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無言の情景  作者: 深瀬静流
5/12

5  理近

 土手の遊歩道は西日で真っ赤に染まっていた。川の流れにそって連なっているビルの建物や大型マンションまで赤く染まっていた。赤から夜が滲みだしてくるような夕暮れの中を、理近は駅に向かって歩いていた。

 だるそうに踵を引きずりながら見えてきた橋を渡る。橋の中程で川風が強く吹き付けてきた。顔を伏せてやり過ごすときに、はるか下の川面に鯉の魚影が黒くうねっているのが見えた。

 橋を渡り終わって駅の階段を上る。改札前を通りすぎるとき、電車に乗ろうかと迷ったが、理近にはとっくに真近を探す場所がつきていた。下手に探し回って、江藤や江藤の仲間たちに捕まるのが怖かった。数日前、あの三人に捕まって、薄暗いバーの裏口から連れ出されて、隣の雑居ビルの中にある一室に連れ込まれ、ひどい目にあった。暴力こそふるわれなかったが、笑いに紛れた恫喝で金をむしり取られた。たばこの煙が充満した部屋には、ひと目で堅気ではないとわかる男が二人、窓側に置いたソファで向かい合って酒を飲んでいた。なにに使われているか見当のつかない部屋だったが、出入り口のほうの隅には傷だらけの雀卓と麻雀パイがあった。江藤たちは酒を飲んでいる男たちに腰を深く折って挨拶して、雀卓を使う許可を得た。そのあとは二人の男のことなど忘れたように理近の前で横柄になった。

 JRのプリペイドカードを持っているかと訊かれたので、持っていると答えたら、財布の中の有り金全部巻き上げられた。JRのカードさえ持っていれば、一銭なしでも家には帰れると考えたのだろう。理近には江藤が親切なのかどうかよくわからなかった。

 彼らには小遣い銭にもならない金額だっただろうが、言われるままに財布の底の小銭まではたいて雀卓に放り投げ逃げてきた。あんな思いはもうしたくなかった。

 殴られたりして怪我をしなかっただけよかったと思った。怪我で会社を休むことになるのは避けたかった。働くことは、生きるということだったからだ。

 そんなことを思い出しながら、住宅地の中にある古びたアパートに着く頃には、日はすっかり沈んでいた。錆の浮いた外階段はいつものように靴音を増幅させてぐらぐら揺れた。二階の外廊下の電球は天井に二カ所ついていて、二部屋に一つの配分になっていたが、二つある電球のうちの一つが切れていた。ひとつだけ点っている電球に夏の虫が飛び集まってきていて、何とも耳障りな羽音がしていた。

 明かりの届かない外廊下の奥の部屋を開けると、室内はなおいっそう暗かった。電気をつけて、熱気がこもった部屋の空気を入れ換えるために部屋中の窓を開けた。こんなボロアパートでも、網戸が取り付けられていたから助かった。いくら下水の配管が地下に埋設されているとはいえ、夏になれば蚊はどこからともなく飛んできた。

 冷蔵庫から水を取り出してのどの渇きをなだめてから、汗で濡れたTシャツを脱いで乾いたものと取り替えた。ジーパンも脱いで寝間着兼室内着の薄手の綿のズボンにはきかえる。リサイクルショップで買ってきたテレビをつけて畳の上に肘枕で横になった。

 ぼんやりとテレビの画面を眺めていても、頭の中では真近の面影を追いかけていた。

 真近がいなくなった当初は、今の生活に嫌気がさして家出をしたのかと思ってショックを受けたが、そんなことぐらいで出て行ったりしないと思い直すようになると、今度は悪い想像ばかり膨らんだ。

 どこかに出かけて事故にでも遭ったのではないか、あるいは悪い奴らに絡まれて怪我をして山の中にでも打ち捨てられているのではないか、それとも、もっと悪いこと……もしかして、もうこの世にはいないのではないか……。

