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無言の情景  作者: 深瀬静流
2/12

2  稜介

 弟が呼んでいるような気がして真近まちかは顔をあげた。

 派手なネオンの原色が夜に輝きを増し始めていた。人いきれで蒸しあがった空気は夜になっても息苦しく、喉の渇きと空腹があいまって頭がくらくらした。しかも雑多な音量ががんがん耳を叩いて疲労に拍車をかけた。

 行き交う人にぶつかったり、突き飛ばされたりしながら、真近は必死に先を歩いている男を追っていた。

 背が高くて痩せぎすな二十八歳くらいの男は、半袖の黒のTシャツにストレートジーンズという平凡な服装で、くっきりとした眉ときつい目つきが印象的だった。

 その男は赤ん坊を抱いていた。生後九ヶ月くらいの赤ん坊を右の腰に跨がせるように抱えてすたすた歩いていく。赤ん坊は、夜だというのに男の腕の中で機嫌よく動き回っていた。

 髪を両手でわしづかみして引っ張って口に入れてみたり、男の耳にかじりついたり、Tシャツの襟をつかんでのけぞったりしていた。

 半袖のベビーウエアからのぞいている赤ん坊の手足はまるまるとしており、その足は絶えずばたばた動きまわって男の体を蹴っていた。

 赤ん坊が両手の平で男の顔を叩いてきゃっきゃと笑っているのを見たとき、真近は吸い寄せられるように男と赤ん坊のあとを追っていたのだった。

 けさ理近が、今日はボーナスの日だからすき焼きにしてやるといって、元気に出勤していったが、理近は今日が二人の二十歳の誕生日だということを忘れているようだった。真近は誕生日を覚えていた。一生懸命働いて頑張っているけなげな弟に、スニーカーをプレゼントしてあげたかった。

 頑張りやの弟は、底の抜けたスニーカーを買い換えることも惜しんで日々の生活をやりくりしていた。晴れているときはいいのだが、雨だと水たまりをよけて歩いても雨水がしみこんで足をぬらした。真近は密かにそれが悲しくてならなかった。真近のことなどかまわなくていいから、もっと自分を優先させてほしかった。なにもかも弟の世話になって生きている自分を疎ましく思って、消えてしまいたいと思うことがたびたびあった。

 押入の中のカラーボックスにしまってあるJRのICカードと、理近がくれるわずかばかりのこずかいを貯めた金を持って真近は電車に乗った。

 人であふれかえった大都会の駅前の雑踏に驚いて、改札を出たあたりでしばらく呆然と立ちすくんでいたが、やがて歩きだした。そのときには、すでに理近のスニーカーを買うという目的は忘れ去られていた。

 林立する華麗なビル群と車の流れ、人の多さと色彩と喧噪の氾濫に飲み込まれて、自分を失っていたのかもしれない。目的もなく人の流れに乗って歩き回った。気がつくと、すっかり日が暮れていた。思い出したように疲れと空腹が押し寄せてきて、真近は歩道のすみにしゃがみ込んでしまった。

 のどが渇いていた。汗は干上がり、体はべたべたした。金は持っているのに、自動販売機で飲み物を買うという知恵も浮かばなかった。

 疲労と空きっ腹を抱えて力なくうなだれていると、理近の呼ぶ声が聞こえたような気がして顔をあげた。そのとき、その男が赤ん坊を抱いて目の前を通り過ぎていったのだった。

 なんの変哲もない男だったが、風俗店が並ぶ夜の歓楽街を、赤ん坊を抱いて歩いているのが異色だった。

 男は前方を睨みつけるようにして迷いのない足取りで歩いていた。軽々と赤ん坊を片腕で抱き上げ、人の流れの中を水を切るように歩いていく。男はおもいだしたように後ろを振り返って真近がついてくるのを確認すると、めんどくさそうに舌打ちした。

