4 稜介
奇妙な共同生活が始まっていた。はじめはやっかいな荷物を背負い込んだと思っていたが、けっこう拾いものだったかもしれないと思うようになっていた。
頭はとろくて、することは間抜けだが、岸田真近と名乗った男は、豊貴の面倒はよくみた。
チエリが置いていった『赤ん坊の育てかた』というふざけたメモ書きを指でなぞりながら音読し、わからない漢字があると指で漢字を指して稜介に突きつける。こんな簡単な字が読めないのかというと、困ったように首を傾げて笑った。高校ぐらい出てるんだろといったら首を横にふる。
「中卒か。中卒でも、このくらいの漢字なら読めるだろ。チエリだって書けるくらいの簡単な漢字なんだから」
漢字にぜんぶ振り仮名をふってやったら、うれしそうに笑うので、稜介も笑ってしまった。
真近の豊貴の世話の仕方はめちゃくちゃだったが、ふしぎに稜介は不安を覚えなかった。この頭のおかしい、はぐれ鳥のような男は、豊貴に危害をくわえないと、理由もなく信じた。しかし、脱いだ服は脱ぎっぱなし、食べたら食べっぱなし、出したものも出しっぱなしで、ものの三日で稜介の住まいはゴミ箱のような有様になってしまった。
会社から帰ってきて、まず最初にすることは、豊貴が機嫌よくしているか確認することだった。豊貴が稜介を見て、短い手足をばたつかせて喜ぶと、疲れていても抱いてやらないわけにはいかなくて、抱けばやはりかわいいと思ってしまう。
むき出しの手足が冷たくなっているのに気づいてエアコンのリモコンを探した。
「岸田、リモコンどこだ。部屋、冷えすぎていないか」
ちらけ放題にちらけたリビングの真ん中で、豊貴を抱きながらキッチンを振り向くと、真近は難しい顔をして冷蔵庫のドアを開けて中を睨んでいた。
「岸田、リモコンだよ、リモコン」
冷蔵庫の扉を開けたまま、つかつかと戻ってきて、足でゴミや服をかき分けはじめる。
「おまえさ、足でリモコンを探してるの?」
稜介に訊かれてこくんと頷く。ふざけているわけではなく、本人はいたってまじめだ。稜介は片腕で豊貴を抱いたまま、ネクタイをゆるめてため息をついた。
「ゴミはぜんぶゴミ箱に捨てろ。散らかしている服はまとめてソファへ放り投げておけ。雑誌はラックにしまう、使った食器は流しに持っていって洗え。さ、今から始めろ」
疲れた足取りでキッチンに行って、開けっ放しになっている冷蔵庫の扉を閉めた。
稜介だって、会社から帰ってきたら部屋がきれいに片づいていて、晩飯ができていて、シャワーを浴びてダイニングテーブルの前に座ったら、冷えたビールがででくる、などと真近に期待しているわけではない。そんなことは思ったこともない。しかし、これはひどすぎると思う。問題は、この男に、ものを覚える能力があるかどうかということだ。せめて、言われたことだけでもできればいいのだがと思ってしまう。
つかのま冷蔵庫に寄りかかってリビングをせわしなく動き回っている真近を眺めた。
大ざっぱだが、一応言われたことはできるようだ。あらかた片づけて稜介を振り向き、これでいいかというようににっこりした。
「で、リモコンはどこだ」
きょろきょろしだす真近を放っておいて、稜介は自分の部屋に行ってベッドに豊貴を寝かせた。豊貴はすぐさま寝返りを打って、ハイハイしながらベッドから降りようとする。
「あぶないなあ」
ワイシャツを脱ぎかけのまま慌てて豊貴をベッドの縁から拾い上げた。床におろすと、ハイハイで机のところまではっていって、狭いところにもぐりこんで、スタンドやパソコンのコードを引っ張って遊びだす。机の上のLEDスタンドがパソコンの上に倒れて派手な音をたてた。スラックスを脱いでいる途中だったが、机の下からいそいで豊貴を抱き上げた。キャッキャと声を上げて稜介の腕の中で動き回るのでドアを開けてやった。豊貴はハイハイしながらリビングのほうに行ってしまった。
ちっともじっとしていない。しかも目が離せない。危なっかしくてはらはらする。
稜介は舌打ちした。豊貴に腹が立つのではない。チエリにだ。チエリは昔からそうだった。
稜介はゆったりしたTシャツと涼しげな綿のズボンに着替えおわって、疲れたようにベッドに腰をおろした。