 理近は頭を両腕で締め付けて寝返りを打った。息が苦しくなってきて心臓がうるさく音をたてた。

 固く瞑った瞼の裏に、理近をもっと幼くした、素直なやさしい真近の顔が浮かんだ。あの兄を失うことになったら、自分はどうなってしまうのだろう。想像しただけで気が狂いそうだった。

 自力で探す方法がないのなら、警察に届けて、何かあれば連絡してもらうということも考えた。警察は身元不明の死体があがったり、犯罪がらみのときしか動いてくれない。

 警察なんかだめだと思う根底には、別の理由が隠れていた。酒乱が高じた母親は、覚醒剤に手を出して、刑務所に入っていた。一度目は初犯ということもあり執行猶予つきで刑を免れたが、二度目はそうは行かなかった。警察がアパートに踏み込んできたときの衝撃と混乱は理近と真近を打ちのめした。大声で怒鳴って暴れる母親を三人がかりでとり押さえたときの警察の男たちの恐ろしい怒声は、もうすぐ高校の卒業式を控えていた理近を震え上がらせた。真近はひきつるような悲鳴を上げ続けていた。嫌な記憶だった。

 理近は打ち消すように起きあがった。テレビはにぎやかな笑い声を流していたが、気持ちは少しも晴れなかった。いっそ消してしまおうと思ってリモコンに手を伸ばしたとき、ドアのノブを回す音が騒々しく響いた。何だろうと思って玄関を見ていると、今度は足でドアを蹴る音がする。

「理近ちゃん、あけて。僕だよ。真近だよ」

「真近!」

 ドアに駆け寄り、鍵をはずしてドアを開いた。

 真近は汗で顔を赤くして、玄関前の暗がりで笑っていた。いきなり光がさしこんだようっだった。理近はよろめいて、流し台の端を掴んで体を支えた。

 真近は赤ん坊をおぶっていた。赤ん坊はくたりと背中にもたれて眠っていた。安心しきって眠っている赤ん坊の口から涎が流れていて、真近のポロシャツの肩を濡らしているのを、奇異なものでも見るように見つめた。

 ぼんやりしていると、両手の大荷物を理近に押しつけて、ずかずかと部屋に入ってくる。

持たされた二つの荷物は嵩があるだけでなく重かった。一つは大きなスポーツバッグで、もう一つは紙とビニールで二重になっている大判の紙袋だった。いったいなにがどうなっているのか、真近に訊いてみるしかないと思ってドアを閉めて振りかえると、真近は押入から出した自分の布団の上に、赤ん坊を下ろしているところだった。

「理近ちゃん、荷物ちょうだい」

 急かされて、慌てて荷物を真近の側に置いたら、さっそく荷物をひっかきまわし始めた。なにかの景品でもらった団扇を取り出して理近に押しつけてくる。

「あおいで。トンチ、汗でびっしょりだから。ここクーラーないし、暑くて目をさましたらトンチ泣くかも」

 握らされた団扇を使いながら、理近はすやすや眠っている赤ん坊と真近を交互に見続けるのをやめられなかった。

「この赤ん坊、どうしたんだ」

 やっと出た声はかすれていた。

「連れてきたんだよ。置いてくるわけにはいかないもの」

「どこから連れてきたんだ」

「稜介のところから」

「稜介って誰だ」

「知らない」

「知らないって……」

 絶句した。しばらく混乱から立ち直ることができなかった。

 真近が赤ん坊のほ乳瓶に赤ちゃん用のペットボトルの水を移しかえたり、風呂の支度をしたり、コマネズミのように動き回っているのを呆けたように眺めていた。

 風呂の支度ができると、スポーツバックから赤ん坊の着替えや紙おむつ、バスタオル、ベビーパウダーなどを取り出して畳の上に広げ、眠っている赤ん坊の服をくるくる脱がし始める。自分も手早く服を脱いで、赤ん坊を抱き上げると、風呂場に走っていった。

「走るほど広くないんだけどな……」

 まだ夢を見ているみたいだった。どうしてここに赤ん坊がいるのか訳が分からない。真近が今までどこにいて、どうしていたのかもわからない。理近は、真近が脱いでいったポロシャツと夏物のチノパンを手に取った。