 チラシ配りの男の手をかわしながら歩いていた男は、雑居ビルの地下にあるキャバクラの看板の前で足を止めた。店の名前を確認するように、まぶしい照明の看板を一睨みしてから地下への階段を無造作に降りていった。

 真近は歩道に出してある店の電光看板脇にしゃがみ込んだ。時計を持っていないので何時頃かはわからないが、とっくに夕飯の時間は過ぎているだろう。理近が心配しているだろうと思って真近はべそをかいた。もう帰り道もわからなくなっていた。

 持て余すほどの疲れに力なく膝を抱えてしゃがみこんでいると、男が降りていったキャバクラの階段下が騒がしくなった。

 若い女のわめき声に男の押し殺した罵声が被さる。もみ合うような足音が階段下からのぼってくると、髪を振り乱した女が道路に転がりだしてきた。赤ん坊を抱いた男が女の首根っこを掴んで放り投げるように突き飛ばしたのだ。

「なにすんのよ、稜介」

「おまえに子供を返しにきたんだよ」

 稜介と呼ばれた男が言い終わらないうちに、黒のベストを着た男がかけあがってきて、手慣れた動作で稜介の腕をねじってあっという間に締めあげた。

「店の前で騒がれると困るんですよね。下で話を聞きましょうか。それともおとなしく帰ってもらえますかね」

「放せ。俺はチエリに用があるんだ」

 後ろ手に取られた腕をもぎ離そうとして店の男と揉み合いになり、片腕で抱いていた赤ん坊が今にも振り落とされそうにぐらぐら揺れた。

 赤ん坊が火がついたように泣き出した。怯えてしがみつこうと両手を振り回す赤ん坊の甲高い鳴き声と、もみ合っている男たちの恐ろしい形相に真近は怯えた。

 女がものすごい勢いで稜介に飛びついていった。

豊貴とよきをよこして。豊貴が振り落とされちゃう。稜介、子供をはなしてよ」

「店の前で赤ん坊を泣かせてくれるなんて、しゃれたまねをしてくれるじゃないですか」

 店の男が本気で怒りだしたのがわかったのか、赤ん坊がひきつったように声を張り上げた。

「離せよ、この腕。あぶないだろ」

 稜介の腕に力が入ったのだろう、赤ん坊の泣き声が呼吸困難のような異常な泣きかたに変わった。

「豊貴! 豊貴!」

 女が稜介から赤ん坊をもぎ離そうと力任せに引っ張りだした。

「やめろチエリ、豊貴が痛いだろ」

「だったら豊貴をはなしてよ」

 店の男がうるさそうに女の腹を蹴って突き転がした。

「チエリ!」

 稜介の声がひときわ大きく響いた。

 真近はわなわな震えていた。豊貴のひきつけを起こしたような泣き声は、真近の幼い頃を思い出させた。真近兄弟に父親の記憶はなかった。いつも酔っぱらっている母親が、些細なことでひ弱な真近に当たり散らして口汚く罵り叩く記憶しかなかった。

 真近も目の前の豊貴のように、涙と鼻水を吹き出して、なすすべもなく泣いていた。真近が泣くと決まって理近も同じように泣いた。それが母親にはうるさくてたまらなかったのだろう、何度も平手で顔といわず頭といわず、気がおさまるまで叩かれた。

 幼児期に受けた母親からの折檻は真近に染み着いていた。と同時に、同じように火がついたように泣いていた弟の理近が、小さな体を真近にかぶせて母親の折檻から庇ってくれたことも心にやきついていた。

 目の前で起こっている光景は、つかの間真近を幼い過去に引き戻した。泣きやませなければ呼吸困難で死んでしまうのではないかと思うほど激しく泣いている豊貴が、幼い頃の自分自身に見えた。