母親になんかなれないくせに子供をうんだチエリが、無性に憎らしかった。妊娠しているときから、本当に産む気があるのか疑わしくなるほど自分の体を乱暴に扱った。妊娠も流産もチエリにとってはどうでもいいことだったのだろうか。わからない。それでも豊貴は元気に生まれてきた。それが稜介には奇跡におもえた。
チエリは豊貴の母親であるというだけで、稜介にとって特別な存在になってしまった。
豊貴がいるから、チエリとは一生縁が切れない。さぞチエリは満足だろう。そのためだけに、チエリは豊貴を産んだのだから。チエリの執念に、稜介は肌寒さを覚えずにはいられなかった。
「まさに、あれは執念だ」
しらないうちに内心の思いが声になって口からこぼれていた。
チエリとは高校一年生の時からの知り合いだった。同じクラスなのに知り合いというのも変な話だが、チエリはその当時から素行が悪くてだらしがなかった。
顔は美人の部類に入っていて、体つきもバランスがとれていて美しかった。なまじ容姿に恵まれていたのがいけなかったのかもしれない。だらしがなくて成績が悪かったくせにちやほやされた。学校はさぼるし、悪い連中とつき合っているくせに、まじめな男子生徒からもよくもてた。男には好かれるが、同姓からは嫌われる典型的なタイプがチエリだった。
チエリがもてた理由の一つには、チエリの真正直さがあったと思う。良いにつけ、悪いにつけ、チエリは行動と腹の中が一つだった。自分をよく見せようとか、格好をつけたいとか、好かれたいとか、誰もがおもう媚びた嫌らしさがチエリにはなかった。そのかわり、品もなかった。
そのチエリが、高校一年で同じクラスになった稜介に一目惚れしたのだ。
一直線だった。
陰ではいろんな男と遊んでいたくせに、気持ちは稜介から離れず、誰の目を気にすることなく、稜介が好きだといい続けた。
チエリが本気で惚れ続けたのは稜介ただ一人だった。
「俺を解放してくれ」
ベッドに腰掛けたまま、背中を丸めてつぶやいていた。仕事の疲れではない疲弊がにじみだすようだった。
ベッドに腰をおろして頭を抱えていた鼻先に、エアコンのリモコンがにゅっと差し出された。
顔を上げると、真近が豊貴を抱いてにこにこ笑っていた。
「みつかったのか」
つかの間、豊貴と真近を見つめた。短い時間に、よくもこれだけ豊貴が懐いたものだとおもった。豊貴のつぶらな瞳は退屈を知らないように絶えずきらきら輝いていた。血がつながっているだけに、稜介にも似ている。突然涙ぐみそうになって稜介は慌てた。
リモコンを受け取って立ち上がった。さっき気難しげに真近が覗いていた冷蔵庫の中は、ほとんど空っぽだった。背広のポケットから携帯をとって、ピザ屋に電話してLサイズを一つ注文した。
「こんなものばっかり食べていたら体に悪いよな。おまえ、昼間、買い物に行く余裕あるか」
真近は豊貴を抱いたまま、手押し車を動かす仕草をした。
「ベビーカーか?」
盛んに頷く。
「しかたないか。チエリはいつ引き取りにくるかわからないしな」
出るのはため息ばかりだった。リビングに戻ると、部屋の中は何とか人が座れるくらいには床が見えていた。
ソファに山積みにしてある洗濯物を稜介がたたんでいると、風呂が沸いたらしく、真近が慌しくなった。
ひょいと豊貴つかまえて床に転がし、稜介が畳んだばかりの服の山からバスタオルを引っこ抜いてカーペットの上に広げ、トウモロコシの皮をはぐように豊貴を裸にすると、自分もその場で服を脱ぎ捨てて、裸がうれしくてはい回っている豊貴を抱き上げて一目散に風呂場に走っていった。
盛大な湯音とともに豊貴のはしゃいだ笑い声が聞こえてきたので風呂場を覗いてみると、二人とも頭からお湯をかぶって遊んでいた。
リビングに戻って、たたみおわった洗濯物をしまってから、食いちらかしたあとの食べかすや容器をまとめてキッチンのゴミ箱に捨て、ソファの前のローテーブルを拭いた。掃除機を持ってきて掃除機をかけているうちに、びしょぬれの裸のまま豊貴を抱いた真近が走ってきて、カーペットに広げたバスタオルの上に寝かし、くるくる体を拭き始めた。
風呂場からここまで走ってきたあとに、濡れた足跡がついていて、今も真近の体から水滴が滴り落ちて、水気がカーペットを湿らせている。
「おまえさ、いつもそうやって豊貴を風呂に入れてるの?」
たまらず声をかけると、豊貴の体を夢中で拭きながら、顔も上げずにこくこく頷いた。