 ポロシャツもチノパンも名の通ったメーカー品だった。高価な服ではないが、自分たちには贅沢な服だった。さっき真近が口にした稜介という男が与えてくれた服なのだろうか。

 考え込んでいると、濡れネズミのような赤ん坊を抱いた真近が風呂から上がって、畳の上に広げたバスタオルの上に赤ん坊を寝かせた。赤ん坊は眠っていたところを強引に風呂に入れられて機嫌が悪くなっていた。ぐすぐすとぐずって、体を拭いている手から逃れて寝返りをうとうとする。

「トンチ、よしよし。ねむねむね。いまミルクをあげるからね。そしたらねんねしようね」

 赤ん坊をあやしながら服を着せている真近の体を、理近は無言で眺め回した。濡れた体で、腰をタオルで隠すこともせず、甲斐甲斐しく世話をしている真近の体には、傷も痣もなかった。理近は密かに安堵のため息をもらした。真近は、暴力をふるわれることなくすごしていた。しかも、服まで与えられている。最悪の事態まで想像して眠れずに苦しみ怯えていたことを思うと、怒りがぐつぐつ沸き上がってきた。

 俺が、どんな思いで探しまわっていたと思っているんだ。

「どんな思いで……」

 理近がぎりっと奥歯を噛んだとき、赤ん坊がぐずぐずと泣き出した。さかんに目をこすってむずかり出す。

「よしよし。ちょっと待っててね。いま服を着ちゃうからね」

 そう言って、真近はスポーツバックから真新しい下着とパジャマを取り出して、素早く身につけた。真近のパジャマ姿はよく似合っていて理近の知らない人のように見えた。

 二人はもともとパジャマなど、子供のころから着たことはなかった。小さいころは肌着で寝かされたし、すこし大きくなってからも上は肌着で、下はジャージで寝た。いまもTシャツに薄手のスエットパンツだから、昔とたいして変わっていない。真近のパジャマ姿は新鮮で、ひどく理近を苛立たせた。パジャマひとつで住む世界の線引きをされたような気がした。

 赤ん坊を泣かせておいて、真近はミルクのしたくを始めた。

 放っておかれてますます泣き声を大きくする赤ん坊の、耳にささる甲高い声に、理近んの表情は険しくなっていった。

「うるせえ。ぴーぴー泣くんじゃねえ。線路の向こうの川っ淵に捨ててくるぞ」

 我慢が切れて怒鳴ったら、さらに赤ん坊の泣き声が部屋中に響きわたった。

 その泣き声は、アパートの薄壁から筒抜けに漏れ出して、外まで聞こえた。アパートの前の道を、夜の犬の散歩に出ていた老人が、飼い犬のリードを引いてつかの間足を止めた。 ボロアパートの二階から聞こえてくる赤ん坊の、火がついたような泣き声に顔をしかめて首を傾げた。独り者しか住めない狭いアパートに、赤ん坊の泣き声は似つかわしくなかった。長いことこの土地に住み着いている老人は、老人会の会長を二年続けてつとめており、このアパートの住人についても、ある程度のことは把握していた。所帯持ちはいないはずだ。ほとんどが独身男性で、一部屋だけ偏屈な婆さんが住んでいて、何回か老人会に入らないかと誘ったことがあったが、立派な老人のくせに年寄り扱いは迷惑だと言って玄関払いされたことをよく覚えていた。

 出入りの多いアパートのことだから、ひょっとして子持ちでも越してきたのかと思って首を傾げながら犬を促した。

「行こうかコロ。遅くなると物騒だ」

 老人は、ここのアパートの二階に、時々コロをかまいにくる若者が住んでいることを知っていた。気むずかしげな老人は、渋い顔で赤ん坊の激しい泣き声がする二階をひと睨みして犬の足を早めさせた。