 助けなければ。

 理近ちゃんが僕を助けてくれたように、この子を助けなければ。

 ぷかりと頭に浮かんだ思いは本能的なものだった。考えるより早く体が動いていた。真近はもみ合って怒鳴りあっている三人の中に飛び込んでいって、豊貴を稜介から奪い取っていた。

「あ、なにするんだ。おいこらぼうず、豊貴を返せ」

 稜介が後ろで叫んだが、真近は脱兔のごとく豊貴を抱いて走り出していた。

「稜介、あいつを捕まえて」

 チエリの驚愕した叫び声も聞こえた。

 真近は振り返りもせず夢中で走り続けた。





 豊貴を風呂に入れてミルクを飲ませ、やっと泣かしつけて、坂木稜介さかきりょうすけは一息ついた。

 毛布をたたんでシーツで包んだ簡易ベビー布団を自分のベッドの足元において、そこに豊貴を寝かせている。バスタオルを腹にかけて寝ている乳児の寝姿は無邪気でかわいいものだったが、疲れきっていた稜介は豊貴の寝顔を見る気にもならなかった。

 チエリが稜介の留守の間に勝手に豊貴を置いていったのが三日前だった。会社から帰ってくる時間を見計らって置いていくのだからたちが悪い。マンションの鍵は誰にも渡していなかったので、どうやって稜介の留守中に入ったのかと思ったら、泣いている豊貴をあやしながら鍵屋を呼んで、ドアの鍵を付け替えさせるという荒業をやらかしたらしい。鍵屋は鍵を失くして困っている若い母親が、この部屋の主婦ではないなどと思いもしなかったのだろう。

 生後九ヶ月の赤ん坊を、誰もいないマンションによく平気で置いていけたものだと思う。もしも何かあったらどうするつもりなのだろう。もっとも、そんな常識的なことを考えられるようなヤツだったら、赤ん坊を勝手に家においていくようなことはできないだろう。チエリだからそんなことができるのだ。おかげで会社を三日も休んでしまった。

 怒り心頭に発した稜介は、チエリの職場のキャバクラに乗り込んだのだが、そのときおかしな若者がついてきているのは知っていたが、その男にいきなり豊貴を横取りされて驚いてしまった。

「あの男はなんなんだ。頭おかしいだろ」

 つぶやきながら寝室を出てリビングへ行き、対面式キッチンに入って冷蔵庫をあけた。

「ビールがない」

 冷蔵庫の中には水のペットボトルと食いかけの食パンとマーガリンと卵とマヨネーズと干からびたハムが数切れ入っているだけだった。

 腹立ち紛れに乱暴に冷蔵庫の扉を閉めた。

 慣れない豊貴の世話に追いまくられて生活がめちゃくちゃになっていた。風呂上りにビールが飲みたかったのに、ビールの代わりのように豊貴の粉ミルクの缶や離乳食の瓶詰、紙おむつなどがごっそりキッチンのすみに置いてある。チエリが置いていったものだ。

 シンクの中の洗いものの食器の山にうんざりしながら、足の指で雑巾をつまんで汚れた床をこすった。

 リビングの壁時計にちらりと目をやって、まだ十二時になっていないのを確認すると、ソファに脱ぎすてたジーンズをはきなおして玄関に向かった。近くのコンビニでビールを買ってくるつもりだった。

 サンダルを突っかけて外廊下の通路にでる。夜中になっても生暖かい夜気が、重く体を包んできた。どこから飛んくるのか薮蚊が一匹、稜介の首の周りにまとわりついてくる。マンションの前の道路をけっこうな乗客を乗せた最終バスが走り去っていった。

 頬にたかった蚊をはたいてからドアに鍵をかけようとしてぎょっとした。豊貴を掻っ攫って逃げていった男が、外廊下の常夜灯の明かりの下で、ドア脇の壁にもたれてだらしなく眠っていた。