「慌てなくていいから、自分の体を拭いてからにしろよ。濡れるだろ、床」
また、こくこく頷く。
「せめてタオルで腰くらい隠せよ」
そんなことにかまっていられないというようにベビーパウダーを引き寄せて、盛大に豊貴の尻にベビーパウダーをはたき始めた。
甘ったるい匂いの粉が飛び散って白いもやができる。
「つけすぎだよ。ほんのちょっと肌が乾く程度でいいんだよ」
白いもやを手で払いながら文句をいっているうちにピザが届いた。
玄関で金を払っているとき、後ろの廊下を真近が裸で走って風呂場に入っていったものだから、配達の少年が目を丸くした。
ドアを閉めるとき、少年はちらりと稜介の顔を見てから廊下の奥に目を走らせた。
「なんだかなぁ……」
髪をかきまわしながら温かいピザを持ってリビングに戻った。
豊貴は湯上がりのピカピカの頬をしてカーペットに寝転がされ、湯冷ましのほうじ茶を入れたほ乳瓶を自分で抱えて、目をとろとろさせていた。
「岸田、ピザが届いたぞ。食べよう」
呼ぶと、稜介が貸してやったTシャツとジャージのハーフパンツをきた真近が戻ってきた。小柄な真近にはぶかぶかだ。二人でピザを食べながら、稜介は名前を名乗ったきり口を利かない真近のことを考えていた。
親はいるはずだ。家だってあるだろうに。なにも話そうとしないし、それ以前になにも考えていないように見える。このままここに置いていいのかなと首をひねってしまう。
「いいわけないよな」
思わず声に出していた。
ん? というように口に持っていきかけた手をとめて真近が稜介をうかがってくる。
「いや、おまえのことだよ」
口の中のものを飲み込んでから、稜介は真近を正面から見つめた。
「おまえさ、家どこ」
首をひねって考えている真近に、笑っていいものか腹をたてるべきか困ってしまう。
「自分の家ぐらいあるんだろ?」
こくんと頷いた。
「家族が心配してるんじゃないのか? 帰らなくていいのか?」
ぴくんと真近の肩がはねた。
「家に連絡したのか?」
首を横に振ってうなだれた。
「そろそろ帰れよ。もう一週間になるだろ」
しだいに思い詰めたようなこわばりが、真近の面上に浮かんできた。
「理近ちゃん」
小さな声でつぶやくと、わななくように薄い胸板をふるわせた。そして、迷うように横で寝ている豊貴に視線を向けた。豊貴は、からになったほ乳瓶を手放して、短い手足を広げて眠っていた。真近がそっと豊貴の小さな手を握ると、眠っているのに真近の人差し指を握り返してくる。その愛らしさにみとれながら真近はじっと考え込んだ。
「豊貴のことを気にしているのか?」
真近は大きく頷いた。
「おまえのことを心配している家族のことは、気にしないでいいのかよ」
黙り込んでしまった真近をそのままにして、冷蔵庫から缶ビールとコップを二つ持ってきて、真近の前にコップを置いてビールをついだ。
「二歳だろ? 酒、飲める年だよな」
真近が思い出したようにうふふと笑った。
「家に帰りたくないのか」
とんでもないというように首をふる。
「口、きけるんだろ? しゃべれよ」
真近は、ぐっすり眠っている豊貴を抱き上げると、自分の懐にくるむようにして豊貴の寝顔に見入った。
豊貴は起きているときは盛んに動き回り、離乳食もよく食べ、ミルクも二百CCを一日二回飲む。すくすく育って、いたずらばかりしているが、眠った顔はかわいくて見飽きない。真近は、目を細めて豊貴にほおずりした。
「かわってるな、おまえ」
真近を問いただして追いつめるのはやめた。自分から話してくれるのを待つほうがいいかもしれないと思い直した。
真近は金を渡せば受け取るが、家の中にある金目のもの、たとえばクレジットカードとか、新聞の集金の残金などには手をつけない。一週間ほど様子を見ていたが、人間は正直だと思った。だから、ここにいるなら、それでもいいかとおもってしまう。それが自分本位の勝手な都合だとわかっているが、真近が豊貴をみてくれれば助かるのは事実だった。
「あした土曜で休みだから、豊貴をつれてベビーカーを買いに行こうか」
真近がぱっと顔を上げた。うれしそうに笑う。稜介はつられて笑いそうになるのをこらえた。
「おまえさ、しゃべろよな。おまえがしゃべらないと、豊貴は言葉をしゃべらなくなるぞ。母親はたえず子供に話しかけているもんだ。そうやって赤ん坊は言葉を覚えるんだ。だから、しゃべろ。話しかけろ」