 そのアパートの二階では、真近が赤ん坊を抱き上げて、おろおろしながらあやしていた。

「よしよしトンチ。いい子だから泣かないでね。よしよしよ」

 赤ん坊は涙でまつげを張り付かせながら、真っ赤になってしゃくりあげて泣いていた。さかんに部屋中を見回し、理近を見ては真近にしがみついて泣き声をあげる。

「トンチ、あれは理近ちゃんだよ。僕の弟だよ。お顔が僕と似てるでしょ。ほら、にてるでしょ。怖くないでしょ」

 理近のそばによって、理近の顔に自分の顔を寄せる。赤ん坊は目を大きくして二人を見比べてから、やはり甲高い声で泣いた。

「理近ちゃん、悪いんだけど、トンチが泣きやんで眠るまで、どこかに行っててくれない?」

「何だと、ふざけんな。なんで俺がそんなことしなくちゃいけないんだ。そんなガキ、捨ててこい」

 「大きな声を出さないでよ。怖がるでしょ。赤ちゃんなんだから、優しくしなくちゃいけないんだよ。でないと、ちゃんとした大人になれないんだよ。僕みたいになちゃったら困るでしょ」

「真近みたくなってもいいじゃないかよ」

「だめだよ。僕みたくなっちゃいけないんだ。僕はだめな人間だから」

「だめな人間なんて、誰が言ったんだよ」

「お母さんだよ。おまえなんか死んでくれたらよかったのにって、いつも言ってたじゃない。いらない子だって。僕がだめだから」

「ちがう!」

 大声を上げたら、負けずに赤ん坊が泣き声を張り上げた。

「しー。理近ちゃん、怒鳴らないで。トンチがかわいそうだよ」

 抱きしめて小さな背中をとんとんしながら、真近は部屋中を歩き回って赤ん坊をあやし続けた。

 理近は自分の布団を真近の隣に敷くと、タオルケットを頭からかぶって丸くなった。

 じわじわと目頭に涙が滲み出す。惨めで悲惨な幼児期の記憶が、鮮やかによみがえってくる。なぜ母は、ひ弱な真近をあれほどいじめたのだろう。人生がうまく行かない腹いせに苛めていたのだろうか。鬱憤を真近で紛らわせていたのだろうか。真近の悲しさや苦しさを思うと、胸が締め付けられて痛くなる。忘れたい記憶なのに、刻みつけられて消えはしない。

 タオルケットをかぶって膝を抱えて丸くなり、赤ん坊をなだめている真近の、雨だれのような優しい声を聞いていた。その声は、真近が幼いころに母親からかけてもらいたかった声だったのかもしれない。優しく抱いてなだめる温もりは、真近自身が求めた温もりだったのだろう。真近はいま、赤ん坊に夢中で俺のことを忘れているとおもうと、悔しくて涙を止めることができなかった。

 稜介という男が買ってくれたパジャマも服も、真近が失踪していた時間までもが悔しくてたまらなかった。どれほど心配したか、どれほど探し回ったか、どんな気持ちで眠れぬ夜を過ごしていたか、真近に思い知らせてやりたかった。タオルルケットの中で汗まみれになりながら、意地になって丸くなっていた。