「びっくりさせるなよ、おい」

 思わず声を張り上げると、眠そうに目をこすりながら見上げてくる。

「寝てたのかよ。冗談よせよな。ここまでついてくることないだろ。家に帰れ、目障りだ」

 稜介は呆れながら叱るように言った。

 豊貴を抱いて走り出したこの若い男のわけの分からない行動に、いまさらながら首を傾げたが、同時に怒りも戻ってきた。

「帰れ!」

 声を荒げた。しかし、ぽよんとした顔つきをして立とうとしない。

「警察に通報するぞ」

 それはいやだというように弱々しく首を振った。

「じゃあ、さっさと消えろ」

 すると、情けない顔をして腹をさする。

「まさか、腹へってるとかいうんじゃないよな」

 若い男は、こくこくと頷いた。

「しょうがないなあ、じゃ、おつかいにいってこい。そこの道路沿いにあるコンビニでビールを買ってこい。買えるだけ買ってこいよ。そしたらカップラーメンぐらい食わせてやる」

 そういって、ポケットから千円札を二枚ほど渡した。金を受け取ってマンションの前の道路を左に歩きだす男を、二階の外廊下から見送ったあと、稜介は首を振り振り部屋の中に戻った。

 二千円を掴んでそのまま消えてくれればいいと思ていた。いつまでもマンションの壁にへばりついていられたのではかなわない。残念だが今夜はビールをあきらめて寝てしまおうと思った。

 寝室にいって、豊貴をおこさないようにパソコンが置いてある机の電気スタンドをつけた。小学生の頃から使っている年代物の机に置いたパソコンを開き、メールのチェックをした。仕事関係のメールが三件と交友関係のメールが二件入っていた。仕事のメールに返信を送信し、交友関係の遊びの誘いは無視した。

 静かな室内にキーボードを操作する軽快な音が流れる。その音にかすかな雑音が混じっていることに気づいて稜介は指の動きを止めた。耳を澄ませると、その物音は隣のリビングキッチンから聞こえてくるようだった。

 部屋を出てすぐのとことにある玄関を見るともなく見ると、洗ってはあるものの古びたスニーカーがきちんとそろえて靴脱ぎのはしに置いてあった。その靴はコンビニに使いにやった若い男のものだった。

 廊下にいると、物音はよく聞こえた。リビングから、カサコソとネズミがポリ袋を引きずるような音がする。消したはずの照明もついている。先ほどの若いのが、ソファの前のローテーブルの前に正座して、缶ビールを三本テーブルの真ん中にうやうやしくならべ、牛乳を飲みながらカレーパンをむさぼり食っていた。

 憮然としながらリビングに入っていった稜介に、釣り銭とレシートを差し出してくる。

受け取ってレシートを見ると、わたした二千円でビールを三本買って、自分の菓子パン三個と牛乳と、ちゃっかりデザートのプリンまで買っていた。

 文句を言う気力もなくして稜介は、若いのの正面に腰をおろし、缶ビールのプルトップを開けた。

「おまえ、家はないのかよ」

 聞こえないはずはないのに、返事をしない。舌打ちしながらビールを半分ほど一気に飲んだ。

「家出でもしたのか。行くところがなくて、あんな風紀の乱れたところでうろついていたのか」

 話しかけても顔を上げず、がつがつと三つ目のソーセージパンを食べ終えて、パックの牛乳を飲み干し、若いのは大きく息をついた。

「名前はなんていうんだ。名前だよ。おまえ、耳は聞こえてるんだよな。それとも、口が利けないのか、どうなんだよ」

 いらいらと早口でまくし立てる。稜介も疲れがピークに達していた。

「まちか」と、消え入りそうな声が聞こえたので「町か、てなんだよ。町にきまってるだろ。おまえ、どこの田舎から出てきたんだよ。家出か。家出してきたんだな」

「なまえはきしだまちかです」

 一瞬だけ稜介と視線を合わせてすぐそらした。たどたどしい幼稚園児のような話し方に稜介は顔をしかめた。どかの養護施設から逃げ出してきたのかもしれないと思った。

「食べ終わったのなら帰れよ」

 面倒はごめんだとばかりにいうと、真近は怯えたように肩をすくめた。

「もう寝るんだから帰れっていってるんだよ」

 途方に暮れたように真近の目つきが泳いでいた。これはヤバいなと稜介はいやになった。なにがヤバいのかははっきりしないが、なんとなく、やっかいな荷物を誤配達で受け取ってしまったような苛立ちを覚えた。送り返したくても受け取ってもらえそうにないガラクタを押しつけられた気分だった。