真近は真剣な表情で頷いた。
「だからさ、言葉で返事をしろよ」
「う、ん」
「う、ん、か。まあいいや。それから、一日に一回、日中の暑い時間は避けて豊貴を散歩につれて行けよ。家の中にばかりいたらだめだ。外につれていって、いろいろなものを見せて、刺激を与えるんだ。話しかけながらな」
「う、ん」
「うん、だけだな。ボキャブラすくないな。豊貴と一緒に言葉の練習でもしてろ」
「う、ん」
おもわず失笑していた。
翌日の土曜日、稜介は約束どおり、少し離れたところにある駐車場から車をとってきて、豊貴と真近を乗せてホームセンターにつれて行った。
ホームセンターの二階から上は大型スーパーが入っていて、さらに上階はショッピングモールになっている。最上階はレストランとカルチャースクールの教室がある。
三階にあるベビー用品の専門店は広いスペースを占めていて、食品から衣類、おもちゃや子供用自転車までそろっていた。
真近は稜介に豊貴をあずけて、夢中になって店の中を見て回った。ベビーカーは、買い物の荷物が乗せられる頑丈なものにした。真近が子供をおぶっているマネキンのおんぶひもをほしがったのでそれも買った。紙おむつとベビーフードの補充と、簡単便利な離乳食の調理用品も買う。豊貴が目を引かれたおもちゃや絵本も買った。荷物はけっこうな量になったが、稜介は真近のための着替えの服も買って与えた。
昼になったのでレストランの入っている階に行ってトンカツを食べて帰ってきた。
休みが明けて出勤した稜介は、ニューモデル製品のパソコンのソフトウェアのプログラムのチェックに取りかかった。神経を使う細かい作業は、目を酷使するためにひどく疲れる。デスクトップ画面の細かい字面を追っていると、瞬きも忘れて目を開きっぱなしになっている。ドライアイ用の目薬はデスクの中にはいっているが、その目薬をさすこと自体忘れているのだ。キーボードを連打する軽やかな音と、電話の鳴る音に話し声が混ざりあう、職場特有のざわめきは気持ちを落ち着かせた。
そろそろ昼になる時間ではないだろうかと思って時計を見た。ついでに固くなった肩を回す。一昨日の土曜日に豊貴を連れて真近と買い物に行った時のことがふいによみがえった。トンカツにソースをたっぷりかけてほおばった真近の、うれしそうな顔を思い出して笑みがこぼれた。初めて食べたようながっつきかただった。
隣の席で、同じようにキーボードを操作していた同僚に「どうしたんですか坂木さん、今朝は機嫌がいいですね」と声をかけられた。「なんで」というと「にやにやしてる」と笑われた。
電子機器メーカーの研究室は定時を過ぎても室内の照明が消えることはない。定時など、あってないようなものだ。毎日深夜まで働いている。稜介もそうだったが、今は豊貴がいるから、できるだけ早い時間に仕事を切り上げることにしていた。
もちろんこういう状態をずっと続けるのは不可能なのだが、いまは上司に低頭しても早く帰ることにしていた。
近いうちに会社の帰りにでもチエリのところに行ってみるつもりでいる。チエリも子供を抱えて働くのは大変だろうが、だからといって一人暮らしの稜介のところに預けられたのでは、稜介が困ってしまう。
「いまは岸田がいるからいいが……」
それだって、長くは続かないだろう。そんなことを考えながら帰宅してみると、家の中は真っ暗だった。
リビングに突っ立ったまま、稜介はローテーブルの上の、チラシの裏に書かれたメモを呆然と見下ろした。
――理近ちゃんのところへ行ってきます まちか トンチ――。
「りきんちゃんって、なに」
りきんって誰だ、こいつの家はどこなのだ、住所は、電話番号は、どうやって連絡したらいいのだ。稜介は頭がくらくらした。
「俺は、岸田のことをなにも知らない」
頭の中では、やがていなくなる人間として認識していた。だが、いきなりいなくなるとは思っていなかった。いなくなるにはいなくなるで順序があると思っていた。そういう話がでてから、いなくなるのが世間の常識ではないのか。
「常識が通じる相手かよ」
俺はばかだ、と思った。あんなはぐれ鳥のような男を信用してしまっていたのだ。
「豊貴を持って行かれた」
まだ夢を見ているような気分だった。