 夜も更けたころになって、ようやく赤ん坊は泣きつかれて眠った。真近がほっとしたように息をついて電気を消そうとしたとき、理近はタオルケットを投げやって身を起こした。

「どうしたの、理近ちゃん。もう寝るよ?」

「寝るよじゃないだろ。話せよ。いままでどこに誰といたんだ。話を聞かないうちは寝かさないから。俺がどんだけ心配したかわかってるのか」

 聞きたいことを全部聞かないうちは眠れないと思った。

「ごめん」

「ごめんだけかよ。それで終わりかよ」

「だから、ごめんね。僕、あの日」

「ボーナスの日だろ」

 真近の話を遮って苛立つ声を出していた。

 そばで寝ている赤ん坊が、理近のとげとげしい声にぴくりと指を動かしたので、理近は冷やりとした。また泣かれてはたまらなかった。

「そうそう。そのボーナスの日」

「牛肉買ってきたんだぞ。すき焼きにするって言っただろ。言ったよな。俺、言ったよな」

「うん、言った。したの? すき焼き」

「してないよ。おまえのせいだぞ。おまえを探し回って、肉、腐らせた。一キロもだぞ」

「うわ、一キロの牛肉。もったいないことをしたね。ごちそうだったのにね」

 二人は無言になって顔を見合わせた。じわりと二人の目に涙が盛り上がった。

「牛肉、腹一杯食わせてやりたかったんだぞ」

「ごめんね、理近ちゃん。せっかのボーナスで、せっかくのお肉だったのにね。二人で食べたらきっとおいしかっただろうね」

 真近がしくしく泣き出したものだから、理近はなにも言えなくなってしまった。理近も俯いてぽろりと涙をひとしずくしたたらせた。

「で、なんであの日、いなくなったんだよ」

「うん。理近ちゃんにね、靴を買ってあげたかったんだ。だってさ、あの日は僕たちの誕生日だったから」

「あ……」

「やっぱり、忘れてたんだ」

 ボーナスに気を取られていて忘れていた自分のうかつさに、強気で真近を責めていた気持ちがひるんだ。

「俺の靴を買いに行ってたのか」

「うん。理近ちゃんの靴、底に穴があいているでしょ。雨の日は足が濡れちゃうじゃない。あれ、ずっと気になってたんだ」

「靴なんか、べつにいいのに。それで、どうしたんだよ」

「駅を出て、迷子になった」

「あ、迷子か」

 話を聞いていくうちに、しだいに理近の声が小さくなっていった。

「でね、暗くなっちゃうし、疲れちゃうしで動けなくなっていたら、目の前をトンチを抱いた稜介が通り過ぎていったんだ。トンチがね」

 トンチがね、と言って、真近はやさしい表情を浮かべて、汗の玉を鼻の頭に浮かべて眠っている赤ん坊の頭を撫でた。

「稜介にどんないたずらをしても、稜介はぜんぜん怒らないんだ。したいようにさせているの。僕は、なんだかわからないんだけど、トンチと稜介のあとをついて行ってしまったの」

「つまり、その稜介という男にお世話になっていたというわけか」

「お世話していたのは僕だよ。僕がトンチの世話をしたから稜介は会社に行けたんだから。でも、理近ちゃんが心配しているだろうと思って、トンチを連れて帰ってきたの」

「おまえ一人で帰ってきたらいいだろ」

「だめだよ。トンチがいたんじゃ、稜介、会社に行けないもん」

「そんなの、おまえに関係ないだろ」

「だめ。トンチは赤ちゃんなんだから」

 ふわぁあ、と真近はあくびをした。時刻は午前二時になっていた。明日も会社だから寝なくてはいけない。そうは思っても、真近にはまだ聞くことがあった。

「で、稜介って、名字はなんていうんだ」

「ええと、なんだっけ。あ、坂木だ。坂木稜介。ねえ、理近ちゃん。もう寝よ?」

「あと少し。そこの家の電話番号は」

「しらない。稜介は携帯しか持っていなくて、僕は携帯の番号を知らないから」

「じゃ、住所は。家の場所はどこだ」

「知らない。わかんない」

 真近はさかんにあくびをもらしながら豊貴の隣に横たわった。

「真近、駅は出口はひとつか」

 瞼を閉じようとしている真近の肩を揺すった。

「稜介のマンションはね、桜新町の東口から歩いて……ええと……分ぐらいだよ」

「マンションの名前はなんていうんだ」

「マンションの名前はね…サン…ラ…ズ…ヤ…マ…」

「サンラズヤマか? ヤマのあとにまだ続くのか? 真近、答えろよ」

 揺すっても肩を叩いても真近は目を開けなかった。豊貴に寄り添って深い寝息をたてはじめた真近を、しばらく見下ろしていたが、やがて部屋の電気を消して理近も布団に横になった。

 真近は豊貴のほうを向いて寝ているので、理近には真近の背中しか見えない。華奢な背中に向きあって横になっている理知の胸は、久方ぶりに凪いでいた。荒ぶる怒りはいつの間にか消えて、あるべきものが自分の手の中にかえってきた幸せに、ようやく安心して眠ることができたのだった。



