智の下に母の弘子の弘をつけたして智弘っていうの。すごく簡単な名前の付けかたでしょ。あきれちゃう」
智子が、ご飯をよそった茶碗を弘子の前に置きながら笑いかけた。理近はどう返したらいいのかわからなかった。助けを求めるように河本をみると、いつの間にか瓶ビールが二本に増えていて、いい顔色になっていた。
「岸田はつい最近までバカがつくくらい真面目なやつだったんだ。よく働くし、気働きもできてしっかりしている。しかし、最近の岸田はちょっと浮ついてるな」
「やだ、お父さん。お説教でもするつもりなの。やめてよね、岸田さんに失礼よ」
智子がつけつけと言っても河本の口は止まらなかった。
「説教じゃないよ。見所があるから言っているんだ。このところ、顔色が悪くて表情も暗い。なにかあるのかと思って気になっていたんだ」
「いや、べつになにもないです」
「組合のサークルとかレクなんかには参加しているのか」
「そういうの、興味ないんで」
「じゃあ、毎日会社が引けてまっすぐ家に帰って何してるんだ、いい若い者が」
「なにっていっても」
理近は正座した膝頭に手を置いたまま口ごもった。
「岸田さん、足、楽にしてくださいね」
弘子が正座に目をとめて言ってくれたが、河本の一杯機嫌の説教をとめようとはしなかった。こんなふうに、若い者を相手にしていい気分になって楽しんでいる夫には慣れているようだった。しかし、娘の智子はそうではなかった。
「お父さんやめなさいよ。それじゃあ岸田さんはお酒もゆっくり飲めないじゃない」
「いや、俺、酒は飲みません」
きっぱり言うと、智子は理近に飲酒の習慣がないことを悟ったようだった。
「じゃ、ご飯にしましょうか」
「あ、はあ」
「智弘。降りてきなさい」
もう一度弘子が大声を上げた。階段がきしむ音がして、大学生らしい青年が敷居際から顔だけ出した。背は河本家の中では一番高かった。髪を染めていて、シルバーのアクセサリーをジャラジャラつけた、バンドでもやっていそうな青年だった。ピアスが光っている耳に携帯電話を押しつけて、話している合間に、弘子にもう片方の手のひらをつきだしてくる。
「かあちゃん、車のキーくれ。出かけてくる。メシ、いらない」
「また出かけるの。ちっとも家にいないんだから。仕方のない子ね」
小言を言いながらも、茶箪笥の上の電話の横から車のキーを取ってきてわたしてやると、智弘は父親に「お帰り」も言わず、携帯電話の相手と話しながらでていった。智弘はその間、一度も理近を見ようとはしなかった。庭から車のエンジン音がして、よしず越しにヘッドライトの眩しい光が煌めき、動き出した車はすぐにいなくなった。
「あいつはちゃんと大学に行っているのか」
ビールを飲み干してコップを置いた河本が弘子に尋ねると、弘子の眉が一瞬曇った。
「行ってますよ。行くだけはね」
「それに比べたら、岸田は偉いもんだ。ちゃんと働いて一人でやっているんだからな」
「一人っ子なんですか」
理近の皿に料理を取り分けてくれていた智子が尋ねた。
「いや、兄貴がいます」
「なんだ、兄弟がいたのか。岸田は何にもしゃべらないし、仲良くしているやつもいないみたいだし、よくわからないんだよな。で、兄さんは何してるの」
河本に訊ねられて理近はぐっと詰まった。口の中のものを急いで咀嚼し飲みこんだ。
「ご実家はどちらなの」
なんと答えようかと困っていたら、今度は弘子が質問してきた。
「あ、ありません」
「ありませんて」
不審げに箸をとめて、弘子と河本は顔を見合わせた。
「もともと母子家庭だったんですが、俺が高校を卒業する少し前に、母が他界したものですから、兄貴と一緒にこっちにでてきたんです。田舎より、都会のほうが働き口がありますから」
「まあ、たいへんだったのね。お母さんはまだお若かったんでしょ」