「岸田、家族はいるんだろ?」

 期待せずにたずねてみたら、真近ははっとして顔をあげた。

「理近ちゃん」

 真近の小さな小さなつぶやきは、隣の寝室でおこった乳児の甲高い泣き声に消されてしまった。

 理近が心配しているから帰らなければと腰が浮いたところに、豊貴のサイレンのような泣き声をきいたものだから、一瞬にして理近が豊貴に取って代わってしまった。

 真近はリビングを飛び出して廊下に出ると、赤ん坊の泣き声に吸い寄せられるように、稜介の寝室を開けていた。

 壁のスイッチをさがして照明をつけると、かけてあったバスタオルをはだけて両手両足をばたつかせながら豊貴がギャンギャン泣いていた。

 八畳の洋間は、ベッドとパソコンの乗った机と、本棚と洋服ダンスに整理ダンスなどが配置よく置かれていて、脱いだ服や靴下が散らばっている以外は整頓されていた。

 真近はベッドの下に敷いてある布団から豊貴を抱き上げた。

「トンチ、トンチ、トンチ」

 豊貴をトンチとよびながら背中を軽くたたいてあやしてやると、豊貴は真近の顔をちらりと見て、さらに声を大きくして泣いた。

「人見知りするんだよ」

 後ろで稜介の声がした。がしがしと髪をかき回しながら部屋に入ってくる。手にはおしゃぶりを持っていた。

「夜泣きだ。寝られないぞ、うるさくて」

 下の歯が二本生えかっている豊貴の口におしゃぶりをくわえさせるが、豊貴はいやがっておしゃぶりを吐き出してしまう。

 エアコンがきいているのに、真っ赤になって汗を浮かべて泣いている豊貴を、真近は懸命になだめた。

「おまえ、かわってるな」

 稜介はベッドにゴロリと横になると、肌掛けをたぐり寄せて枕を調節した。

「俺は寝る。この布団をリビングに持っていって、おまえは豊貴と寝ろ」

 とたんに真近はうれしそうに目を細めた。

 泣いている豊貴をひとまず稜介の隣に寝かせて、大急ぎで布団を丸めてリビングに持っていった。とって返して、豊貴を抱き上げて部屋の電気を消していなくなった。

 とことこと走り回る足音をききながら、稜介は「だいじょうぶかな、あいつ」とつぶやいた。

 豊貴の世話ができるのだろうかという心配ではなく、どこの誰かもわからない、おかしな人間を家の中に入れたりして、まずかったかなという不安だったが、猛烈な睡魔に負けた。

 眠りに飲み込まれる寸前、リビングから豊貴の泣き声に混じって、そこらじゅうの引き戸を開け閉めする振動と、戸棚をひっかき回すうるさい物音が聞こえた。

「まずかったかな……」

 泥のような眠りに落ちる寸前、そうつぶやいた。チエリに豊貴を置いて行かれて、三日間ろくに眠っていなかった。頭の弱そうなおかしな男に、金目のものを持って行かれるかもしれないと言う不安も、疲労と睡魔には勝てなかった。