「じゃ、行ってくるからな」

 豊貴を抱いて立っている真近に、理近が玄関で振り向いて言った。豊貴は今朝は泣かなかった。まだ納得はしていないようだったが、とりあえず理近を受け入れたようだった。生意気にも、ぶすっとした顔つきで理近をにらんでいる豊貴の腕を掴んで、バイバイと真近が笑顔を向けた。

「行ってらっしゃい。今日もお仕事がんばってね」

「おう」

 理近は軽く手をあげて外階段をスキップするように降りていった。

 真近と豊貴が外廊下に出てきて、手すりから会社に出勤していく理近を見送る。アパートの前の道路でもう一度振り返って理近は手を振った。真近も豊貴の腕を掴んで振り回した。建物の陰になって見えなくなる前に、ちらりと見せた理近の笑顔は、晴れ晴れとしていた。

 姿が見えなくなったので、部屋に入ってのんびりと部屋の片づけをして洗濯をすませた。

 チエリが書いた『赤ん坊の育てかた』のメモを見ながら豊貴の離乳食を作って食べさせたり、おもちゃで遊んだりしているうちに昼になった。夏の暑い日盛りはアパートの中で過ごした。アパートの玄関前は駐車場になっているから広々した空間が開けているが、六畳のベランダ側はさすがに隣家の壁が迫っていた。それでもベランダの戸を開けて、玄関のドアを開ければ、いい風が吹き抜ける。クーラーはなくても、その風のおかげでなんとか過ごすことができた。

 夕方の五時頃になると、やっと日が傾いて外に豊貴をつれて行けた。おんぶひもで豊貴を負ぶって玄関に鍵をかけて外に出た。

 「トンチ、わんわんを見に行こうね。コロっていう柴犬だよ。かわいんだよ」

 背中の豊貴に話しかけながら、真近はときどきかまいに行く犬のいる家に向かった。

 その家はアパートからさして離れていなかった。

「コロは僕のこと、覚えているかな。しばらく行かなかったからね」

 おんぶひもからぶら下がった豊貴の足が、機嫌よくパタパタ動いている。他愛のないことを話しかけながら歩いているうちにその家に着いた。

 鉄のフェンスの中に放されている犬は、真近が近づいていくとゆるく尻尾を振って寄ってきた。

「コロ、コロ。元気だった?」

 しゃがみ込んでフェンスの隙間から手をいれて、頭を撫でてやるとクンクン鼻をならしてくる。

「トンチ、コロちゃんだよ。かわいいね。ワンワンだよ」

 背中の豊貴がよく見えるように体を傾けてやると、豊貴がワムワムと声を出してぴょんぴょん跳ねた。

「トンチはまだ赤ちゃんだから、動物はさわれないんだよ。もうちょっと大きくなってからさわろうね」

 そう言ってコロの耳の後ろをかきまわしている真近を、居間のレースのカーテンの隙間から老人が見ていた。老人はカーテンから離れると、テーブルに置いてある携帯を取り、町内会の役員や民生委員、老人会長などに配布されている連絡網を、電話台の横から取った。派出所の電話番号を探して番号を入力ながら、飼い犬のコロを撫でている胡散臭い男に顔をしかめた。

「もしもし交番ですか。うちの近くのアパートから赤ん坊の激しい泣き声が聞こえてくるんですけど、虐待じゃないかと気になりましてね。そこの住人は独身の若い兄弟なんですが、今まで赤ん坊がいた様子はなかったのに、きのうあたりから赤ん坊がいるんですよ。その兄弟にはよくない噂もあったりして気になりましてね。見回りにきていただけませんかね。私は吉田町で老人会の会長をしておりますから、ここいらへんの住人に関しては詳しいんですよ。こちらの住所は……」

