3 理近
社員食堂で、Bランチ定食を箸でもてあそんでいる理近に、班長の河本がさっきから小言をいっていた。
理近は上の空で聞き流していたが、そういう態度が河本には腹立たしいようだった。
「聞いているのか岸田」
豚の脂身を箸で突ついている理近の横顔を見ながら、河本が何度めかの説教を繰り返した。声は完全に理近の耳を素通りしているとみて取った河本は、指で理近のこめかみを強く弾いた。
「いてっ!」
目を剥いて睨みつけてくるきかん気な目のしたに、寝不足のせいなのか隈が浮かんでいた。
「ボーナスをもらって気がゆるんだのか岸田。欠勤が増えている上に連日の遅刻とはどういう訳なんだと聞いているんだよ」
「すみません。気をつけます」
一瞬うるさそうに理近は口を歪めたが、さっさと謝って説教を逃れようとするずるさに河本は箸を置いた。おもむろにお茶をすすって、ゆっくり湯呑みを置く。理近は内心舌打ちした。髪がだいぶ白くなっている河本は、怒らせるとしつこかった。くどい説教などごめんだった。河本が感情を抑えるように、静かに置いたプラスチックの湯呑み茶碗を横目でとらえて、食事を途中にしたまま席を立とうとした。
「いままで真面目にやってきたのに、酒が飲める歳になったもんだから、ついでに悪い遊びでも覚えたんじゃないだろうな。ひどい顔色して、夜遊びでもしているのか」
「班長には関係ないでしょ」
反抗的に言い返して立ち上がった。
「心配しているんだ」
怒ったように声を荒げた河本に軽く会釈して、湯呑み茶碗を乗せたトレーを持って返却口に足を早めた。うしろで河本が、同じテーブルに座っている同僚になだめられていた。
「どうしたよコウさん。そんなに熱くなってさ。若いんだから遊びたいにきまってるだろ。無断欠勤したわけでもないんだから、そんなにガミガミ言うなって」
「ああいう真面目な奴が遊び出したら、ロクなことにはならないんだ」
「彼女でもできたんじゃないのか」
「いい娘ができて、あんなに窶れるかよ」
「まあな」
混雑している食堂から逃げるように歩き去っていく理近に、河本は寄せた眉を開こうとはしなかった。
これ以上河本に文句をいわれないように、その日の仕事をこなした理近は、終業のチャイムがなるとさっさと工場をあとにした。背中に河本の視線が追ってきていたが、振り切るように風呂場のある棟に行って入浴をすませ、会社を出ると家路を急いだ。
今夜こそ真近が帰ってきているかもしれなかった。ボロアパートが見えてきたら、二階の角部屋に明かりがついているかもしれない。
期待は理近の胸をぎりぎり締め付けていた。期待しては失望することの繰り返しだったこの一週間を、必死の思いで過ごしていた。
せめて携帯電話を持っていたらと、今更ながら後悔した。金がかかることはいっさいしなかった。電話なんかあっても仕方がない。連絡を取りたい人間なんて真近しかいないし、その真近はいつだってアパートの部屋にいて、理近の帰りを待っていたのだから。しかし、真近が失踪して、連絡のとりようのない状態になってはじめて、携帯電話を真近に持たせていればよかったと後悔した。
真近がいなくなった夜、なにか手がかりはないかと思って部屋中を調べてみたら、押入のボックスの中にしまっておいた買い置きの交通機関のICカードと、真近のわずかばかりの小遣いがなくなっていた。真近は自分の意志で、ICカードと金を持ってアパートを出ていったのだ。
なにが不足だったのだろう。なにが不満だったのだろう。そう考えると、真近にとっては、なにからなにまで不満と不足だらけだったのかもしれない。
理近は打ちのめされた。少なくとも、理近は現状に満足していた。住んでいるところは、六畳一間に四畳半の台所しかついていない狭さだが、そんなことはかまいやしない。生活だってぎりぎりだが、双子の兄弟を脅かす、精神の不安定な母親がいないだけで安心して暮らしていけた。将来の不安など、そばに真近がいてくれれば怖いことなどなにもなかった。理近の心を明るく照らすのは、邪気など欠片もない、澄んだ心の双子の兄だった。その兄が、家を出た。理近を見捨てた。そのことに、理近の脳は対処できなくなっていた。
アパートが見えてきて、二階の角部屋を見上げると、明かりもなく真っ暗だった。失望が傷心に変わった。空っぽの部屋に帰る気になれなくて、理近は駅へ引き返した。
ジーパンのポケットからICカード取り出して改札をくぐる。真近を探すためにわざわざ購入したカードだった。
行き先などどこでもよかった。真近を探すあてなどなかった。確かなことは、真近には頼る当てなどないということだ。母親は、女子ばかり収容されている地方の刑務所に服役している。母方の祖父母は、とっくの昔に亡くなっているし、親戚の話など聞いたこともない。
真近はいったいどこへ行ってしまったのか、どこでなにをしているのか、まさか広い東京の空のどこかで、ホームレスの仲間入りでもしているのではないかと思って、会社が終わるとホームレスのいそうなところを探して歩いた。死んではいないだろうと思う。理近を残して死ねるわけがないと信じている。信じなければ、頭が変になってしまうだろう。
いつのまに電車に乗ったのかも覚えていないまま、電車はどこかの地下鉄の駅で止まった。降車する人の固まりに押されて下車した。その駅は、この一週間に何度か降りたことのある駅だった。