「はい。三十八歳でした」
「そんなに若くて。お気の毒だったわねえ」
心底気の毒そうに弘子が語尾を延ばした。なにも考えなくても、母親のこととなると嘘がすらすらでてきた。兄の存在以外は全部でたらめだったが、嘘をついている後ろめたさはなかった。こんな嘘ならいくらでもつけると思った。
「こっちに親戚とかいるのか」
河本も親身な声を出した。
「いいえ。もともと血縁が薄いんです。でも、兄貴がいますから、大丈夫なんです」
きっぱりと言い切った理近の表情に暗さはなかった。
「お兄さんが好きなんですね」
智子がやさしい笑みを浮かべて理近を見つめてくるので、理近は下を向いた。自分の顔に血が上ってきて熱くなった。若い女性からやさしい言葉をかけてもらうことに不慣れだった。嘘をついてもケロっとしていられたのに、智子のやさしい眼差しにはうろたえた。
まだたっぷり残っているご飯と小皿のおかずを大急ぎでかき込んで食事を終えると、テーブルに両手をついた。
「ごちそうさまでした。帰ります」
「まだいいじゃないか。ゆっくりしていけよ」
河本に頭を下げて、次に弘子にも頭を下げた。
「急におじゃまして、夕飯までいただいて、すみませんでした。失礼します」
ずっと正座していたものだから、立ち上がったとき足がしびれてよろめいたが、誰も笑わなかった。本屋で買ってきた地図を持ってそのまま縁側から玄関に回った。
追ってきた智子が先回りしてたたきに膝をつき、理近のスニーカーを揃えようと手を伸ばした。理近はとっさに智子を押し退けていた。底の抜けた汚いスニーカーにさわられたくなかった。恥ずかしかった。そんなに強く押したわけではなかったが、智子はバランスを崩して無様に尻餅をついた。
「す、すみません」
焦って謝ると、玄関に見送りに出てきた河本と弘子が大きな声で笑った。みるみる智子は真っ赤になった。
「笑うことないでしょ」
両親を睨みつけている智子にもう一度謝ってから、理近は逃げるように河本家をあとにした。
マンションのある線路際の道にでて、ようやく息がつけた。それでも理近の足はゆるまなかった。そんなに遅い時間になってはいなかったが、畑の広がる線路沿いの道を行く人影は皆無だった。暗い道の向こうに見える駅舎の明かりが煌々と輝いていた。畑の草むらから虫の音が気味が悪いほど沸いていた。誰も歩いていない道を、理近はうなだれながら歩いた。理近の靴を揃えようとして身を屈めた智子を、突き転がしてしまった失態に今更ながら赤面した。
まさか自分の靴に他人が手を触れるとは思わなかったので、慌ててしまったのはしかたのないことだったが、恥をかかせて悪いことをしたと思った。
後ろのほうから「ちょっと、待ってください」と呼ぶ声がした。振り向くと、智子が走って追いつこうとしていた。
「歩くの、早いですね。すぐ追いかけたのに、もうこんなに遠くまで」
息を切らせて自分の胸元を拳でたたきながら笑いかけてくる。
「どうしたんですか」
「忘れ物です」
差し出されて理近は小さく声を上げた。駅前で買った地図だった。
「わざわざ、どうも」
理近はぺこりと頭を下げた。明日、河本に持ってきてもらってもよかったのにとはいえなかった。
「父に無理矢理つれてこられたんじゃないんですか」
「いや」
やっぱりねと、智子が屈託なく笑った。
「ときどき岸田さんのこと、話すんですよ、父。智弘と同じくらいの歳なのに、真面目で感心な男だって。どんなかたなのかと思っていたら」
そこで智子は言葉を切った。思わせぶりな笑みを浮かべて見上げてくる。そのあとの言葉に興味を覚えたが、智子のスカートのポケットから携帯の着メロがなったのでよけいなことをいわずにすんだ。
「うん、いま岸田さんと一緒。そう、うまく追いついたわ。うん、もう帰るから。じゃ」