 翌朝、目が覚めたとたん、枕元の目覚まし時計を掴んで、稜介は目を剥いた。

 時刻は六時五十分。

「やばい」

 遅刻しそうだ。

 腹に絡まっていたタオルケットをはぎ取ってベッドから両足をおろし、立ち上がろうとしたときになって、やっと夕べのことを思い出した。

「そうだった。あのガキ」

 ガキとは豊貴のことではなくて真近のことだ。ベッドから飛び出してリビングへ行ってみると、ローテーブルの上には、キッチンから持ってきたベビーフードの瓶詰めがいくつも食い散らかされて転がっており、テーブルやカーペットにぺたぺたのペーストがこぼれていて、歩くと素足にぬるついた。

 ティッシュは箱一つ抜き取ったらしく、部屋一面にティッシュが散らばり、キッチンの引き出しから持ち出してきたらしい布巾が何枚も汚れたままで散らかっている。異様な臭いがすると思ったら、汚れたままの紙おむつが、広げたままの状態で床の上に放り投げられていた。

 みるみる稜介の顔が赤くなっていった。

「くっせえなあ! この臭いのを何とかしろ。クソだらけの紙おむつぐらい始末しろ。こんなに散らかしやがって。掃除しろよな。散らかした部屋を元に戻せ。本気で寝てるんじゃないぞ。こら」

 豊貴を抱いてソファで眠りこけている真近を怒鳴りつけ、思い切りソファの足を蹴飛ばした。

 がくんと揺れて、豊貴はピクンと体を揺らしたがそのまま眠り続ける。真近は薄く目を開けた。

「おまえはアホか。歳、いくつだ」

 もう一度ソファを蹴られて、しぶしぶ真近は指を二本立てて稜介に示した。

「二歳か、おまえは二歳なんだな」

 うふふと真近が声を立てずに笑った。笑いながら目を閉じて豊貴の頭に頬をつけて眠ろうとする。

「だから、寝るんじゃないっていってるだろうが。紙おむつの始末をしろっていってんだよ」

 稜介がソファを蹴っても、こんどは目を開けなかった。規則正しい寝息が聞こえてくる。ひどいありさまの室内を眺めわたして稜介はあきらめた。部屋の散らかりかたは、昨夜の真近の格闘の跡なのだろう。

 たぶん、乳児の世話などしたことのない二十歳の若者は、なにをどうしていいのかもわからないまま、夜泣きで泣き続けている豊貴をなだめるため、思いつく方法のすべてを試した結果が、これなのだろうと思った。

 汚れた紙おむつを拾ってトイレに行き、便器の中に固形物だけ捨てて流し、キッチンに戻ってビニール袋の中に紙おむつを丸めて入れ、ゴミ箱の中のゴミと一緒に始末して玄関に持っていった。大急ぎで出勤の支度をすませ、ネクタイを結びながらリビングに戻って、腕にかけたスーツのポケットから財布を出して千円札を三枚抜き、ローテーブルの上に置いた。

「おい岸田。ここに三千円を置いていくからな。これで今日一日なんとかしてろ。それと、チエリが置いていった『赤ん坊の育て方』のメモも置いていくから、これを読め。俺は会社に行く。聞こえたか」

 返事もせず、気持ちよさそうに眠っている真近と豊貴をひと睨みして、稜介は玄関にいそいだ。玄関に置いてあったゴミ袋を掴んで外にでると、エレベーターは使わずに建物の側壁の階段を二階から駆け降りた。

 ごみ集積所のネットの中にゴミ袋を放り投げた頃には、真近と豊貴のことは頭から消えていた。三日間の休みのあいだにたまった仕事の量と、機嫌の悪い係長の顔が脳裏をよぎった。今日は残業決まりだな、と胸の中で呟く。バスを待つ行列の最後尾に並んだとき、ちょうどバスがバス停に入ってきた。冷房が効いていても混みあうバスの中は、触れあう乗客の体熱で蒸し暑い。吊革に掴まる隙間もないほど混みあったバスに揺られて駅に吐き出された頃には、頭の中は仕事のことでいっぱいになっていた。


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