改札を出て、地上にでると、いきなりネオンの洪水に飲み込まれた。くらくらして手の届くところにあった街路樹に手を突いて体を支えた。
ろくに睡眠もとれず、食欲もなく、真近を探して歩き回る日々の疲れが、理近をむしばみ始めていた。
「どうしたの、気分でも悪いのか」
声をかけられて頭を上げると、どこかで見たような気がする男が立っていた。
歳の頃なら二十四、五といったところで、髪を赤茶色に染めて左の鼻にピアスをつけていた。鼻のピアスで、前に会ったことがあると思い出した。煩わしくて手で追い払う仕草をした。
「なんでもないよ。行ってくれ」
「俺だよ俺。覚えてないかな。この前、一緒に飲んだだろ」
「覚えてないよ」
うるさくなって理近は歩きだした。
「なあ、まだ兄貴を探してるのか」
俺はそんなことをこの男に話したのだろうか。一瞬足を止めそうになった。男がなれなれしく肩をだいてきた。
「こうやってまた会うなんて、縁があるのかもよ。で、どこらへんまで探したの。一緒に考えてやるよ。闇雲に探したって見つからないって。東京は広いんだよ。危ないところもいっぱいあるしさ」
肩にかかる手を振り払う理近の力は弱かった。そのまま流されるように背中を押されて、路地を一本入ったところの飲み屋街に引きずられて行った。
財布の中にいくら入っていただろうか、と理近はぼんやり思った。今夜の飲み代は理近が持つことになるだろう。前回もそうだった。大切なボーナスが、この一週間でみるみる減っていった。金が減るごとに理近の憔悴に拍車がかかることになるのだが、誘われるまま酒に溺れてしまいたいとおもう自分がいた。
男は江藤と名乗った。歳は二十三歳というから、理近と三つしか違わなかったが、ずっと年上に見えた。江藤は世間ずれしたすえた臭いがした。理近の生活の中では出会いそうもない世界の住人だった。
江藤が連れていったバーは真っ黒な外装の店で、黒いドアの上部に紫色のペイントで「BOUVET」と書かれており、上からその文字をスポットライトで照らしていた。
なんと読むのかわからない店は、入ってみると、足下もわからないほど照明を絞ってあって、四人掛けのボックス席が三つと、とまり木が七つ並ぶバーカウンターがあった。
五十はすぎているように見えるバーテンダーが一人、ワイシャツの襟を広げて黒ベストをつけ、大きな角氷を長く鋭いアイスピックで砕いているところだった。
ちらりとこちらを見たバーテンダーに、江藤は「よお」と気安く手をあげて、カウンターと反対側のボックス席のほうに歩み寄った。
ボックス席には江藤の仲間が二人座っていて、ウイスキーのグラス片手にふざけあっていた。
「なにじゃれてんだよ、おまえら」
江藤は理近を奥のほうに押し込むように座らせると、自分は出口をふさぐ位置に座った。
「新顔連れてきたのかよ江藤」
顎の張った男が江藤に笑いかけてから、なれなれしく理近の顔をのぞき込んできた。
「なにしけた顔してんのよ、にいさん。そんなんじゃ幸せが逃げてくよ?」
「けっ、きいたかよ。幸せが逃げてくだとよ。いまどき、そんな臭いこと言うやつ、いないぜ」
アロハシャツの半袖から伸びている二の腕一面に、タトゥーを入れた男がケラケラ笑った。手にしていたグラスの酒がこぼれそうに揺れた。
「マスター、ビールちょうだい。二つね」
江藤が理近のぶんも勝手に注文した。
「ねえ、にいさん、麻雀すき?」
顎の張った男が訊いてきた。
「来たそうそう、がっついてんじゃねえよテツ」
江藤が顎の張った男、テツの頭を軽くはたいた。
理近は麻雀というゲームのやり方を知らなかった。ゲームセンターとパチンコ屋は真近と一緒に以前冷やかしに入ったことがあったが、生きていくのに精一杯の理近には、世間一般の遊びごとなど無縁だった。
しゃれたグラスにつがれたビールがテーブルに運ばれて、江藤は早速ビールをとって飲み干した。水を飲むような飲みかただった。
このビール一杯でいくらするのだろうかと思った。理近には贅沢な飲み物だった。
「どうしたんだよ。ビールは鑑賞するものじゃないぜ。ぐっとあけろよ」
笑い上戸らしいタトゥーの男がウイスキーのグラスをくるくる回しながら言った。やはり酒がこぼれそうだったが不思議なことに酒はこぼれなかった。
「早く飲めよ。そんで、奥の部屋へ行こうぜ」
テツがじれったそうに膝を揺らした。理近は嫌な予感がした。
「奥の部屋って、なんだよ」
警戒するように眉を寄せた理近に、江藤たちが顔を見合わせてにやにや笑いあった。
「マスター、ビールおかわりね」
江藤がカウンターに向かって声を上げると、テツもグラスのおかわりをした。
理近はビールには手をつけずに、江藤を押し退けるようにして席を立とうとした。江藤とテツが両脇から理近を押さえこんで椅子に体を押し戻した。タトゥーの男が、おもしろくもないのに大げさな笑い声をあげた。江藤がビールのグラスを取って理近に押しつけてくる。
「飲めって。ぬるくなったらまずいだろ」
暗いなかで江藤が笑いながらすすめてくるが、糸のように細い目は笑ってはいなかった。仕方なしに飲んだ一杯のビールが、咽を滑って胃に落ちると、疲れた体にたちまちアルコールが回った。
二杯目が運ばれてくると、理近は自分からグラスを取った。飲酒の習慣がないので、ビール程度のアルコールでもよく効いた。縮こまって堅くなっていた気持ちがふわりと雲の上に浮かんだようで、解放感と快感に理近は簡単に警戒心を手放したのだった。