パタンと携帯を閉じて知子は肩をすくめた。
「父からでした」
「送っていきます」
「あら」
理近がそう言うと、智子はうれしそうに笑った。遠慮するつもりはないようだった。来た道を戻りながら、ふと思いついて足を止めたら智子も同じように足を止めた。
「あの、智子さんはパソコン、持ってますか」
「持ってますよ」
「調べてほしいことがあるんですけど、いいでしょうか」
「ええ。どんなことですか」
「桜新町という駅から歩いて七分ほどの距離にあるマンションのリストがほしいんです」
「マンションの名前は?」
「それが、サンラズ、ヤマとかういうんですけど、そんなかんじの名前で正確にはわからないんです。サンとラとズとヤマはわかっているんですけど、これじゃ、無理ですかね」
「うーん。やってみましょう。急ぐんですか」
「できれば早いほうが」
智子は興味深そうに目を細めた。
「何があるんですか、そのマンションに」
途端に理近は口を閉じた。
「岸田さんの携帯番号を教えてください。ご連絡します」
智子は二人の会話が途切れるのを避けるように言葉を続けた。
「携帯、持ってないんです」
「では、自宅の電話番号でいいですよ」
「班長に。班長に、リストを渡してください。そのほうが簡単ですから。お願いします」
携帯電話どころか、家の電話もないなどと知ったら、あきれられてしまうだろう。智子にあきれられたとしても痛くも痒くもないはずなのに、電話もないとはいいづらかった。それは、智子を意識してというより、見栄だった。底の抜けた靴といい、携帯も固定電話もないみすぼらしい暮らしを、これ以上知られたくないという見栄が理近に生まれていた。真近とだけの生活にはなかった感情だった。他者との接触によって生じた感情は、理近によけいな負担を負わせるものだった。
智子は何かいいかけたが、素直に頷いた。
「わかりました。でも、住所ぐらい教えてください。そのくらいはいいでしょ?」
河本を通すのなら理近の電話番号も住所も必要ないだろうと思ったが、頼みごとをしておいて相手の申し出をすべて拒否するのは気が引けた。理近は住所とアパート名を伝えた。それで智子は満足したようだった。
じきに河本家の生け垣のそばについた。理近は智子が玄関の中に消えるのを見届けてから帰ってきた。ひどく疲れた時間だったが、智子に調べ事を頼めて気持ちは明るかった。
翌日、会社で河本に昨夜の礼を言った。智子からの言付けがあるかと思って期待していたが、河本は何もいわなかった。昨夜の今朝では無理かと思って、河本がなにか言ってくるまで待つしかないと思った。
とうとう河本から何もないまま土曜日の朝を迎えた。こうなったら、人を当てにしないで自分で真近のいるマンションを探すしかないと思いなおした。地図はあるのだから、公衆電話を探して電話帳でマンションをピックアップするつもりだった。
洗面をすませて簡単な朝食をとり、一日中歩き回るつもりでいるから汗拭きのハンカチをジーンズのポケットにしまった。JRのカードと地図とボールペンを用意してから六畳間にある目覚まし時計に目をやると、十時になろうとしていた。
六畳のベランダの窓に鍵をかけていたら、ドアがノックされた。新聞の勧誘かと思ったので、玄関の鍵を持って靴を履き、ドアをあけたら智子が立っていた。
「来ちゃいました」
いたずらっぽく笑っている今日の智子は、肩まである髪をふわりと流して、真っ白なブラウスに水色のスカートをはいておしゃれしていた。まるで別人のように女らしくてきれいだった。
「直接おわたししようと思って」そう言ってバックからプリントされたリストを取り出して、自分の胸に抱きしめるようにした。
きらきら瞳を輝かせている智子を、理近はぼんやり見つめることしかできなかった。