 老人は電話を切ってから、もう一度カーテンの隙間から外を覗いた。

 真近はコロの頭をひと撫でしてバイバイと手を振って歩きだした。

 日は西にだいぶ傾いていたが、まだ空は明るくて風も幾分涼しくなってきていた。スーパーに行く途中に児童公園に寄り道した。小学生の低学年の子供たちが、ローラーボードを勢いよくこいで、円周を描きながらレースをしていた。ブランコがあいていたので、豊貴をせおったままブランコにのった。きゅんとこぐとブランコが高くあがる。豊貴がきゃわきゃわ足をばたつかせて喜ぶので、真近もうれしくなって一緒に笑った。ブランコをおりて、ゾウさんの滑り台を滑ったらまた豊貴が喜んだので、こんどはゆっくり連れてきて遊ばせてやろうと思った。スーパーで夕飯の食材を買って帰途につくころには、残照も消えかかっていた。

 スーパーの袋をぶら下げて暗くなった道を急いだ。もうすぐ理近の仕事が終わるころだ。仕事のあとは風呂に入ってくるから、かえってくるのは一時間後くらいだろうと、そんなことを考えながら建物の角を曲がって、視界に入ってきたアパートを何気なく見上げたら、自分が住んでいる二階の角部屋に警察官が二人立っていた。

 真近の顔色が変わった。こわばった顔つきのままきびすを返して、方向も考えずに走り出していた。

 怖い。

 怖い、逃げなきゃ。

 頭の中にはその言葉が渦巻いていた。覚醒剤で警察官に連行されていったときの母親の、理性を逸したような叫び声を叱りとばす、警察官の恐ろしい怒声がよみがえった。

 ひどい母親ではあったが、乱暴に押さえつけられて泣き叫ぶ姿は哀れだった。警察官への忌避は真近の心に根深く食い込んでいた。そして、理近が会社から帰宅したときには、荷物ごと真近と赤ん坊は消えていたのだった。

 流しには今夜の夕食の買い物が袋のまま置かれていた。六畳の畳の部屋の真ん中に、真近のメモが落ちていた。

――けいさつがきた りょうすけのところにいく でも ぼく なにも悪いことしてないよ ほんとだよ――。

 なぐりがきのような文字が、真近の焦燥を表していた。買ってきた食品を冷蔵庫にしまう時間さえ惜しんで荷物をまとめ、後先考えずに部屋を飛び出していったのだろう。

 理近がじきに帰ってくるというのに、理近を頼ろうとせず、一目散に逃げていった。

 理近は持っていたウサギのぬいぐるみを力なく落とした。ファンシーショップで買ってきたものだった。こんなに小さなぬいぐるみなのに、いい値段だったので驚いたが、赤ん坊が喜ぶだろうと思って買ってきたものだった。

「真近、何で警察がここに。俺だって、悪いことなんか、してねえよ」

 理近は混乱したまま崩れるように座り込んだ。

 なんでだよ。なんで警察が来るんだ。

 じわじわと怒りが噴き上がってきた。真近も自分も、これっぽちも悪いことはしていない。バカがつくくらいに真面目に生きてきたのだ。母親があんなふうだから、自分たちだけは真正直に生きていきたいと思ってやってきたのだ。それなのに、なぜ警察がやってくるのだろう。

 なにがなんだかわからないながらも、真近が理近の存在を忘れてしまって、赤ん坊を連れて稜介のところに逃げていったということが許せなかった。

 いままで、二人の心はいつも一つだった。喜びも悲しみも、苦痛さえ分けあって互いに縋りあってやってきた。それなのに、真近はいとも簡単に理近の手からすり抜けて行ってしまった。元は一つだった細胞が、二つになってしまっただけで、二つの細胞は常に一つとして存在していたのに、いきなり我が身から血肉をもぎ取られたような痛みが理近を襲っていた。

 うめき声のような嗚咽が喉から漏れた。稜介という男も、無邪気でかわいい赤ん坊も、さきほどやってきたという警察官も、なにもかもが憎かった。理近から真近を奪っていく相手はすべて憎かった。理近は畳に頭をこすりつけて髪をかきむしり、のどの奥の慟哭を必死にこらえていた。


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